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Forth action: Delete Anomalies

 櫻子さくらこは制服を身にまとって学園に登校したところで、教室に入って早々元婚約者の鈴村宗一郎すずむらそういちろうに頬を叩かれた。その表情は怒りに満ちており、次は殴りかからんとする握られた拳が見えた。


 婚約を破棄されてなお、否、自らしておいて、なぜ彼は櫻子に手を上げられるのだろう。

 なぜ彼は自分の立場を理解できないのだろう。

 そればかりが疑問でならない。



「……朝から何なのでしょう。わたしを叩くに値する理由がおありで?」

「お前、また鈴音すずねに嫌がらせをしたそうだな。これ以上はもう我慢ならん。お前のような性悪女はこの世に存在するだけで悪だ!」



 さて、何のことやら──と、言いたいところだが、おそらくは先日のお茶会のことだろう、と櫻子は溜息をこぼした。


 呆れて物も言えない。


 櫻子は国内随一の財閥令嬢であり、宗一郎はたかが一商社の跡取り候補ですらない令息。どちらの立場が上であるかなど、火を見るよりも明らかだ。


 宗一郎が婚約者であった時は周囲も「花菱はなびし櫻子」の婚約者として目上の立場のように扱っていたが、いまはちがう。宗一郎が自ら婚約を破棄し、櫻子は承諾し、花菱家も正式に鈴村家へ婚約破棄を通達した。宗一郎から婚約を破棄したと明言して。


 周囲の人間もどうすべきかと櫻子たちを見ている。……見ているだけで、助けるつもりはないらしい。

 特に男子生徒は「自業自得じゃね?」と言っているのが聞こえる。



(いま、わたしを敵に回したお方はみなさま覚えましたので。使いどころがあるかは別として、覚えておきますわ。……あなたたちのご実家に被害がないとよろしいですわね。ですが、女子生徒のみなさまは罷免ひめんいたしましょう。暴力的な男性を抑えるなどできないでしょうから)



 つまるところ、宗一郎とは櫻子に手を上げれば死んでもおかしくない立場になったのだ。



「……あなた、まだご自分の置かれた立場に自覚がございませんの?」

「何の話だ。ハハッ! また言い訳をするのか?」

「言い訳? いいえ、ちがいますわ。現実のお話でございます」

「だからそれは何だと言っているだろう。さっさと言え。鈴音を傷つけた悪女の言葉をわざわざ聞いてやるのだ、早くしろ」

「ですから、その態度の話ですわ。……あなたは誰? 鈴村商事の次男。わたしは? 花菱財閥の一人娘。たかが一商社の跡取り候補ですらなく、花菱財閥との婚約もあなたの身勝手から正式に破棄されたというのに何の価値と権限があってわたしに手をあげていらっしゃいますの?」

「お前っ……! また俺のことを馬鹿にしやがって!」

「馬鹿は兄さんでしょう。鈴村の顔に泥を塗るだけでは飽き足らず、櫻子さんに手を上げて罪に問われるおつもりですか?」



 パシッと振り上げられた拳を止めたのは、意外にも宗一郎の弟である京一郎きょういちろうだった。手に資料を持っていることから、それに関連して三学年の教室へ用があったのだろう。そこで櫻子に手を上げる宗一郎を見かけて苦言を呈しに来た。



「お前に何がわかる、京一郎! 俺は最愛の女性をこの悪女に傷つけられたのだぞ!」

「だから何ですか? そもそも、櫻子さんが何をしたと言うのでしょう。はっきりと教えてください。それを聞かずに判断することはできませんし、そもそも聞いたところで兄さんが櫻子さんに──女性に手を上げていい理由にはなりません」

「はっ、この女はわざわざ鈴音が孤立するように仕向けて茶会に招き、いびり倒したのだ。それを咎めることの何が悪い?」

「……? ああ、女子寮でのお茶会の話ですか。櫻子さんが孤立を誘導したと?」

「そうだ。わざわざ接点のない生徒ばかり集めて、人見知りな鈴音を……」

「それの何が悪いんですか?」

「……は?」

「いえ、ですから、接点のない生徒を招いた茶会を開くことの何が悪いのですか? 交流することは礼節を学ぶよい機会ではありませんか」

「そんなの、この女が鈴音を虐げようと孤立させ……」

「櫻子さん、招待なさったご令嬢たちはみなさんあなたとお知り合いの方だったんですか?」



 京一郎は相変わらずさとい。櫻子は微笑みながら「顔見知り程度ですわ」と答える。


 女性が重んじる「お茶会」という名の戦場で必要なことが社交性と協調性、そして礼儀作法。もっと言うのなら、基礎教養まで求められるのだということに京一郎は気づいている。

 男性陣は「着飾って噂話をするだけの無意味な時間」と断じて嫌う傾向があるが、その実として「お茶会」の役割は情報と心理を利用した女同士の戦いであって、決して遊びではない。

 その場に馴染めない、空気を読めない、意図を汲み取れない人間は自然と淘汰とうたされる。


 楚川明奈が主催した二学年との交流を目的とした茶会で失言をした女子生徒とそれをかばった二人の女子生徒が「伊崎鈴音」に対して反感をいだいている女子生徒の茶会に一切呼ばれなくなったように、茶会とはただお茶を飲むだけではなく、人柄や教養の差までもを綿密に判断して派閥を組んでいく戦場なのだ。


 男性には理解できないことなのかもしれないが、これは上流階級の女性として必要不可欠。そして「伊崎鈴音」は協調性と教養がなかったために淘汰された。それだけのことだ。



「櫻子さん自身も親しくしていたわけではないのに、馴染めなかったからと言っていじめられたなどと、一方的に櫻子さんを責める理由にはならないのでは? そもそも、そういう場はただの茶会ではなく『交流会』でしょう。交流会なのに知り合いばかりなはずがありません」

「だから人見知りでか弱い鈴音が孤立するのは仕方ないとでも?」

「仕方ないとおもいますよ。女性社会に詳しいわけではありませんけど、令嬢としての立場を考えれば、最低限の教養と社交性は持っていなければ社会に出ても馴染めるわけがありませんよ。むしろ櫻子さんがそのような場を用意されたのは、苦手を克服するための手助けだったように僕はおもいますけど」

「わかったような口を……!」

「実際、兄さんよりはわかっているつもりです。学園内で開かれている茶会にはすでに何度か参加させていただいておりますし、ただお茶を飲んで笑うだけの場所ではないことくらいは身をもって理解していますから。男性でも参加できる茶会があるのに、兄さんは参加したことがないのですか? 三学年にもなって?」

「そんなものは時間の無駄だ。茶と茶菓子を用意して、下品な噂話に花を咲かせ、気に入らない人間を貶めるという、そんなくだらないことをしている暇があれば自己研鑽じこけんさんでもすべきだな」

「兄さんこそ知ったようなことを言いますね。下品なのはどちらでしょう。先ほど申し上げました通り、茶会はそのような場ではないんですよ。情報と心理を利用した戦場と言うべきでしょうか。男子生徒が茶会に参加するのは珍しいことですが、みなさまこころよく迎え入れてくださいます。おなじだけ、厳しいお言葉も頂戴ちょうだいします。男女の差別をすることなく、茶会という場ではすべての人間が平等なんです。どれだけ自分の価値を示し、どれだけ人脈をつなげ、どれだけ情報を引き出し、どれだけ相手を揺さぶるか。そういうものです。知らないくせに知ったようなことは言わない方がいいですよ。ただの恥さらしですから。ああ、自己研鑽なさってはいかがですか?」



 受け止められていた手とは反対の手で京一郎の顔を叩いた宗一郎は顔を真っ赤にして「このおろか者が」とののしった。京一郎は軽蔑するような眼差しで宗一郎を見下ろした。



「本物の愚者ぐしゃはどちらでしょうね。この教室で櫻子さんをまもろうとしなかった方々もお里が知れるというもの。……櫻子さんがその気になれば、この教室にいる人間の半分は簡単にご実家を取り潰されますよ。徹底的に、ね」



 櫻子はくだらないですわね、と溜息をこぼし、京一郎が取り落した資料を拾い上げる。



「あら……もしかしてわたしに御用でしたの?」

「……ええ、まあ。生徒会のことで少し」

「医務室へ行きましょう。わたしより強く手が当たったようで、すっかり赤くなっておられますわ。わたしも早めに冷やしておきたいですし、医務室で詳細をお聞かせ願えますこと?」

「そうですね、そうしましょう。すみません、兄がまたご迷惑をおかけしてしまい……兄さん。僕たちは『大きな会社の社長のこども』だけど、所詮は『大商社の息子』でしかない。日本随一の財閥令嬢に手を上げていい立場ではないんですよ。そもそもあなたは元婚約者であって、婚約者ではなくなりました。つまり、あなたの行動はいままでとは異なる受け止め方をされるのです。父さんたちが必死に取りつけた結婚話を自分の感情だけで破棄し、家の顔に泥を塗って……得られるはずだった利益をあなたが取り潰したのです。本来なら櫻子さんに罵声ばせいを浴びせたり、このように手を上げるだけでも父さんの会社が取り潰されたっておかしくはありません。……すべては櫻子さんの慈悲によって成り立っているということを、どうかお忘れなく」

「誰に向かって物を言っているのだ! いい加減目を覚ませ、この馬鹿者!」

「考えなしの愚かな兄に言っているんですよ。……行きましょう、櫻子さん」



 ピシャン、と教室の戸を閉め、京一郎は小さく溜息を吐き出した。

 すみません、とまた京一郎が謝罪の言葉を吐く。櫻子はそっと笑って、首を振る。



「あなたの謝罪は不要ですわ。庇ってくださってありがとうございます」



 京一郎もまた首を振って、そうではなく、と悲しそうに櫻子の赤くなった頬をそっと撫でる。



、でしたよね。もう少し早く到着していればあなたを傷つけさせたりなんてしなかったのに……そういう意味の謝罪ですよ。間に合わなくてすみません」

「それも謝ることではありませんわ。あなたはちゃんと助けてくださった、それでいいのです。……それにしても、婚約破棄による立場の変化というものを理解していない宗一郎様は……少々危険ですわね。宗一郎様が鈴音さんに傾倒するのは構いません。ただ、家柄や出自による差別が禁じられているとはいえ、最低限の礼儀は必要ですわ。わたしだけでなく、他の方にもおなじように接しているのかしら」

「あそこまで激情的になるのは櫻子さんだけですね。婚約者だった頃の感覚のままで生きているのでしょう。感情的になると手が出やすいとはおもっていましたが……」

「あら、そう。まあ、結構ですわ。馬鹿は死ぬまで治らないと言いますから」

「……言いますね、櫻子さん」



 ようやく京一郎はクスクスと笑みを漏らし、はあ、と息を吐いた。やっと肩の力が抜けたのだろう。

 京一郎はそっと視線をうつむけて、正直、と口を開く。



「……本当に、兄さんと櫻子さんが別れてよかったとおもいます。実家の思惑としては花菱家との縁がほしかったというものは当然あったとおもいます。ですが、安定を望むなら僕を選べばよかっただけのこと。兄を選んだのは、少しでも兄に変わってほしいと願っていた部分があったからだとおもいます。結果としてあなたを傷つけるだけになってしまいましたけどね」

「仕方のないことですわ。この程度のことであなたのご実家を取り潰すような真似はいたしませんからご安心を。わたしにはもっと成さねばならないことばかりですし」



 本来の世界なら、京一郎もまた「花菱櫻子」の攻略対象だった。システムの不具合によって発生した「伊崎鈴音」というイレギュラーな「ヒロイン」を前にしても毅然とした態度で違和感を覚える、攻略されないというのは、京一郎が元来持っていた聡明さゆえなのだろうと櫻子は解釈している。あとは──一介のプレイヤーでは知り得ない重要な前提が存在する、とか。


 実際の話、京一郎ルートというのは攻略難易度が非常に高く設定されている。いわゆる「隠しルート」というものだ。

 本来の「花菱櫻子」であっても宗一郎という婚約者が存在する状態で京一郎という攻略対象へアプローチをかけるのは非常に困難なことで、京一郎はあくまでも「弟のような立場」を中々崩さない。

 それゆえ、本来の「乙女ゲーム」としての[この世界]をゲームとして扱っている世界では、攻略難易度は最高と称されている。──と、櫻子はデータベースから情報を得ている。



「それにしても、京一郎様が学園内でのお茶会に参加されているとは存じ上げませんでしたわ」

「ああ、さすがに櫻子さんが参加されるレベルのお茶会にはまだ参加できる立場ではないと自覚しておりますので……もう少し研鑽を積んでから、あなたと立ち並びたいと考えております。兄さんももう少し知見を広げられたら、きっとちがったんでしょうね。……僕が優秀だと言われるのは、ただ生まれ持ち得た才能ではなく、常に優秀であれるように──両親の期待に応えられるように努力をしただけのことですから。努力をすればひとは変われるのです」

「そうでしょうね。あなたは努力をすることの天才ですから。努力ができるのはすばらしい才能ですのよ。したくともできない方も当然世界にはいらっしゃいます。宗一郎様がよい例ですね。あの方は自己研鑽と言いつつ、学業さえ上手くいけば問題ないと考えておられます。学園ではそれで充分かもしれませんけれど、社会では学力など大した意味を成しません」

「そうですね。それよりも社交性や教養、状況判断能力の方がはるかに重要になるでしょう。宗一郎兄さんはせめてその三つだけでもこの学園にいるうちにい学ばなければ、跡取り候補ですらない状況で優位には立てません。初等部の頃から教育を受けてまいりましたが、未だに兄さんはその能力の重要性を理解できていません」

「それがおとなの社会で命取りになるとも知らずに、ですわね?」

「……その通りです。僕だって最初から何でもできたわけではありません。苦手なこともという手法で一通りできるようになったことであって、お茶会に初めて参加した時なんてボロボロでしたよ。マナーもよくわかっていなくて、周りの先輩方から『それはいけませんよ』と丁寧にご指摘いただいて学んできたんです。……そういうことが、宗一郎兄さんも理解できればこんなことにはならなかったとおもうんです。……理解できなかったから、こんなことになってしまって、あなたを……身も心も傷つけて、身勝手な理由で家の利益すらも潰して。それの何が悪いのか、何一つとして兄は理解できないんです。あまりにも……愚かなひとだ」



 高等部の二年生になってから婚約を交わしたため、それ以前の鈴村家のことは櫻子も深くは知らない。

 ただ、データベースによれば「鈴村京一郎」は幼少の頃から長男の統一郎《とういちろう》、次男の宗一郎もとおってきた習い事や勉学の道で優秀な成績を残している。

 中には宗一郎の成績を超えるものも多数あった。

 それが宗一郎のちっぽけなコンプレックスを刺激して嫌がらせされるようになったとされている。


 どの程度の嫌がらせだったのかは不明だが、鈴村家が早々に宗一郎を跡取り候補から外したのはそういった部分が顕著だったからなのだろう。

 それによって嫌がらせがエスカレートするとしても、それでも宗一郎を跡取りに据えることはできないと判断したのだ。なのに、期待をかけて花菱櫻子との婚約相手に選んでしまった。


 京一郎は現在進行形で長男である統一郎と二人で跡取りの座を争っている。四歳差という年齢的な差も考えれば当然統一郎が優勢ではあるが、京一郎はその差を埋めんとばかりに高等部へ入学してから努力を実らせた力で追い上げてきている。


 彼はただ努力家だったというだけ。

 それもまた一つの才能であるし、宗一郎が持ち得なかった才能でもある。


 だが、鈴村家はそんな跡取り候補からも外したような男を花菱財閥の一人娘の婚約相手に選定した。いくら希望的観測があったとしても、そのような人間を選んだ事実はいい結果にならない。


 「初めから何でもできたわけではない」──だけど、できるようにした。得手不得手でもなければ、好き嫌いでもなく、ただ「できる」ようにしたのだ。社会に出ればやりたくないことや苦手なことでもやらなければならない日がくる。


 京一郎はそんな未来を見越して「本当の自己研鑽」を欠かさなかった。

 だから京一郎は学園内外でも強い影響力を持っているし、後継者としても有望だと言われているのだ。長兄である統一郎と京一郎は学園で社交性を身につけられたが、宗一郎はそれができなかった。社会では「知らない」「したくない」「関係ない」は通用しないのに。

 それが、京一郎を好ましいと感じられる部分だ。

 「システム」として「完璧」を求めざるを得ない櫻子にとって、その不器用さと勤勉さがいじらしいとすらおもえる。



「櫻子さん、おかけになっていてください。氷をいただいてきます」

「ええ、ありがとう」



 京一郎の言葉に甘えて近くの椅子に座り、櫻子は小さく息を吐いた。


 登校するなり早々から騒ぎが起こるとは。


 想定していたとはいえ、こんなにも早くに、と溜息がこぼれてしまう。クラスもちがうのに朝から待ち構えて、暇なのだろうかとおもってしまう。


 おもえば、宗一郎は「俺の婚約者なのだから、真っ先に挨拶に来るべきだろう」と常日頃から言っていたような気がする。なぜクラスもちがうのに婚約者であることを理由にわざわざ挨拶へ伺わなければならないのか甚だ疑問でならない。婚約程度で自分も偉くなったとおもったのか。



(ですが、これではっきりいたしました。鈴村宗一郎に利用価値はない。これほど「伊崎鈴音」に傾倒している状態、そして簡単に「花菱櫻子」へ手を上げる様子、自らの置かれた立場とあやまちに気づかぬ愚かさ……これでは使い物になりませんわ。わたくしに「俺様」は通じませんもの)



 お待たせしました、と氷嚢ひょうのうが差し出され、櫻子はハッとしたように受け取った。



「ありがとうございます、京一郎様。あなた様のお顔の腫れはしばらく引かないかもしれませんわね。わたしは大したこともございませんが……」

「僕のことはお気になさらず。……朝から大変でしたね」

「それはお互い様ですわ。ですが……もうじき鈴音さんも好きなようにはできなくなりますからどうかご安心を」

「花菱家の権力ですか?」

「いいえ、もっと強いものです。それより、わたしに何か御用があったのでなくて?」

「ああ……そうでした。こちらをご確認いただけますか? 生徒会主催の交流会の件です」



 櫻子は渡された資料に目を通し、きゅっと眉根を寄せた。

 珍しい表情変化だが、京一郎はその反応を想定していたのだろう、特に驚くこともなく「おかしいですよね」と呟く。



「……そうですわね。わたしが聞いていた限りでは『ダンスパーティ』だったはずなのですが」

「いつの間にかガーデンでのアフターヌーンティーに変わっていたんです。昨日、たまたま生徒会室で会長が誰かと話しているのを聞いて、今朝資料を受け取ってきました。この暑い時期に日中の外でパーティを開くのは危険ですし、いつの間に変更がかけられたのかも不明です」

「……ふむ……せめて室内に変更しないと、熱中症が多発してしまいますわね。特に女子生徒の制服は夏服でも存外に熱がこもりますから。この件はわたしにお任せください。会長といま一度話してまいりますわ」

「すみません、お願いします。僕はそれらしい理由をつけて資料を持ち出すのが限界で」

「それで充分ですわ、ご安心なさって」



 櫻子は仕事が一つ増えましたわね、と頭の片隅に記憶しつつ、そっと息を吐いた。

 ふと顔を上げ、櫻子は頭の中で「System, wake up」と声をかける。


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──System起動中……


*おはようござます、Harmonizer。

*どのようなご用件でしょうか?


 ──パーティの内容が変わったことに「伊崎いざき鈴音」は関連しているか調べてくださる?


──情報を取得中……

──対象人格の行動を分析中……

──Clear!


*「伊崎鈴音」が生徒会長・夏川なつかわいずみを攻略したことにより発生した異変です。

*対象人格は「ヒロイン」属性を保有していますが、スキルは本来の人格に依存します。


 ──つまり、ダンスができないからアフターヌーンティーに変えさせた……?


*その可能性が非常に高いです。

*過去の言動や行動範囲の整合性チェックを開始しますか?


 ──お願いしますわ。特に行動範囲と、生徒会長との会話をしっかりとね。


──承認。

──これより対象人格:伊崎鈴音の過去の言動、行動範囲を調査します。

──結果が判明次第、報告いたします。


 ──よろしく頼むわね。


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「……。京一郎様、もしかすると今回のパーティの変更も鈴音さんが関わっているかもしれませんわ」

「えっ……どういうことですか?」

「生徒会長とどなたかが話していらしたのよね? 女性でしたか?」

「あ、はい、女性でした。女性の方は小さな声だったので内容まではわかりませんでしたが……ただ、生徒会長が『それならアフターヌーンティーにしよう』とおっしゃったのは聞きました」

「その女性が鈴音さんである可能性が高い、とわたしは判断します。少なくともダンスパーティを避けることで利になるのは鈴音さんくらいですし、直接生徒会長とかけ合うことが可能なのも彼女くらいです。普段から生徒会長と直接話せる人物でダンスパーティを避けたがる人間はおりわせんわ。基礎教養すら備わっていないと見受けられる鈴音さんが人前でダンスをできるともおもえませんし……」

「それは……たしかにそうかもしれません。あ、どうして気づかなかったんだろう……言われてみればその可能性がすごく高いですよね……」



 それはきっと「伊崎鈴音」が持つヒロイン属性の強さゆえ、だろう。

 京一郎も攻略対象の一人であるからこそ、鈴音の「意志」に飲まれかけることが少なからずあるものと考えられる。だが、完全に飲まれるわけではなく、違和感として残るため、このように櫻子を頼ってくれるのだ。

 美郷みさとにとっては誤算であり、櫻子を排除したいと考える最大の理由になるだろう。

 だが、美郷は大前提を見落としている。

 とても大切な、大前提を。



(「鈴村京一郎」は隠しルートであり、最高難易度の攻略対象。……それは『プレイヤー』であれば誰もが知っている情報でしょう。ですが、そこには絶対的な前提が存在いたします。それこそが「花菱櫻子」がヒロインであること。つまり「花菱櫻子」でなければ「鈴村京一郎」のルートは開かれることすらないのです。どれほど外堀を埋めようと、記憶された攻略ルートを通ろうと、決して開かれることのないルートなのです。これまでの行動から「鈴村京一郎」ルートを解放させようとしている様子がそれとなく伝わってまいりますが、すべての攻略対象から一定値以上の好感度を得たとしても「花菱櫻子」でなければ彼のルートを……心を開くことはできません。……当然ながら、わたくしも同様ですわ。わたくしも「花菱櫻子」ではありませんから。京一郎様からの一定以上の信頼を得られていることはたしかですが、それだけ。のです)



 システム上、本来の「永遠の花園」というゲームでは「花菱櫻子」が主人公である。それ以外の「ヒロイン」は存在しない。そのため『プレイヤー』がプログラムされたシステムの中で「花菱櫻子」以外では攻略できないとは知らないこと。知ろうとしても、知ることはできないのだ。

 Harmonizerである櫻子はMain System[Glass]のデータベースを通じてその情報を得られたから知っているだけで、一般人なら知る由もなかろう。

 一般人である「日野美郷ひのみさと」はその事実を知らぬまま、攻略を進めている。


 何と愚かな生き物であろうか、人間とは。


 その時、Systemから声がかかった。


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*Harmonizerへ緊急報告

*日野美郷が接近中です。

*いかがされますか?


 ──彼女は何しにいらしたの?


*攻略対象:赤崎緋花あかさきひばなとのイベントです。

*イベントの詳細を読み上げますか?


 ──お願いするわ。何のイベントかしら。


──情報読込中……

──情報処理中……

──情報を開示します。


──攻略対象:赤崎緋花

──イベント名:「医務室での看病・緋花バージョン」

──イベント内容:熱中症を起こした「伊崎鈴音」を介抱する緋花とのスチルイベント


 ──……面倒ですわね。いまからここを出ても鉢合わせるだけでしょう?


*はい、すでに医務室前に到着しています。


 ──どうにもできませんのね。仕方ありませんわ、わたくしと京一郎様は医務室の奥へ避難いたします。奥は安全ですの?


*問題ありません。イベントは医務室内のソファおよび手前のベッドで行われます。

*赤崎緋花の好感度がすでに60%に達しているため、スペシャルスチルの解放があります。


 ──スペシャルスチルの解放?


*はい。厳密に解釈するのであれば、ベッドに倒れ込んだ「伊崎鈴音」に意図せず引き寄せられて覆いかぶさるようなものです。原作ではここで好感度が55%を達成している場合にのみキスシーンが見られます。


 ──……。……奥へ避難いたしますわ。そんなもの見たくもございませんので。


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 櫻子は溜息を吐き出し、京一郎の手を引いて立ち上がった。



「京一郎様、こちらへ。医務室に誰かいらっしゃいますわ。……この声は鈴音さんですわね」

「え。……ど、どうしますか?」

「どうもこうも、隠れるしかないでしょう。鉢合わせることだけは避けたいですもの」

「まあ、そうなんですけど……よく声が聞こえましたね。……あ、本当だ、近づいてきてる」

「ことごとく厄介なお方ですこと……」



 奥のベッドのカーテンを開け、櫻子はベッドへふわっと腰かける。ぽんぽんと隣を叩いて京一郎にも座るように促し、カーテンを閉めさせる。

 京一郎はひそ、と小さな声で櫻子へ問う。



「ここにいて大丈夫でしょうか?」

「お静かに。……入ってきましたわね。お相手は……」

「……この声、赤崎くんですね。一学年の男子生徒です。ご存じですか?」

「……直接お会いしたことはございませんが、お名前だけ。よくおわかりになりましたわね」

「ああ……彼、僕と部活が一緒なんです」

「部活……男子バスケットボール部でしたか」

「はい。ミニバスの頃からの経験者というだけあって、とても強いんですよ。……でも、あの真面目な赤崎くんが伊崎さんと一緒とは、どういう因果でしょう」



 攻略対象だから、と言えるのならそれ以上楽なことはないが、さすがにそれはと言葉をつぐむ。

 代わりに、小さく息を漏らしてを口にする。



「……確率として、これだけ鈴音さんが女子生徒に忌避されているのに一緒にいるというのは、彼もまた彼女を大切にしている一人だから、なのでは?」

「……まあ、そうなりますよね。僕たち、ここにいて本当に大丈夫ですか?」

「わかりません。ですが、出ていくよりはマシですわ。これ以上無駄な恨みは買いたくありませんもの」

「恨み……何の?」

「お邪魔してはまたわたく……の悪評を広められますわ。彼女が親密にされている殿方に。毎度毎度宗一郎様にぶたれるのはさすがに御免でございます。いつになったらご自分の立場をご理解なさるのかしらね、あのお方は」

「……ああ、僕がそばにいられたらいいんですけど……学年がちがう以上はそういうわけにもいきませんからね」



 ソファでの「イベント」が終わったのか、どうやらベッドに移動しているらしい足音と声がかすかに聞こえてくる。



「あっ……」

「わっ。す、すみません、鈴音先輩! お怪我、は……」



 ああ、始まってしまった、と櫻子はこめかみに指を当てた。

 隣に座っている京一郎も何かを察したように眉間を揉み、少し俯く。



「大丈夫……ごめんね、あたしのせいで……いま、起きるね……」

「あ、待って──……」

「……あ」

「もう……待ってって言ったじゃないですか。俺がここにいるんだから、ぶつかっちゃいます」



 もうぶつかったあとですけどね、と緋花の照れたような笑い声を聞いて、京一郎は確信したように深々と、それでいて静かに溜息を吐き出した。



「……不純異性交遊」

「そういえばあなたは風紀委員でしたわね、京一郎様」

「ええ、まあ……はあ……彼女は一体何が目的なんだ……? 何人もとりこにして、誰とも明確な交際をせず……いっそ気味が悪いくらいです。何か明確な目的があると言われた方が納得できるほど、彼女は異常ですよ」

「まあ、そうですわね。目的があるのでしょう、彼女には。それも、が。……叶うことはないとおもいますけれど」

「櫻子さんはご存じなんですか?」

「何となく察しているだけで、明確ではございません」



 おそらく「鈴村京一郎」ルートを目指しているのであろう、という憶測だけであって、確定したわけではない。もちろん、目指していたとて叶う未来は存在しない。鈴音が櫻子ではなく、櫻子もまた「本物」ではない以上、そのルートが解放される未来は、永遠に来ない。


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 ──イベントはこれで終わりかしら。


*はい。このあとは「伊崎鈴音」が氷枕を使って頭を冷やし、昼休みまで眠る描写があります。

*あくまで原作情報に過ぎませんので、日野美郷がどのような行動を取るかは未知数です。


 ──わかっておりますわ。対象の行動が未登録である以上、想定して動くしかありませんわね。


*仰る通りです。


──進捗:日野美郷がイベント保存システムを利用しました。

──進捗:目標地点まであと一名の好感度を60%以上へ到達させる必要があります。


 ──何ですの、この進捗は。


*日野美郷の個人情報が特定できましたので、僕の方でも進捗が見られるようにシステムに変更をかけました。

*日野美郷の目標地点は「鈴村京一郎」ルートです。

*しかし、あくまでも目標地点までの進捗状況が示されるのみで、到達可能かどうかは開示されません。よって、Harmonizerもご存じの通り、「鈴村京一郎」のルートが解放されることはありません。


 ──そう。必死になって大変そうですわね。


*同意します。

*なぜそこまでして「鈴村京一郎」にこだわりを見せるのか、僕には理解不能です。


 ──さあ、わたくしも存じませんわ。

 ──それより、あと一人は誰? 既に攻略されているのは?


*はい、進捗状況を公開します。


──「伊崎鈴音」のデータベースより情報を取得中……

──整合性チェック完了。

──情報を開示します。


──攻略対象:鈴村宗一郎すずむらそういちろう 90%

──攻略対象:夏川なつかわいずみ 87%

──攻略対象:楚川怜司そがわれいじ  92%

──攻略対象:赤崎緋花あかさきひばな  63%

──攻略対象:小鳥遊柚希たかなしゆずき 42%


──80%以上を攻略済みと判定します。


──隠しルート:鈴村京一郎すずむらきょういちろう 0%


*隠された情報を開示します。


──隠しルートの解放には条件を満たしていません。

──隠しルートの解放には「花菱櫻子」が主人公である必要があります。


──現時点の進捗は以上です。


*Harmonizer、いかがですか?


 ──記憶完了。猶予はそれほど残っていませんわね。


*どちらにせよルート解放はありませんよ。


 ──わかっておりますわ。ですが、ルート解放が成されなかった場合、わたくしに害が及ぶ可能性もあるでしょう? その前に片づけなければなりませんわ。


*凶暴性が高まる可能性は考慮できます。

*他に確認したい情報はありますか?


 ──いまのところは結構よ。ありがとう。


*どういたしまして。

*何かございましたらお呼びください。

*また、進捗が更新されましたら報告いたします。


----------------------------------


「はー、これでやっと四人目のスペシャルスチル……あと20%かぁ……ユズだけガードが硬いんだよなー。どうしよっかな」



 美郷の声に、京一郎はハッと息を呑んで櫻子を見た。

 櫻子はそっと溜息をこぼし、どうしたものか、と口元を手のひらで覆った。



「櫻子さん、彼女は何を言って……」

「……ここまで馬鹿だと逆にやりがいがありませんわね。京一郎様……あなたはここでお待ちになって。……ここで、わたくしが終わらせますわ」

「櫻子さん……?」



 櫻子──Harmonizerは立ち上がり、カーテンの外側にそっと足音を消して出た。

 本当は、京一郎のことも巻き込みたくなどなかった。


 最後まで完璧に、そして誰にも知られずこの世界を正したかった。



「Main System[Glass]……『Delete Anomaries』の計画を遂行いたしますわ」



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──情報を取得中……

──承諾。


*すでに「Harmonizer」の全権限は解放されています。

*よろしいのですか?


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「構わないわ。どうせ……みんな忘れるもの」



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*Harmonizerの指示に従います。

*どのような対話を望まれますか?


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「……できれば、平穏に。まあ、上手くいかなければ強制的にシャットアウトするだけですわ」



 シャッと美郷が横になっているであろうベッドのカーテンを開け、櫻子は冷え切った目で油断している彼女を見下ろした。



「!? な、何……あんた、いつからいたの……?」

「日野美郷さん、あなたに二つだけ選択肢を提示して差し上げます」

「はっ……? な、何であたしの名前っ……あんた、誰……!」

「一つ目、元の世界へ戻り、この世界を正常化させること。二つ目、この世界に残り、わたくしに始末されること。どちらをお選びになりますか?」

「どっちも嫌! せっかくここまで頑張ってきたのに、京一郎さまルートを見るまで終われないに決まってるじゃない! あたしは京一郎さまと恋愛するために好きでもないキャラの好感度を上げてきたんだから!」

「では情報を開示します」



 櫻子の青くうつくしかった瞳は赤く光り、その異常な光に美郷はたじろぐ。

 そのような動作にも、動揺にも、何一つ反応せず、櫻子は淡々と口を開く。



「第一に、あなたでは『鈴村京一郎』ルートは解放できません。絶対条件を満たしていないためあなたは基本条件を満たしてもルートの解放には至りません。第二に、あなたはこの世界における『異物』です。わたくしは『伊崎鈴音』という異物、そしてその中に入り込んだ『日野美郷』という異物、この二種類の異物を排除するために存在しています」

「な、なに……気持ち悪い、近づかないで! 誰かっ! 誰かぁ!」

「第三に、あなたはこの世界へ馴染むことを拒絶しました。よって、世界からも拒絶反応が発生いたしました。結果、Harmonizerは『伊崎鈴音』および『日野美郷』をこの世界から排除いたします。選択肢1、選択肢2、いずれも拒む場合はProgramによって強制送還を行います」

「いやっ、触らないで、来ないで! 誰か、誰もいないの!? あたしを助けてよ!」

「助けはありません。あなたはこの世界における異物であり、救済は存在しません。Harmonizerわたくしは選択肢を提示し、情報を開示しました。選択肢をお選びください。いずれも選択されない場合は自動的に世界があなたを排除します」



 櫻子はじっと美郷の目を見つめる。まるで心の奥──魂すらも見透かすような透明で、血のように赤い瞳のまま。

 じりじりと後退あとずさる美郷は逃げ道がないとようやく理解したのか、いや、いや、と首を振りながら泣き始めた。



「あたしは選ばれたヒロインなのよ!」

「その認識は誤りです」

「そうじゃなかったら転生なんてしないはずじゃない!」

「その認識は誤りです。……いずれの選択肢も拒否されるのですね」

「死にたくない! あたしは死にたくなんてないし、ここで京一郎と恋愛するの!」

「それはできません。あなたでは不可能であるとすでに情報開示いたしました。……残念です、日野美郷さん。これは最後のチャンスでしたのに……」



 ふっと一瞬だけ海のようにうつくしい青の瞳に戻った櫻子はまた赤い瞳になってしまう。

 すっと白魚のような手を美郷に向けて伸ばし、パチン、と指を鳴らす。



「あ、…………え……?」



 ガクン、と美郷の体が頽れる。彼女はまだ意識を何とか保っているが、その精神力があるのならせめて世界に馴染む努力をすべきだったとHarmonizeは静かに見つめる。



「おやすみなさい。[この世界]はあなたを望みませんでした。Sub System, sleep mode……それでは[この世界]より『伊崎鈴音』を削除します。Glass、『Delete Anomalies』を実行」



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──命令を承認

──「伊崎鈴音」の存在を削除します。


──該当データを削除中……

──処理中……


──該当データの削除処理が完了しました!


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「続けて[この世界]より『日野美郷』の魂を第192番の世界へ強制送還」



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──命令を承認


──強制送還の準備をしています……

──第192番の世界にアクセス中……

──アクセス成功!

──該当人物へ該当人格を強制送還中……


──送還処理中……


──強制送還に成功!


──Mission Complete.

──お疲れ様でした、Harmonizer。


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「……はあ。あとはあなたにまかせますわ、Main System[Glass]……」



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*イエス、レディ。

*あとの処理はおまかせください。

*まずはあなたの意識を「花菱櫻子」から離脱させます。

*その後、充分な休息を取ってください。


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「櫻子さん……いまのは……」

「ごめんなさい、京一郎様。あなたには見せたくなかった、こんな姿」


 いつからか様子を見ていたらしい京一郎を見て、Harmonizerは赤と青で明滅する瞳で彼を見つめながら悲しそうに微笑んだ。


 少しずつ、少しずつ、櫻子の体が透けていく。

 少しずつ、少しずつ、世界が透明になっていく。



「櫻子さん!」

「──次は、あなたとしあわせになれる未来があるといいわね」



 世界は透明になって、京一郎の手は櫻子に届かず、Harmonizerの意識がふっと途切れた。


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