コトリ、と眼の前に置かれた白茶には毒が盛ってあった。
*
その年、
朝から降り始めた雪は夜になってようやく弱まり、石牢の高い壁にある小さな窓からは満月がちらりと姿を覗かせている。
投獄されもう2日になるだろうか。
石造りの床は底冷えしひどく寒い。
服は2日前の夜中に呼びだされて慌てて着替えたままで、後宮制服である素白の分厚い綿の上衣と袴だけだ。腰まで伸びていた三つ編みはほどけてしまい、今はただ肩口で束ねて流している。前髪は長めに残して耳にかけているのは、瞳の色を隠すためだ。
普段は女にしては背が高く、目立つ。ただ、今は長い手足を縮めて必死で暖を取っていた。
「大丈夫……大丈夫……」ガタガタと震える唇を無理やり動かし暁雨は呟いた。
今はただ夜の寒さで気を失わない事が重要に思えた。それならば、ガタガタ震えるながら考え続けることしかできない。
石牢は岩と枯れ葉と雪の香りが充満しており、暁雨にはただでさえ薄暗い牢獄が墨の海に沈んでいるかのように感じる。
なにか違うことを考えなければ、気が狂ってしまう。
「あの娘、
牢獄にある唯一の扉の奥から、見回りの兵士たちの話が漏れ聞こえる。交代に着た兵士だろう、鎧の鉄と皮の匂いが見えた。
「まさか、あんな下女が?」
扉の小窓から漏れる光が揺れ、除き見られた思った。暁雨は思わず抱えた膝に顔を伏せた。
「北の江家の媛様と侍女達を50人近くやっちまったらしい。宦官共は大騒ぎだ」
そんな訳はない。と叫びだしそうになるのをなんとかこらえる。実際はガタガタと震えて声にはならなかっただろうけど。
下級の兵士に訴えたところで、自分がどうなるわけでもない。
現に昨日、牢獄内で叫んだのだ。
「わたしには見えたのです! 毒が入っていたのが見えたのです!」
結果はどうだ。寒さで死にそうになっている。
暁雨はあの怪死事件のただ一人の生き残りだ。
ふぅと手に息を吐いて温める。長年の水仕事で荒れた手はザリザリと固く、娘の手には見えない。
もう一度息を吐く。一向に暖かくはならなかった。
*
話は2日前にさかのぼる。
皇太子の後宮、瑶華宮の一角。
その全員が芳蘭妃に仕える者たちだが、雑役係の下女までが媛の私室に呼ばれるのは異例のことだった。
二年間芳蘭妃に仕えてきた暁雨にとっても、こんなことは初めてだ。
暁雨も真夜中の呼び出しに慌てて身支度を整えて、戸惑いながらも芳蘭妃の大部屋に足を踏み入れた。
月夜と蝋燭の明かりに照らされていても、媛の大部屋は見事なものだった。黒漆の梁がくっきりと影になり、垂れ下がった絹飾りを彩る金糸の刺繍が淡く月光を返している。
名家の娘である芳蘭妃は後宮でも次期皇后と噂される四妃嬪の一人である。ただの洗衣女でしかない暁雨は、もちろん媛の私室にまで入ったことはない。
大部屋は真冬の夜中だというのに妙な熱気に包まれていた。火鉢のぬくもりと宮女たちのざわめきが混ざり合い、むせかえるほど息苦しい。
部屋には春藤の香が焚かれ、暁雨には暗い紫色の霧の中にいるように感じる。
隣の間から、芳蘭妃が現れ。暁雨たちは一斉に頭を床につけた。
「面をあげなさい」しんと静まり返る部屋に芳蘭妃の低い声が響く。
暁雨は自分が仕えている媛をここまで近くで見たのは初めてだった。
焚きしめられた香のせいか、暗闇の中で芳蘭妃の姿は赤ぼんやりと浮かび上がって見えた。
深夜にもかかわらず、漆黒の髪は頭上で完璧に結い上げられ、金の蝶を模した簪が幾筋も煌めいている。
真っ白で血の気のない肌は冷たさを孕み、長い睫毛の影が涙のように頬に落ちていた。
赤い衣には刺繍とともに真紅の宝玉が縫い付けられ、蝋燭の灯りに照らされるその姿はまるで篝火のようだ。
なにか賞賜でも貰えるかもと暁雨が下女仲間と目配せしていたその時、侍女のひとりが音もなく近づき、眼の前にコトリと茶器を置いた。
見事な茶杯に注がれた白茶だった。媛に近しい侍女5人が全員に茶を配っている。
「そちら、よくぞ参った。飲むがよい」
芳蘭妃の抑揚のない声が響く。
大部屋にはかすかな戸惑いの波が広がった。
暁雨よりもっと媛に近い宮女達も、茶杯を持って困惑しているようだった。
真夜中に呼び出して、宮女から下女にまで茶を振る舞う? そんな事があるだろうか。みなポカンと口を開け、媛を見つめている。
暁雨の前に置かれた茶杯は白地に鮮やかな花草と鳥が焼き付けられ、金泥で蝶が描かれていた。きっと芳蘭妃の紋だろう。
暁雨が見ても見事な茶杯だ。普段ならこんな立派な物には絶対に触れられない。
注がれた白茶は淡い若草色の高貴な香りを放ち、口にしたこともない一級品であることは間違いない。
だが、若草色の香りの奥に別の色が見えた。強い藤の香と混じって見分けづらいが確かに見えた。
(なんだろう……)
暁雨には、香りが色として見える不思議な力があった。
それは幼少期から自然にあった力で、ほかの人にはないことに気づいたのは10歳のときだ。香りは目に見えないはずなのに、空間にふんわりと色が漂い、その濃淡で強さを感じ取れる。
多分、自分でも気づいていない僅かな匂いを鼻で
茶杯をそっと手に取り、じっと覗き込む。
白茶の香ばしく芳醇な香りの奥に、禍々しい色が混じっている。
揺れる蝋燭の灯りの中で、黒く輝く霧と赤黒い砂粒がちらちらと漂い、やがて消えていった。
――白茶に何か混ざっている?
――これは……口にしてはいけない。
周りの下女仲間と宮女達はそろそろと茶を口につけている。
これは……口にしてはいけない物だ……
「その茶をお飲みなさい」
自分に向けられた言葉のように感じて、暁雨はビクリと芳蘭妃を見上げた。
芳蘭妃は優雅に茶杯を手に取りゆっくりと天井に掲げた後、そのまま唇へ運ぶ。赤黒く艶やかな唇が歪み、かすかに「ふふふ」と笑う声が漏れたように感じた。
「お飲みなさい」
周囲の女たちは戸惑いながらも、茶を飲み干している。
暁雨は慌てて飲み干すふりをした。
実際には口に運ぶふりをして袖に茶を流し込んだ。分厚い中綿入りの上衣が幸いして、漏れ出ることはなかったが、肘のあたりがじんわりと湿っていくのを感じる。
嫌な予感に動悸が激しくなり、胸が締めつけられるようだった。
その後、周囲の宮女たちが苦しみ始め、次々と倒れていくのを暁雨は震えながら目の当たりにした。
やがて意識が遠のき、気づけば冷たい牢獄の中だった。
あの時は生き残るのに必死で、生き残ったあとにどうなるかなど考えていなかった。あの毒を口にしないので精一杯だった。犯人と思われるのも当然かもしれない。ただ一人生き残ったのだから。
だが、あれは自害だ。芳蘭妃は茶に毒が入っているのを知っていたはずだ。
暁雨には確信を持ってそう思える。
それに、茶を配った侍女達の戸惑いや困惑した空気。彼女達は誰一人知らなかったはずだ。
芳蘭妃は侍女達に毒を盛ったのだ。もちろん、誰にも信じてもらえないだろうけど。
暁雨はもう一度ため息を付いた。
死ぬわけにはいかない。でも、どうすれば良いのかわからない。
その時、牢獄内が白い霧に包まれた。