今日は九条莉子が髪をお団子にまとめ、明るく輝くような笑顔を見せていた。その白く繊細な顔立ちは、田中美雨の目にはますます憎らしく、痛ましいほどに映った。
「こんなに大きく立ってるのに、見えないわけ?」田中美雨は苛立ちを隠さず言い放つ。
九条莉子は眉をひそめて、わざと驚いたように返した。「田中さん、目は大丈夫なんですね?てっきり見えてないから、わざと道を塞いでるのかと。」
田中美雨はその言葉に詰まり、周囲の同僚たちの視線が集まり始める。ひそひそとした声もはっきり聞こえてきた。
「この人でしょ?莉子先輩のプロジェクトを横取りしたって。」
「そうそう、田中副社長と何かあるって噂もあるし、そりゃあんなに偉そうにもなるよね。」
田中美雨の顔色はたちまち蒼白になった。この件は絶対に外に漏れないようにしていたはずなのに、なぜ広まったのか。彼女は九条莉子の笑顔を睨みつけ、声を荒げた。「あなたでしょう?噂を流したのはあなただったのね!」
九条莉子は無邪気そうに瞬きをし、「何のこと?よく分からないわ」と首をかしげる。
田中美雨は怒りで震えたが、九条莉子はさっと身をかわし、相手にする気もなさそうだった。
「田中さん、そんなに暇なら残業したら?私は用事があるので先に失礼します。」そう言い終えた瞬間、九条直樹の車がちょうど目の前に停まった。九条莉子は車のドアを開けて後部座席に乗り込み、そのまま去っていった。
買いようと思っても一生かかっても買えそうにない高級車を見つめながら、田中美雨の目に計算高い光が宿る。彼女には田中副社長の後ろ盾がある。根拠のない噂くらい、どうにでもできる。田中副社長もきっと守ってくれるはず。
だが、九条莉子のあの余裕そうな態度が、どうにも許せない。
田中美雨はこっそりタクシーを拾い、あとを追いかけた。
車はグランドハイツ霞ヶ関の門をくぐる。セキュリティは厳重で、田中美雨は門前で警備員に止められ、何を言っても中には入れてもらえない。
まあ、これで十分。田中美雨は携帯で撮った高級車の写真を見て、ほくそ笑む。九条莉子って、実は大したことない。パトロンに囲われてるだけなんだ。これを広めてやれば、九条莉子も会社にいられなくなるに違いない。
そう思いながら帰ろうとしたとき、黒いキャップをかぶった女性が突然彼女の前に立ちはだかった。
「何の用?」田中美雨は警戒心をあらわにする。
「私たち、手を組めるかもしれないわ。」女は顔を上げ、消えた車を見つめるその目には、深い憎しみが浮かんでいた。
一方その頃、九条莉子は車内で運転席の中山優樹に、ずっと気になっていたことを打ち明けた。
「高橋さん、九条直樹さんって、普段どんなお仕事をしてるんですか?こんな高級車を毎日借りて通勤なんて、出費も大変でしょう。私ならどんな車でもいいのに……彼に負担をかけているんじゃないかと思って。」
中山優樹は驚いて目を見開く。ようやく気づいた――九条社長は奥さんに自分の正体を話していなかったのだ。
「奥様、その……それはぜひご本人に聞いてください。私からはちょっと……」と困ったように頭を下げ、すぐさま九条直樹にメッセージを送った。
九条莉子は少し残念そうに、「分かりました。帰ったら彼に聞いてみます。ありがとう」と微笑む。今まであえて聞かなかったのは、彼のプライドを傷つけたくなかったから。彼はいつも自分を気遣い、高級なレストランに連れていったり、こんな高い車まで借りてくれている。だからこそ、これからを一緒に歩むなら、ちゃんと知っておきたいと思うのだった。
何事も素早く行動する性格の九条莉子は、足の怪我もほぼ治り、すぐ近くのスーパーで食材を買い込み、家で和定食を作ることにした。海外生活で鍛えた料理の腕前で、見た目も味も完璧な食事。すぐに廊下中に美味しそうな香りが広がった。
チャイムが鳴ったとき、九条莉子は九条直樹が鍵を忘れたのかと思い、皿を置いて玄関へ向かった。
「九条莉子さんでいらっしゃいますか?」扉の外には、スーツ姿で公文ケースを持ち、金縁の眼鏡をかけた上品な男性が立っていた。
「はい、私ですが……どちら様ですか?」九条莉子は警戒しながら相手を見つめる。
男性は証明書を差し出した。「森・浜田松本法律事務所、伊藤健太と申します。松本先生の生前のご依頼で、ずっとあなたを探していました。ご結婚の報を聞き、ようやくこちらまで辿り着きました。」
ドアノブを握る手が緩む。祖父の穏やかな顔がふと脳裏に浮かび、九条莉子の鼻先がつんと熱くなる。
「どうぞお入りください」――彼の名前は覚えていた。祖父が何度か話していた人物だ。
帰国後、九条莉子が多磨霊園を訪れたのは一度きり。冷たい墓石に刻まれた、あの優しい面影は、今は永遠のモノクロ。
伊藤健太は彼女の悲しみを感じ取り、静かに待ったあと、一つのファイルを差し出す。
「これは早坂健一郎先生の遺言です。先生のご希望で、莉子さんがご結婚された後にお渡しするようにと託されておりました。どうか大切にお持ちください。」
中には株式譲渡契約書と、一通の手紙が入っていた。
牛革の封筒を手に、九条莉子の目から静かに涙がこぼれ、手が震えてなかなか開けられなかった。
祖父が病に倒れたとき、彼女は学業が忙しく、週末にしか見舞いに行けなかった。四年前、莉子が誘拐されたのは、祖父が危篤の時期だった。
病院のベッドで、祖父は彼女の失踪の報を聞き、深いショックのあまり病状は急変。結局、最期に会うこともできぬまま、彼は静かに世を去った。
そして彼女は見知らぬ土地で記憶を失い、大切な家族の存在すら忘れていた。
記憶を取り戻したときには、もうすべてが手遅れだった。
あたたかな思い出が一気に胸に押し寄せ、涙で視界がかすむ。
そっと手紙を開くと、見慣れた力強い字が目に飛び込み、瞬く間に涙でにじんだ。
「最愛の莉子へ――
お前はきっと幸せになる子だ。どこかで無事に暮らしていると信じている。じいちゃんはもう年だから、もう一度お前に会うことはできないかもしれない。どうか、これからの人生が穏やかで、心から幸せであってほしい……」