「詰んだ……」
おれがそうつぶやいた時。
書庫が消えた。
文字通り、一瞬で視界から消えた。
それから部屋がどんどん消えた。
食堂も、寝室も、コンビニや美容院も煙のように消えていく。
そして、とうとう屋敷ごとなくなった。
周囲は暗い空間だけが残ったのだ。
「翔……こわいよお」
暗闇で麗が泣きそうな声でいうと、おれは手探りで麗を探す。
細い手をつかんで、おれはいう。
「ここだ」
「怖いよお」
「大丈夫だ。妄想が消えただけだろう?」
「そうだよ。でも、妄想の空間が消えるってことは、洗濯機が壊れたってことだよお」
しくしくと泣く麗に、おれは何をいってやればいいのかわからない。
なんとかしてやるよ。
そんなこといえない。
おれは、なにもできないんだから。
暗闇に目が慣れてきて、隣の麗がぼんやりと見えた。
麗は身を小さくして泣いている。
なんだか幼い頃の麗を思い出す。
よくいっしょに遊んでいた頃に、刑事と犯人ごっこをしていた時。
当時はおれのほうが足が速くて、刑事役の麗を本気でまいてしまった。
その時、麗は悔しくて泣いたのだ。
それでおれはなかなか泣き止まない麗に、なけなしのこづかいでアイスをおごった。
アイスはおれが当たり、麗はハズレで麗はまた泣いて……。
これ、今思い出すような出来事か?
なにはともあれ、麗はおれがいっしょにいてやらないとダメなんだ。
なにもできなくても、そばにいて不安を和らげることはできる。
そこでふと思う。
「不安な気持ちって、無理に消す必要なんかないんだな」
「……うん。わたしも同じこと考えてた」
「不安なまま普通に過ごして、それでなんかちょっと良いことあって、テンションちょっと上がって、嫌なことあってまたテンション下がったり、それが生きてるってことなのかもな」
「なんか哲学的」
「そうか?」
「うん。別に、無理に明るい気持ちになる必要なんてなかったのかも」
「そうだな。自分の機嫌は自分で取れるようになれっていうからな」
「でも、気づいたところでもう遅いよ」
麗が珍しく弱気だった。
大丈夫だよ、なんていえない。
だって、おれももうここで一生このままなんじゃないかと思っているからだ。
おれと麗はしばらく黙ってその場に座っていた。
真っ暗な空間で音もないので、不安。
だけど、麗と手をつないでいることで安心できたのだ。
彼女の体温だけが、唯一おれが今ここに存在している、という証のような気がした。
「ねえ、翔」
麗が口を開いた。
「ん?」
「もしかして、麗たち、このまま死んじゃうかもしれないから」
おいおい冗談はよせよ。
そんな虚勢を張る元気はなかった。
「うん」
「ごめんね。巻き込んじゃって」
「いや、いいんだ。おれは好きでここに入ってたんだから」
「でも、わたしのせい」
麗はそこで言葉を切って、おれの手をギュッと力強く握る。
それから、「あのね」と勢いをつけるかのようにいう。
麗の顔はハッキリとは見えない。
だけど、麗の小さな手は熱を帯びている。
「あのね。わたしね、翔のこと、ずっとす」
ゴッ。
麗の言葉をさえぎったのは、変な音だった。
あたり響く鈍い音。
おれたちは辺りをキョロキョロと見回す。
すると、ビービービーという変な音が響く。
おれと麗はつないだ手に力をこめる。
離れないように。
ビービービーと洗濯機からは警告のような音が鳴り続けていた。
ああ、終わりか。
洗濯機は壊れて、おれたちはそのままこの機械に飲まれるんだ。
初稿、あげたかったなあ。
四巻がおれの遺作になるのは残念だが。
高校生作家が事故死の遺作って、センセーションナルだから売れますよとか、担当がいいそう。
つーか、おれが死んだあとに売れてもおれのところには何も……。
いや、家族のところに印税がはいりゃいいのか。
でも、売れたら担当が出世して給料上がって、それで豪遊するのかと思うと腹立つな。
だって、あいつは陽キャで彼女とネズミーシーだ。
くっそ……あの電話とメール、今思い出してもまだ腹立つ。
「翔!」
その声にハッとする。
気づけばおれは、硬い床の上に寝転んでいた。
体を起こせば、目の前には麗。
そして見慣れた化学準備室Ⅱの部屋の景色。
「助かった、のか?」
おれは自分の両手に視線を落として、ぽつりとつぶやく。
「そうみたい」
麗は元気よくいうと、洗濯機を指さす。
洗濯機は、上の部分が思い切りへこんでいた。
視線をもう少し上に向けると、窓ガラスが割れている。
化学準備室Ⅱに唯一ある小さな窓が……。
そしてもしやと思い、床を見ればガラスの破片が散らばり、野球のボールが転がっていた。
「なるほど。野球部のボールが窓から入ってきてこの洗濯機に当たった、それで壊れたのか」
おれがいうと、麗はほうきとちりとりを持ってきて口を開く。
「うん。その拍子にポーンとわたしと翔は外に放り出されたんだね」
「よかった……壊れたまま閉じ込められなくて」
「本当にね。まあ、でも野球のボールが当たる前から壊れてたみたいだけど」
麗の言葉に、おれは散らばったガラスの破片を片付けるのを手伝いながら聞く。
「え? 壊れてた?」
「だって、なかなか心の洗濯が終わらなかったでしょ」
「まあ。でも、大きくしたからじゃないのか」
「ちがうと思う。容量を大きくして、速度も上げて、ってしたつもりだけど、負荷が大きかったのかもね。それで壊れたんだよ」
麗は続ける。
「で、野球のボールが当たるという外部からの刺激で本格的に壊れて、中身を吐き出した、ってことかなあ」
「じゃあ、野球のボールが当たらなかったら……」
おれはごくりと唾を飲む。
麗はあっけらかんとして答える。
「あのまま暗闇に閉じ込められてかもねー。一生」
「怖いこというなよ」
「だって本当にそうなってる可能性あったんだもん」
麗はそういって笑い出す。
「今はそうやって笑ってるけど、さっきまでめちゃくちゃ怖がってたじゃねーか」
おれはそこでふと思い出した。
「なあ、そういえば、洗濯機の中が真っ暗になった時、なにかをいいかけてたよな」
「え?」
「ほら、おれのことをずっと……ってやつ」
おれが麗を見ると、彼女はうつむいた。
ん? なにかまずいことを聞いたのだろうか。
不安に思っていると、麗が顔を上げてにっこり笑う。
「わたしは、翔のことをずっと大事な友だちだと思ってるよ」
「ああ、そうか。ありがとう。おれも麗のことは大事な友だちだ」
おれがそういって力強くうなずくと、麗は大きく背伸びをする。
「あー、なーんかお腹減ったぁ。イチゴミルク買ってこよ」
「腹減ってイチゴミルクかよ」
「女の子はイチゴミルクでできてるんだよ」
「マイ〇ロみたいだな」
「そうだよー。わたしはミルクキュートなファンタジー小動物」
麗は歌いながら部屋を出ていく。
「あっ。ついでに翔の分も何か買ってくるよー。なにがいい?」
「え、あ、えーっと」
「ブラックコーヒーね。オッケー」
麗はそういうと、ドアを閉めた。
廊下を走っていく音が遠ざかる。
まだ何もいってないのに。
「まったく……自由な奴め……」
おれはそうつぶやいてひとりで笑う。
その時だった。
ピピピー、ピピピー。
どこからか電子音が聞こえてきた。
スマホではない。
麗のスマホは……ここにはないようだ。
なにかの機械の音?
そしてよく耳を澄ませば、音の正体はすぐに判明した。
洗濯機だ。
洗濯機から音が鳴っている。
ピピピーピピピー、と心の洗濯を終えた音が部屋に響く。
しかし、洗濯機は壊れたはずだ。
恐る恐る洗濯機を見ると、電源が入ってる様子はない。
壊れて勝手に音が鳴っているのだろう。
そう思ってほうきとちりとりを片付けようとした時だった。
『センタク ガ オワリマシタ』
そんな声がして振り返ると、洗濯機の扉が勝手に開く。
壊れたんだ、そうだ、きっと壊れたんだ。
おれがそう思って後ずさりをすると。
シャボン玉がふわふわと浮いているのが見えた。
シャボン玉はおれの目の前で止まり、はじけた。
途端に、恐怖や不安は消える。
「まあ、いいか」
おれは急に心が軽くなって、先ほど感じていた感情も思い出せなくなった。
悩みがないって、なんてすばらしい!