そこからは、無言の行軍だった。
幸い、【
出口は目に見えないが、星幻をぶち込むことでこじ開けることが可能だ。侵星者にとって招かれざる客たる星幻少女は、不法侵入不法退去が基本線である。
「っはあっ、はあっ……」
商業ビル——どうやら【箱庭】がいくらか移動していたらしく、屋上ではなくがらんとした空きフロアに着地した黒い星幻少女が、荒く乱れた呼吸をする。
「に、人間の方は……!」
「人間て。星幻少女も人間だからね」
ツッコミを入れつつも、私だって心臓がばくばくだった。
私の担いでいた男性、それに黒い星幻少女に背負われていた女性をそっと床に下ろす。異界たる【箱庭】を脱出したので、その体は骨から何の変哲もない人間のものに戻っていた。
「う……ううん……」
男性が呻き声をあげるのを聞き、ほっとした感覚が胸に下りてきた。
女性の方も呼吸がある。生きてさえいるのなら、すぐに異界の侵食が抜けて回復するはずだ。
「大丈夫。あ、それより格好、戻したほうがいいかも。目、覚ましそう」
言いながら、私は全身に星幻を巡らせる。
途端、頭の狼耳は引っ込んで顔の横に人の耳が戻り、髪は品行方正な黒になり、服もただのセーラー服となる。
黒い星幻少女も「あ、わ、わ」と言いながら星幻を引き出して、服装をラフなパーカー姿に変えた。私と違って、あとは目が黒くなった程度の変化。
間もなくして、男性がのろのろと目を開いた。
「こ、ここは……?」
「あ、おじさん起きましたかー。よかったー」
あらかじめ用意していた台詞を返す。
「き、君たちは……? それに僕……僕たち、恐ろしい場所に……骸骨が襲ってくる暗い……遺跡……? に、いたはずじゃ……」
「あー、夢ですよそれ、夢。完全に夢。おじさん達なんか倒れてたんで、日陰に移動しといたんですよー」
達、の部分ではっとした男性は、すぐ横の女性を見て安堵の表情を浮かべた。
「夢……とてもそうは思えなかったが……」
「夢ですよ。大丈夫、数日したら忘れてます。絶対」
そういうものだ。
故に、この世界の生き物たる人間は、それらを記憶しておくことができない。するすると砂のように零れ落ちていって、三日もあれば完全に忘れ去ってしまう。
覚えていられるのは、異界をその身に取り込んだ
「じゃあ、私達はこれで。具合悪かったら、ちゃんとビョーイン行ってくださいね」
女性の介抱は男性に任せ、私は黒い星幻少女——もとい、黒い少女の腕を引いてその場を後にする。
侵星者の【箱庭】は、二人を介抱しているうちに逃げるように去ってしまっていた。もう、とっくに感知もできないくらいの離れた場所へ行ってしまったことだろう。
「さて」
ビルの入り口で向かい合い、少し悩んで。
「私は月嶺みらい、
黒い少女は目を丸くしていたが、私の言わんとすることを分かってくれたらしい。
「わわ、わたしは、
「まだひと月かふた月くらい、でしょ?」
きょとん、とする黒い少女、もとい犀花に、私は尻尾を振——ろうとしてから
「戦闘自体は上手かったけど、動きがぎこちなかったから。まだ、星幻少女の身体能力に引っ張られてる感じっていうか……違った?」
「い、いえ! その通りですっ。まだこの体に慣れてなくて……」
犀花はむにむにと自分の腕をつまんだかと思ったら、ばっと顔をあげて。
「なので、今日はとってもとっても助かりました! ありがとうございます、ええと……」
「みらい、でいいよ。月嶺は言いにくいし書きにくいし」
「はい、みらいさんっ。わたしのことは是非、犀花と!」
「うん。で、犀花はこの後どうするの?」
それは逃した獲物を追うか、という質問だ。
犀花はむううと悩ましげに唸る。一度振り切られた【箱庭】を追うのは難しいことは、新米ながら知っているようだった。
「ここからは、パトロールに切り替えようかと……。みらいさんは」
「私は、あー……学校戻る。高校、抜け出してきてるから……」
今は、平日も平日の昼過ぎ。ゴリゴリに五時間目の数学中である。
「でも、侵星者見つかったら手伝うからさ。連絡先教えてよ」
「あっ……わたし、スマホ持ってなくて……」
「そうなの? まあ、中学生だもんね」
背の低さと雰囲気の幼さからの推測だが、正解だったようで犀花はぶんぶんと首を縦に振った。
「そ、そうなんです! なので、救援は星幻の気配を察知したときだけで大丈夫ですので!」
「ん、了解」
まあ、さっき一合打ち合った実力を鑑みるに、あの程度の侵星者に遅れを取るようなことはないだろう。
特に心配もせず、私は頷いた。
私と犀花は並んで商業ビルを出る。
ふと、目の前の電柱に、見覚えのある紙が貼ってあるのに気がついた。
山寺慶純という尋ね人を探す、恐らくは親族手製のポスター。
失踪日に対して真新しいそれは、最近刷られたばかりの物だろう。
半年。
この現代日本で半年も発見されていないとなれば、そしてその失踪が山寺なる彼本人の意思によるものではないとすれば、その行末はきっと碌なモンじゃない。
(……せめて、異世界で勇者サマでもやって、楽しく生きてたらいいな)
そう、星幻少女にあるまじき思考が浮かんだ。
浮かんだ自分自身に、私は酷く失望した。
「……どうしました?」
「あ、いや。疲れたなーって」
「なるほど?」
雑な誤魔化しだったが、犀花は納得してくれたようだった。
私は高校の方へ、犀花は反対方向へ、それぞれ別に進路を向ける。
「じゃ、また会うことがあったらヨロシクね」
「はい、さよならですっ」
手を振り別れる。お互い生き延びていれば、【箱庭】内でまた会うこともあるだろう、なんて思いながら。
そう。
この時の私は、まだ全く分かっていなかったのだ。
犀花との——黒色をしたパンドラとの出会いが、私に何を齎して、私から何を奪うのかを。
なにせ、ここから僅か一月後だ。
私が、この手で犀花を殺そうと決意するまでは。