オルビス達とすっかり話し込んでしまったのか、帰る頃には日が傾き始めていた。彼らと別れて貧民街を殿下とゼフと3人で歩く。相変わらず殿下は手を離してくれない…………男性と手を繋ぐ事に慣れていない事もあって、むずがゆい気持ちを隠せない。
「……殿下…………そろそろお手を離していただいても一人で歩けますわ」
私はにっこり笑いながらそう告げた。でも殿下が手を離してくれる気配は全くない。それどころか足取りは早くなるばかりで、一刻も早くここを出たいのだと伝わってくる。
「あの…………こんなところに一人で来てしまって、申し訳ありません。まさか殿下が来ているとは思わず…………」
私がそう言うと、殿下はピタッと止まってしまう。
「……………………では、私が来ていなかったら…………ここだけではなく、教会にも乗り込んでいたのか?」
「…………………………」
これはどう言えば正解なんだろう。私はすっかり答えに困ってしまった…………私の本音はYesだ。正直この領地に来たのも貧しい子供たちの生活改善の為に来たわけだし、自分の領地で不正が見つかってそれを見過ごす選択肢はない。
今はもう王太子妃になりたいだなんて微塵も思っていないし、領地経営が私に残された道であると共に私がやりたい事なの。この思いを殿下にぶつけてしまう事は、すなわち王太子妃候補を辞退したいと言っているのと同じ…………
「……君は私の婚約者だ。こんな危険な事をやっていい立場ではない。そんな事が分からない君ではないはずだ…………」
「そう…………ですわね……………………でもこれは、私の使命だと思っております。公爵家に生まれた私の……」
「君の使命は…………っ」
そこまで言って、殿下は黙ってしまった。殿下は薄々分かっているのかもしれないわね……私が王太子妃としての務めより、領主の娘としての務めを優先している事を………………
「………………はぁ…………躾のなっていない猫には、主からの調教が必要だな」
「え?」
殿下が溜息と共に不穏な言葉を放ったと同時に私を横抱き、いわゆるお姫様抱っこというヤツをしてスタスタ歩き始めた。
「きゃ?!で、殿下?!!」
「……殿下ではない。ヴィルだ」
「………………ヴィル……何を…………」
お姫様抱っこなんて私の記憶をたどる限りされた事もないし、前世の世界ではもちろんあり得ない。そして私の問いには答える素振りもなく、殿下はゼフの方に向き直った。
「私たちは先に行くぞ。そなたは後から来るように。我々が去った後、少し見回ってくれ……私の正体がここ以外でバレていたらまずいからな」
「は。仰せのままに」
そう言って私をお姫様抱っこしたまま、また歩き出した。気まずさを抑えて抱かれたままいると、入口付近に美しい白い馬が繋がれているのが見える。どこからどう見ても普通の馬には見えない。まさか自身の馬で駆けつけたの?どうして…………私が疑問に思っていると、豪華な馬装の鞍部分に私を横向きにそっと乗せ、手綱を解いた後、自身も後ろに跨った。
「マナーハウスに着いた時に君がどこにもいなくて、家令に問い詰めた。ここの話をされた時に私がどれだけ驚いたか…………」
「殿下…………」
「ヴィルだ」
「……申し訳…………」
謝ろうとすると私の唇にそれ以上何も言わせないとばかりに自身の人差し指を当て、遮ってくる…………そして殿下は、自身の親指で私の下の唇をゆっくりなぞり、顔を近づけてきた……え………………これってキスされる?!
思わずぎゅっと目を瞑ったのだけど、何も起きない。
そっと目を開くと、すぐ近くに苦しそうな殿下の顔があった。何かに耐えるような顔………………殿下は自身の顔をふいッと前に向けると、私の唇に触れていた手はゆっくり離され、手綱を握った。
「………………まずはマナーハウスに戻ろう……」
絞り出すかのような声はそっと風に消え、馬は走り出し、スピードを上げていく。
あのままキスされるのではないかと思った私は、勘違いだった事に恥ずかしさでいたたまれない気持ちになった…………恋愛偏差値低すぎるわね………………体中の熱が顔に集まっているんじゃないかってくらい顔が熱い。
この人はこれから現れる聖女に惚れて、結ばれるんだから。
もはや恥ずかしさなのか、ただ単にドキドキしているのかは分からないけど、前世の私なら動悸、息切れを起こしてしまいかねないわね…………肉体が若くて良かった。マナーハウスに戻るまでに落ち着かせようと必死に頑張ってみたものの、こういう事に免疫のない私には抗う術はなく、終始心臓が痛いままだった。
恋愛偏差値って大事ね…………この世界で生きていくには、確実にスルースキルが必要だと切実に思ったのだった。