静かな教室に、カタカタとキーボードの音だけが響く。
視界の隅では麗が、DIYでもしているのかというぐらいに工具を持ち出して何かをつくっている。
おれはその音をBGMにしながら、小説を書いている。
昼休みの化学準備室Ⅱは、いつも通りとても落ち着く。
それなのに……それなのに。
はあー、とため息。
正直、ぜんっぜん小説が進まない。
一行書いて、消す、また新しく一行書いて消す。
その繰り返しだ。
そろそろ初稿を提出しなければ、本気でヤバい。
それなのに、進んでいない。
無理にでも書けばいつの間にか完成する、というわけでもなく……。
どうも筆が乗らない、という状態だ。
「この間、リズリサちゃんに何されたか知らないけど、ずいぶんと引きずってるね」
麗が作業の手を止めてこちらを見る。
「その名前を口にしないでくれ……。死にたくなる」
例の双子に極刑に処されたのは先週のこと。
あいつらは、暴力も暴言も一切ないくせに、おれのトラウマになることをピンポイントで狙ってくるのだ。
ああ、思い出しくもない……。
ただ、おれが元気がない理由というのは、例の双子がらみではない。
あいつらも原因のひとつではあるのだが。
「なんかこう、漠然とした不安があるって感じなんだよな」
おれはそういうと、またため息をひとつ。
「あー、わかるわかる!」
笑顔で麗がうなずく。
「本当か? 麗もそういう気分になるのか?」
「なるよー。今朝だってさあ、ぜんぜん髪型決まらなくて。前髪がいい感じに斜めに流れないんだよね」
「くっだらねえ!」
「はあ?! どこが? 翔の漠然とした不安だってくだらなさの集合体でしょ、どーせ」
「んなことねえ!」
「じゃあ、なに? 具体的には?」
「だから具体的にわからないから、漠然とした不安だっつってんの」
「やっぱくだらない不安が集まってるだけじゃん」
「……もういい。このやりとり自体が無駄、くだらない」
おれはきっぱりというと、再びパソコンに向かう。
しかし、メモ帳は真っ白のまま(おれは古き良きメモ帳つかいだ)
「できた!」
麗の声に視線を向ければ、白い箱のようなものが見えた。
「なんだそれは……」
「洗濯機」
「は? 今度は洗濯機をつくったのか?」
「ただの洗濯機じゃないんだよね」
麗はそういうと、白い箱を軽くこぶしで叩く。
どこからどう見てもドラム式洗濯機にしか見えないんだが。
「これはね、『心の洗濯機』です!」
「心の?」
「そう! まあ、物は試しというじゃない」
麗はそういうと、洗濯機の扉を開けた。
そして中に入ろうとする。
「おい、中に入るのか? 大丈夫なのか、それ」
「うん。大丈夫。全自動だから」
「そういう意味じゃなくて、人間が入ってもいいやつなのか?」
「危険なものはつくらないよー」
けらけらと笑う麗を見て思う。
こいつの今までの発明は、十分に人間にとって危険だと思うんだが……。
そうこうしている間に、麗は洗濯機の扉を内側から閉めた。
すると、洗濯機が勝手に動き出す。
水が出る音、水が回る音、脱水の音。
なんだか人間が中にいるのに、してはいけない音のオンパレード。
大丈夫なのか、本当に……。
洗濯機の扉を開けようとしてみるが、ビクともしない。
すると。
ピーピーピー、と甲高い音がした。
それと同時に、中から扉が開く。
「あー、気持ちよかったー! いぇーい!」
麗が洗濯機から飛び出してくる。
元気そうでなによりだ。
そして、心なしか先ほどよりも肌も髪の毛もピカピカでつやっつやのような……?
元から麗は化粧の上からでもわかるほどにきれいな肌をしているし、髪の毛も染めているとは思えないほど艶が良いのだが。
洗濯って、そういう意味?
首をかしげているおれに、麗はハイテンション気味にいう。
「これね、すっごい洗濯機なの! 入って優雅に過ごしていれば、あっというまに心が晴れやか!」
「なんだそれ……本当に大丈夫なのか」
「だって心を洗濯してくれるんだもん。違法じゃないよー!」
麗はとても良い笑顔で笑うと、洗濯機の扉を開ける。
「はい、じゃあ翔も入ってみよ!」
「えっ、おれはいいよ……」
「この晴れやかな気持ちを味わってほしいの! いいでしょ? ね? ねっ?」
麗はそういって顔を近づけてくる。
「圧が強いんだよ……。わかったよ。安全なんだな?」
「もちのろん!」
「なんかいちいち発言が古いんだよなあ」
おれはぶつくさいいながらも、洗濯機に入った。
中は以外にも広かった、というよりは……。
「なっ、なんじゃこりゃあ!!!」
目の前には部屋があった。
もう一度いおう。
広々とした部屋があったのだ。
人間がやっと入れるぐらいの大きさの洗濯機の中には、十畳ほどの広間があった。
正面の壁は一面が本棚。
高い天井に、ふかふかの絨毯。
中央にはソファーとテーブルがあり、その近くにはコーヒーメーカー。
テーブルにはパソコン、しかもネットにつながっている。
本棚にはおれが好きな漫画や小説がずらりと並んでいた。
そして、本棚の前にはさまざまな椅子があり、気に入った椅子で本を読めるらしい。
部屋の隅には、ベッドもあった。
程よい柔らかさのマットレスに、おれの好みの堅さと高さの枕、タオルケット。
部屋は寒くもなく暑くもない、ちょうどいい気温。
そして部屋にはもちろん、おれひとり。
「なんだこの最高の空間は!」
おれは思わずベッドにダイブする。
するとその時。
ピーピーピー。
大きな音が響いたかと思うと、扉が開く音がして、いつの間にかおれは広間の外に出ていた。
見慣れた化学準備室Ⅱの景色。
「あれ?」
おれがキョロキョロしていると、麗がいう。
「おかえりー! どうだった?」
「あの広間でベッドにダイブしたら、それで戻ってきた」
「じゃあいつの間にか寝ちゃったんだね」
「ってゆーか、この洗濯機の中に、どうやってあんな広い部屋が作れるんだ?」
「ああ、それはね、幻だよ」
麗は腰に手を当て、得意気に続ける。
「自分が思う最高の部屋で、好きなことが過ごせる。そういう妄想はしたことあるでしょ?」
「そりゃあ、まあ」
「この『心の洗濯機』の中に入るとね、その妄想が実現するの。まあ、それも妄想だけど」
「じゃあ、あの広間はおれの妄想で現実ではない?」
「そうだよ。自分が一番幸せだと思える空間でくつろげるっていう、夢を見られるようなものかな」
「へぇ。それで心が晴れやかになる、と」
「それだけじゃないけどね。あの洗濯機の中には、特殊な薬が充満してて、それをしばらく吸い続けることによって、いい感じに気持ちよくなるの」
「なあ、それ大丈夫なやつか?」
「大丈夫なんだけど、ただ」
麗はそこで言葉を切って、少しだけ考え込む。
「まっ、大丈夫だよ!」
にっこり笑顔。
「今、なんかいいかけてやめただろ」
「いいじゃん、いいじゃん」
麗がそういっておれの肩をポンポンたたく。
「まあ、いいか」
おれはそういって笑った。
こんなに心が晴れやかなのは、何年ぶりだろう。
とても清々しい気分だ。