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第22話 遺品と慰め

数枚の薄い便箋には、祖父から莉子への尽きることのない思いと切なる期待が、ひと文字ひと文字丁寧に綴られていた。


手紙を読み終えた九条莉子の頬には、涙が溢れ続け、声も出せないほどだった。


彼女は手紙を胸にしっかりと抱きしめる。


――おじいちゃん、私は今とても幸せに暮らしているよ。もう心配しないで――


伊藤健太は静かに視線を逸らし、そっと彼女に時間を与えた。


莉子は赤く腫れた目元を手で拭い、「すみません、お見苦しいところを…」と小さな声で言った。


「お気になさらず。誰にでもあることです」と伊藤は穏やかに返す。


「九条さん、こちらの株式譲渡契約書にご署名をお願いします。これは早坂健一郎様が、必ずご結婚後にお渡しするよう特別にご指示されたものです」


莉子の視線は机の上のもう一枚の書類に止まる。それは祖父が最期まで手放せなかった思いであり、彼女の将来のために用意された道だった。


早坂株式会社の株式10%。これだけで一生、不自由なく暮らしていける。


ようやく落ち着きかけていた感情が再び込み上げ、莉子は涙を堪えながら、静かに署名した。


伊藤弁護士を見送り、莉子は寝室の奥から小さな木箱を取り出す。


その箱は、幼い頃から大切にしてきた宝物だった。


鍵を使って蓋を開けると、中には幼少期からの写真がぎっしり詰まっている。どの写真にも、祖父の優しい笑顔があった。


その他にも手作りの小物や思い出の品々が並ぶ。どれも祖父と一緒に作ったものばかりだ。


これは帰国してすぐ、早坂家の倉庫から探し出したもの。幼い頃に祖父と一緒に作った大切な木箱だった。


祖父が療養院に入ってからは、莉子も早坂家に移り住み、辛い日々の中でこの箱だけが唯一の慰めだった。


彼女は星や折鶴をたくさん折っては、祖父の回復を心から祈った。


けれど、癌という病は人の力ではどうにもならなかった。


結局、病魔は祖父を連れ去り、莉子は最後の別れすらできなかった。


色褪せた写真や懐かしい品々にそっと指を滑らせると、また涙が頬を伝い、写真を濡らしていく。


一番古い写真は4歳のとき。風船を持ち、祖父の隣で微笑む彼女の足元には、飼い犬のアワンがいる。陽射しの降り注ぐ庭で、向日葵よりも明るい笑顔を浮かべていた。


ベンチに座る祖父は、まだ髪も白くなく、若々しさが残っている。


彼女にとって、何より大切な人だった。


けれど、早坂家の冷たさのせいで、最後の別れも叶わなかった。


莉子の微笑みはどこか寂しげだった。早坂家には一億円の身代金など惜しくもないはずなのに、国雄は決して出そうとしなかった。


きっと、彼らにとって自分の存在は最初から価値のないものだったのだろう。


最後の家族写真に触れる。高校の制服姿の自分はまだあどけない。その写真の中で、自分を大切に思ってくれた人は、もういない。


廊下には美味しそうな夕食の香りが漂っていた。直樹がエレベーターを降りると、すぐにその匂いが鼻をくすぐる。


部屋のドアを開けると、食卓には手間のかかった和定食が並び、花瓶のクチナシにはまだ朝露が残っていた。


だが、直樹が会いたかった人の姿はリビングになかった。


寝室からは、かすかに抑えたすすり泣きが聞こえてくる。直樹は眉間の険しさを消し、その声の方へと歩み寄った。


窓辺のベンチに莉子が膝を抱え、古びた木箱を前に写真を手にしていた。


外からの風がカーテンと彼女のスカートを揺らし、どこか儚く見える。


涙の跡が頬に残り、目は赤く腫れ、長い間泣いていたのがわかる。彼女は自分の世界に沈み、直樹の存在に気付いていなかった。


直樹の胸に、見知らぬ鋭い痛みが広がる。


黙って彼女の隣に座ると、莉子はようやくその気配に気づき、顔を上げた。


慌てて涙を拭い、無理に笑みを作る。「ごめんね、こんなところ見せて……」


言いかけたところで、直樹はそっと彼女を抱きしめた。


彼の腕は温かく、しっかりとした力強さがあり、まるで嵐の中の避難所のように安心感を与えてくれる。


押し殺してきた悲しみが堰を切ったように溢れ出し、莉子は彼の腰に顔を埋め、ぎゅっと抱きついて、シャツを涙で濡らした。


「早坂のおじいさんのことを思い出していたの?」彼女の涙が落ち着くまで待ってから、直樹は静かに尋ねた。


莉子は頷き、写真を大事そうに抱えたまま話し始める。「四年前、早坂家を出て、結局おじいちゃんの最期に会えなかった。あの家で唯一の家族だったのに……」泣き腫らした声は鼻にかかっていた。


「早坂さんの葬儀には、僕も参列したよ」直樹は彼女の手をしっかりと握り、落ち着いた声で語る。


莉子は驚いたように彼を見上げた。


「四年前、祖父が親しい友人の危篤を知って急いで帰国した。早坂さんは亡くなる直前、最愛の孫娘を僕に託した。それが昔からの婚約だった」


直樹はゆっくりと莉子を見つめながら続ける。「僕はてっきり、婚約者は清佳さんだと思っていた。でも、早坂さんが最後まで想っていたのは、ずっと君だった」


葬儀で遠くから清佳を見たとき、直樹はすぐに彼女の本性を見抜いた。


誰もが婚約者は清佳だと信じていたが、早坂さんは最初から莉子のためにすべてを準備していたのだ。


早坂家が莉子のことを気にかけていないこと、そして清佳と西尾夏樹がすでに深く関わっていたことも、彼にはすべて見えていた。


莉子はすべてを悟り、四年前に西尾夏樹の本性も見抜いていた。もし清佳が間に入らなければ、きっと西尾家に嫁いでいたかもしれない。


再び涙が込み上げそうになった。


すると直樹がため息混じりに言った。「早坂さんが生きていれば、君がこんなに悲しむのは絶対に望まなかったはずだよ」


そっと頭を撫でて、「それに、少なくとも西尾夏樹なんかと結婚しなくて済んだ」と冗談めかして言った。


莉子はその言葉に、思わず笑みがこぼれる。「本当ね。清佳には‘感謝’しなくちゃ。彼女のおかげで、西尾家の地獄に落ちずに済んだわ」


「これからは、僕がいる。もう誰にも君を傷つけさせない」直樹はしっかりと約束する。


莉子の表情にようやく笑顔が戻り、直樹もほっとした。


食卓の和定食は、すっかり冷めてしまっていた。莉子は申し訳なさそうに肩を落とす。本当は、腕によりをかけて直樹にご飯を食べてもらいたかったのに。


すると直樹は、食器を手に取りキッチンへ向かう。「大丈夫、温め直せばいいよ」

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