──ここは、どこ?
──わたくしは、誰?
(ここは
高等部二学年に転入してきたばかりの少女。誰がどう見ても愛らしい容姿と鈴のような声、そして学年成績トップクラスの頭脳。
(彼女が学園に転入してきてから、この学園はおかしな状況に陥っております。わたしとおなじような被害者が一人二人だけではないということ)
櫻子は静かに本を閉じ、溜息をこぼした。
つい先日、許嫁には「お前と結婚など
その理由は「櫻子が鈴音を
櫻子は何もしていないのだから。
そもそも直接話したことすらない。
ふと時計を見て、櫻子は本を机に置いてから立ち上がった。
これから学友との茶会だ。早めに着替えて寮内のガーデンに行かなければ。
クローゼットを開け、白のレースドレスワンピースを手に取った。
どれほどにうつくしい宝飾品であろうと、衣装であろうと、婚約者から受け取ったものにいまさら意味など存在しない。
夏らしく涼やかな白と水色でまとめ、長い黒髪を結い上げる。蝶を模したクリップでまとめ上げて、白のパンプスを履けば準備は万端だ。今日の茶会は大商社である楚川家の次女であり、櫻子のクラスメイトである
コツ、と軽い足音を立てながらガーデンテラスへ向かえば、案の定、ちらほらと学友たちの姿が見えた。
櫻子は優雅に微笑み、挨拶をする。
「お待たせいたしました。みなさま、お早いお着きで」
「櫻子様! ようこそ、私のお茶会へ。お待ちしておりましたわ」
「ふふ、ご招待ありがとうございます、明奈様。今日は低学年の生徒もお呼びしていらっしゃるのですわよね?」
「ええ、そろそろ二学年の子たちにも先輩としての交流の取り方を教えるべきかと」
「すばらしいお考えですわ、明奈さん。……あら、いらしたかしら?」
「まあ、本当ね。どうぞこちらへいらっしゃい、みなさん」
最高学年が集まる中で中々近づけずにいた二学年の女子生徒たちに朗らかな笑みを向け、明奈はやさしく手招きをした。
「お招きありがとうございます、楚川先輩」
「こういうご招待は初めてなので、失礼をしてしまうかもしれません……」
「すごい……こんなにしっかりとしたお茶会は初めてです」
「ふふ、初めはそのようなものですわ、大丈夫ですよ。まずは空気に慣れるところから始めてまいりましょう。今日だけというものではございませんから」
招待された三人はいずれも櫻子のよく知る女子生徒だった。否、三学年で彼女たちを知らないとすれば、よほど成績に興味がない人間くらいなものであろう。女子成績トップ3の女子生徒だ。そして何より……伊崎鈴音と親しくしている人物たちでもある。
明奈も双子の兄が「彼女」に
(これは探ってみなければわかりませんわね)
櫻子は促されるまま席に着き、明奈が手ずから入れた紅茶にありがたく手をつける。
「……素敵な香り。ローズティーは久しぶりですわ」
「馴染みの茶屋から取り寄せましたの。お口に合えば幸いですわ」
「とてもおいしいですわ、明奈さま! わたし、ローズティーは初めてですの。いつもダージリンのストレートばかりで、冒険が中々できないものでして……」
「まあ、それは嬉しいわ。これを機にフレーバーティーも楽しんでくださいまし」
櫻子は用意された菓子をつまみながら静かに状況を観察する。
雰囲気は悪くない。二学年の女子生徒三人も各々少し緊張がほぐれてきたようで、やわらかな笑みがこぼれ始めてきた。
「明奈様がこの子たちを選んだ理由は何かおありで?」
櫻子よりも先に核心を突いたのは向かいに座っている
「今回に関しては、学年の女子成績トップ3だから、ですわね」
「まあ、そうでしたのね。たしかにすぐに馴染みましたし、教養や気品も問題なさそうですわ。このままどこに出しても恥じることのないご令嬢たちですこと」
「ええ、基本的な教養と気品がなければ櫻子様のいらっしゃるお茶会に招待なんてとてもできませんわ」
「
「わたしがお教えしてもよろしいのですよ、明奈様」
「いいえ、なりませんわ。櫻子様がなさらずとも、その程度のことは家と学園で学ばなければ意味がないのです。それを学べない無教養な娘は櫻子様にはふさわしくございません」
「……そう。あなたがそう仰るのならそうなのでしょうね」
二学年の女子生徒の一人、
「あの……次は鈴音さんもご一緒してはなりませんか?」
その言葉に三学年の女子生徒の空気は凍りついた。
(まさかこの子、鈴音さんの噂話──いえ、事実に基づいた流れ話をご存じないのかしら)
空気が凍りついたことに他の二学年の女子生徒二人も気づいたのだろう、慌てて有紀の肩を押さえ、いまのはちがうんです、と口を開く。
「わたしたちの親しい友人もぜひご紹介させていただければと考えた次第でございまして」
「ええ、ですから、どうかお気を悪くなさらないでくださいませ」
右から
櫻子たちにとって地雷であることをわかった上で、有紀を
それがどんな結末を迎えるか、彼女たちは理解できているだろうか。
(……やはり伊崎鈴音の行動には危険な何かが見えますわね)
櫻子は静かにティーカップに口をつけ、感情一つ見えない冷えた目で二学年の三人を見つめた。
そんな櫻子の様子を見ていた明奈は小さく溜息をこぼして「いまのは聞かなかったことにいたしますわ」と座り直す。
「次にその名をお出しなさい。二度目はありませんわ」
「先輩方は鈴音さんの何が気に入らないのですか……?」
「有紀さん! 失礼いたしました。お気になさらずお茶会をどうぞ続けてくださいませ」
櫻子はただただ
三人の力関係と、二学年では伊崎鈴音の存在が大きな問題になっていない理由が
加賀谷有紀、彼女は伊崎鈴音が何を仕出かしたのかを知らない。もしくは、それを重大な問題であると認識していない。それに対して両隣の一ノ瀬雛子と久遠京子はこの場にいる
(ここにいるのは伊崎鈴音によって相手を奪われ、敵意すら向けられている令嬢ばかり。それも、噂によれば伊崎鈴音が相手に選ぶのは三学年のみではないこと。どこまでが本当のことであるかは存じ上げませんが)
櫻子はそっとティーカップを置いて、ニコリと笑みを浮かべた。
「加賀谷さん、どうぞお帰りになって」
「え……?」
スッと手を差し出して、帰り道を指し示す。
この学園──否、社交界では「知らぬ存ぜぬ」など通用しない。
いつまでも「知らないこども」のままではいられないのだ。噂話一つすら耳に入れず、あるいは重大な問題を軽視しているような人間はここにいる資格など持ちえない。相対する人間がどのような人間で、どのような話題を避けるべきか。その程度は事前に学んでおかねばならない。
「わたしたちにとって彼女の話題は
「あ……え、す、すみません! 私、知らなくて……」
「知らぬ存ぜぬでは通せないこともあるのですよ。これもよい勉強になったでしょう? あなたがお帰りにならないのであれば、わたしが先に失礼いたしますわ」
「あっ、あ、申し訳ございません! 鈴音さんの話をしてはいけないとは知らなかったとはいえ
慌てた様子ではあるものの、明らかにその表情には困惑が浮かんでおり、なぜ話してはいけないのかを理解できていない様子だ。謝罪の言葉を口にしながら、謝罪の心が伴っていない。そんな謝罪に意味があるというのか。
櫻子はゆっくりと目をまたたき、溜息をこぼした。それから立ち上がり、冷えた目で有紀を見遣る。
「……結構ですわ。あなたと話すことは時間の無駄です。明奈様、またお誘いくださいませ。今日は気分が優れませんのでこれで失礼いたしますわ」
「まあ、櫻子様……次はこのような事態にはいたしませんことをお約束いたします。お気をつけてお戻りくださいませ」
「ええ、ありがとう。ではみなさまごきげんよう」
「お、お待ちください、花菱先輩!」
櫻子は聞く耳を持たず、早々にガーデンテラスをあとにした。
ひとまず、伊崎鈴音とよく親しくしているトップ3の勢力図は見えた。同時に賢さも。
これだけの情報が揃えば充分だろう。
(加賀谷有紀は噂話に耳を傾けないか、もしくは、単純に察しが悪いだけか)
コツコツと足音を立てながら寮の廊下を歩いて、自室である一階の最奥にある部屋へ向かう。
(そして一ノ瀬雛子は
少なくとも櫻子なら「先輩方のお茶会」に招かれた時点で、相手の立場や性格、好む話題の傾向を掴んでから出席する。二学年にもなってそれができないのは、かなり致命的だ。
女子成績トップ3、必ずしも学力と教養が比例するわけではないということ。
そんなことを考えながら、櫻子はそっと口元に笑みを浮かべた。
物語はまだまだ始まったばかりだ。