遥か昔、運命の糸が絡み合い、私たちの人生は静かに、しかし確固たる決意のもと一つの道を歩むよう定められていた。私、ミレーヌ・アルヴァンドは、幼少の頃より父母の厳格な躾の中で育まれ、名門伯爵家の令嬢としての品格と教養を磨いてきた。しかし、内心の奥底で私がひそかに憧れていたのは、窮屈な掟や義務に縛られぬ、自由な風に乗って大空を舞うような生き方であった。そんな私に突如、家の繁栄と血統の尊厳を守るために下された運命――政略結婚が待ち受けていたのだ。
あの日、蒼い空が広がる朝、厳かな館の門をくぐった私の胸中は、期待と不安が入り混じる複雑な感情でいっぱいであった。館内は、先代から受け継がれた重厚な伝統と格式が漂い、壁に掛けられた数多の肖像画が、家の歴史と誇りを物語っている。母は、普段ならば優しさと温かみを湛えた眼差しで私を見守ってくれるが、その日はどこか緊張の色を隠せず、視線に決意と覚悟が浮かんでいるように見えた。まさに、今日という日――私の人生を大きく変える転機の日であった。
政略結婚――それは、誰もが耳にするロマンティックな恋愛物語とは程遠く、冷徹な取引そのものだと噂されるものであった。私の運命は、あらかじめ決められた相手、公爵家の嫡男 レオン・フォン・グランディスとの結婚によって固められていた。幼少より厳しい教育を受け、今や冷淡な眼差しと静かな威厳をまとった彼は、決して感情を表に出すことなく、ただ義務感に駆られて生きる男といった印象を与えていた。初めて彼と顔を合わせた婚約の儀式の日、短い挨拶の中に感じたのは、まるで機械的な応対のような彼の態度であり、そこには一切の温かさや情熱を感じることはなかった。
その瞬間、私の胸の奥では小さな怒りと悲しみが芽生えた。――「どうして、私という存在が、まるで単なる駒のように扱われるのか?」と。しかし、同時に私は悟っていた。政略結婚は、個人の感情や恋愛感情などは置き去りにされ、家の未来と伝統、さらには血統の清廉を守るための厳粛な儀式であるという現実を。私自身も、その重い宿命を受け入れざるを得なかったのだ。
そして、運命の日はやってきた。荘厳な大聖堂の扉が開かれ、精悍な貴族たちが厳かな面持ちで参列する中、私は純白のドレスに身を包み、長いバージンロードを歩んでいた。ドレスは、細部にわたる繊細な刺繍が施され、まるで星々が瞬くような輝きを放っていたが、その美しさとは裏腹に、私の心は無情な現実に曇りがあった。歩みを進めるごとに、父の堅い表情と母のかすかな涙が交錯し、家のために捧げるべき義務と、自分の望まぬ運命との狭間で揺れる思いが、静かに胸中を満たしていくのを感じた。
祭壇の前に辿り着いた瞬間、視界の先に広がっていたのは、一人の男、レオン・フォン・グランディスの姿であった。彼は、鋭い眼差しと冷徹な表情で私を捉え、まるで感情の起伏を見せずにただ義務を果たすかのように、淡々とした態度でこちらに向き合っていた。私の心は、その瞬間、複雑な思いで満たされた。彼の眼差しの奥に、私の本当の姿や弱さが見透かされるのではないかという不安と、同時に彼の持つ強大な存在感に圧倒される気持ちが交錯した。しかし、私自身、政略結婚という運命を前にすれば、いかに胸が締め付けられようとも、それを覆い隠すための強さが必要であると自らに誓っていた。
神父の厳かな声が大聖堂内に響き渡ると、「ミレーヌ・アルヴァンド、あなたはここにレオン・フォン・グランディスと結ばれ、家の未来を託されることを誓いますか?」と問いかける。その声は、まるで天からの命令のように重く、荘厳な空気を漂わせていた。私は、どこか冷静さを装いながらも、内心ではこの先待ち受ける苦難に思いを馳せ、そして密かに心の奥で反抗の火花を灯していた。口にするその誓いの言葉は、義務としての冷たい言葉にしか聞こえなかったが、私自身は、これからの日々に何らかの意味や光が見出されることを、どこかで願ってやまなかった。
式典が進む中、レオンは淡々と自身の誓いを述べ、指輪の交換が行われた。彼の口から発せられた一言「私も誓います」という言葉は、極めて簡潔でありながら、その背後に隠された本音や思いは一切見せず、ただ義務感だけが滲み出ているように感じられた。会場に響く拍手と祝福の声に、周囲の人々は歓喜に湧いたが、私の心はむしろ冷たい現実に包まれたままであった。誰もが、私が冷たく突き放される運命にあると噂する中で、私自身はこの現実を受け入れざるを得なかったのだ。
大聖堂を後にし、荘厳な外壁を背景に親族や貴族たちの祝福を受けながら、私は新たな人生の第一歩を踏み出した。外では、春の日差しが柔らかく降り注ぎ、花びらが風に舞い上がる光景がまるで祝福の舞踏のように見えた。しかし、私の心はその外見の美しさとは裏腹に、内面で幾重にも折り重なる不安と疑念に支配されていた。果たして、この政略結婚という契約は、単なる家のための儀式に過ぎないのか、それともいつか本物の愛へと昇華する可能性を秘めているのだろうか。周囲の陰口や哀れみの囁きが、まるで暗い予兆のように耳に届く中、私の心は冷静さと覚悟を保とうと努めていた。
夜が更けるにつれて、豪奢な祝宴が開かれ、社交界を代表する貴族たちが一堂に会する中で、会場は煌びやかな装飾とともに、笑い声や談笑が絶えなかった。しかし、私の耳に届くのは、どこか皮肉交じりのささやきや、「可哀想なミレーヌ様、冷たい旦那様に虐げられる運命だ」という陰湿な噂であった。まるで、その言葉一つひとつが、私の運命を決定づけるかのような重みを持っていた。だが、私はそんな風評に身を委ねることなく、ただひたすら前を向こうと決意していた。政略結婚という現実を背負った今、私ができるのは、己の意志でこの運命に抗い、どんなに厳しい試練が待ち受けていようとも、希望の光を見失わないことだと自分に誓ったのである。
祝宴の賑わいから離れ、館内の奥深い回廊を歩きながら、私はふとひとり静かに佇む庭園へと向かった。そこは、月明かりに照らされ、夜露に濡れる花々がしっとりと香る、まるで別世界のような静寂に包まれた場所であった。石畳を踏みしめる音がひっそりと響く中、私はこれまでの幼少期を思い起こした。かつて、父と共に広大な領地を駆け抜け、自由奔放に大地の息吹を感じたあの頃の記憶――その自由な風景は、今や遠い夢のように思えたが、同時に私の心に再び希望の灯をともしていた。
庭園の一角にある古びた噴水の前に立ち、月光に映る水面の煌めきを見つめながら、私は静かに呟いた。「この冷たく見える運命の中にも、いつか温かな光が差し込む日が来るはず…」
その瞬間、ふと背後から足音が近づいてくるのを感じ、振り返ると、長年この家に仕える忠実な家老が、深い知恵と温かみを湛えた眼差しでこちらに微笑んでいた。彼は低い声で、
「ミレーヌ様、これからの道のりは決して平坦ではございません。ですが、お嬢様の中に宿る強さと誇りは、この家の未来を照らす光となるでしょう」と静かに諭すように語った。その言葉は、私の胸に小さな勇気をもたらし、未来への不安と共に覚悟の炎を燃え上がらせた。
しばらくして、家老の言葉を背に、私は再び館内へと戻ることにした。祝宴の歓声や談笑の音が遠のく中、館内の廊下には燭台の明かりが揺れ、古い壁画や彫刻が、幾千年の歴史を静かに物語っている。私の心には、これから訪れる運命の試練とともに、どこかで本物の愛が芽生える可能性を信じる、微かな希望が確かに息づいているのを感じた。
館内を抜けると、再び外の空気が胸に満ち、夜明け前の静けさが辺りを包み込む。ひとときの休息と、未来への決意を胸に、私は自室へと戻った。シルクのカーテン越しに差し込む月明かりは、室内に柔らかな影を落とし、私の心模様と重なり合うかのように穏やかでありながらも、どこか切なさを伴っていた。
ベッドに腰を下ろし、ふと窓の外に広がる夜空を眺めると、星々が静かに瞬き、無数の物語を秘めたかのように輝いていた。その輝きの一つ一つに、私自身の過去と未来、そしてこれから歩むべき道が映し出されるような錯覚に陥る。
「私の運命は、この政略結婚という契約によって縛られたものに過ぎないのか……それとも、まだどこかで解き放たれる可能性があるのか?」
心の奥で問いかけながらも、答えは見えない。けれども、たとえ今は冷たく感じられる世界の中であっても、内に秘めた情熱と希望は決して消え去らない。そう、私は静かに自分自身に誓った。
――これが、私ミレーヌ・アルヴァンドの政略結婚の始まりであり、冷たく突き放されるかのような外見の裏に、もしかすると隠された温かな想いが潜んでいるのではないかという、淡い期待を胸に秘めた物語の序章である。
新たな朝が訪れるその時、私たちの運命は、まだ見ぬ未来へと大きく舵を切ることになる。家の名誉、血統の重み、そして何よりも自分自身の心がどのように変わっていくのか――それは、これからの厳しい日々の中で、確実に紡がれていく物語にほかならない。
この夜、重い宿命と静かなる決意の中で、私の心は密かに燃え上がっていた。たとえ政略結婚という冷たい契約の鎖に縛られていたとしても、内なる自由と本当の愛を求める気持ちは、決して消えることなく、未来への希望として確かに存在している。
―
夜も深まるとともに、豪奢な祝宴もひと段落し、館内の各所に静寂が戻り始めた。結婚式当日の喧騒が遠のく中、私は自室でひとり、今日という運命の日の余韻に浸っていた。だが、あの夜の出来事――初夜に感じた夫レオンの冷淡な一言と、ふとした瞬間に見せた、誰にも気づかれぬ温かな眼差し――その両義的な印象は、私の胸中に不思議な動揺をもたらしていた。
眠りにつく前、私は何度も自問した。「本当に、あの冷たさは本心ではなかったのだろうか?」と。政略結婚と聞けば、誰もが冷徹な取引のような、感情のない結びつきを想像する。しかし、私の胸の奥に灯った小さな違和感は、どこか温かいものを感じさせ、まるで氷の表面の下に隠れた熱い炎のように、確かに存在していた。
――そして、夜明けは新たな章の始まりを告げる。
◇ 新婚初朝の微睡みと、ささやかな変化 ◇
朝日が薄明かりを差し込み、私の瞼をそっと撫でる頃、私はゆっくりと目を覚ました。昨夜の出来事を思い返すうちに、心の中に一抹の温もりが広がるのを感じた。まだ、夢の中の記憶が朧く残る中、隣では誰もいないはずの寝室に、確かな存在感が漂っているような気配があった。
普段は冷静沈着で、無機質な態度を崩さないレオン。しかし、昨夜の彼の囁き――「……可愛すぎる」――その言葉の余韻が、私の耳元に静かに響いていたのだ。まるで、あの瞬間、冷たく見えた仮面の奥に隠れていた感情が、ふとした隙間からこぼれ落ちたかのように。
私は布団から身を起こし、そっと寝室の扉を開けた。そこには、まだ眠りの残る影すら感じさせるレオンの姿はなかった。しかし、部屋の隅に置かれたロウソクの炎が、いつもとは違う温かい色合いで揺れているのを見つけ、ふとした安心感が私を包んだ。
朝食のために用意された広間へ向かう途中、私はしばし足早に歩を進めながら、昨夜の出来事と自らの感情を整理しようと努めた。館内の廊下は、昨夜の祝宴の余韻を引きずるかのように、今なお柔らかな光に照らされ、どこか静謐な雰囲気を漂わせていた。
広間に入ると、すでに朝食の席には、重厚な食器とともに多くの家老や側近たちが集まっていた。皆、穏やかな朝のひとときを過ごすかのように見えたが、その中でひときわ気になるのは、窓際の席にひとり佇むレオンの姿であった。彼は普段通り、厳格な表情で遠くを見つめ、時折、眉をひそめることもあった。だが、その横顔には、昨夜の冷徹な面影ではなく、どこか内心に迷いを孕んだような柔らかさが滲んでいるように見えた。
「おはようございます、ミレーヌ様」
家老の一声に、私は軽やかに返事をしながらも、心の奥では確かな期待を感じていた。果たして、レオンの態度は昨日の夜と比べ、何か変化があったのだろうか。
朝食の最中、家老がそっと私に囁いた。「昨夜は何かおかしな様子でございましたね。旦那様も、普段の冷静さとは違い、どこか優しさを滲ませておられるように感じられました。」
その言葉に、私は顔を赤らめながらも、心の中で嬉しさと戸惑いが交錯するのを感じた。
レオンは、時折私の方に視線を送っては、まるで何かを伝えようとするかのような、微妙な表情の変化を見せる。普段ならば決して私に話しかけることはない彼が、今朝は何度か席を立ち、そっと私のすぐそばに歩み寄ってくる。その一挙手一投足に、私の心は自然と高鳴り、思わず胸の鼓動が速くなるのを感じた。
「ミレーヌ、今日は少し、外の空気を吸ってみたらどうだ?」
レオンが、無愛想な口調でありながらも、どこか心配そうに提案した。
「……ええ、少し散歩でもしてみましょうか」
その言葉に、彼はわずかに頷くと、すぐに席を立った。
私もまた、心の中でその優しい気遣いに驚きながら、軽く頷く。政略結婚としての形式を保つべき彼の態度が、今朝だけはどこか柔らかく、そして私に対して溢れるような保護欲を感じさせる――。
◇ 庭園でのひとときと、胸中の囁き ◇
広間を出ると、館の奥に広がる広大な庭園が目に入った。春の柔らかな日差しが、緑豊かな草木に優しく降り注ぎ、花々が色とりどりに咲き誇る様は、まるで新たな命の息吹を感じさせた。庭園の小道を歩きながら、私はふと、昨夜の孤独な気持ちと、今朝のレオンのふとした優しさが交錯する瞬間を思い返した。
庭の片隅にある噴水の前に立つと、ふと背後から、柔らかな足音が近づいてくるのが聞こえた。振り返ると、そこには普段は決して私に近寄ることのないレオンが、少しだけ距離を縮め、慎重な眼差しでこちらを見つめていた。
「ミレーヌ、君の顔色が少し青ざめているようだが、大丈夫か?」
その問いかけは、冷たい口調ではなく、むしろ心からの案じる声のように感じられた。
私は一瞬、戸惑いながらも答えた。「ええ、少し朝の冷えが厳しいだけだと思います。…でも、あなたの心遣いに、少し救われる気がします。」
レオンはその言葉に、ふと微笑みながらも、どこか照れ隠しをするかのように目を逸らした。
「……そっか。ならば、今日はもっと暖かい服装に変えるよう、家老に伝えておこう。」
その言葉を聞いた瞬間、私の心は温かいもので満たされた。普段は厳格で感情を見せない彼が、まるで本当に私の健康を案じるかのような一言を放つ――。
庭園を散策しながら、私たちはしばらく無言のまま歩いた。しかし、その沈黙の中には、互いに感じ合う温かな想いが確かに流れていた。風に揺れる花びらや、陽光にキラリと光る水面の輝きが、まるで私たちの新たな未来を暗示するかのように見えた。
ふと、レオンが立ち止まり、私の顔をじっと見つめた。
「ミレーヌ、君は……こんなに美しい。今日、君がここにいる姿は、何よりも尊い。」
その言葉は、これまで聞いたことのない温かさと誠意に満ちており、私の心は一瞬にしてときめきを覚えた。
「……レオン様」
口に出す前に、私は自分の感情を整理しようと努めた。政略結婚の形式上、私たちは互いに距離を置くべき存在であるはずだ。しかし、今、この瞬間、彼の言葉は、まるで冷たい壁を打ち破るように私の心に突き刺さった。
「……あなたのその眼差しは、ただの義務感だけではないのだろうな?」
私の問いかけに、レオンはしばらく黙った後、低い声で答えた。
「……お前を守りたいという気持ちは、決して形式的なものではない。君を見ていると、どうしても心が痛むのだ。あの日、君が寂しそうな顔をしていたのを、俺は忘れられない。」
その言葉は、冷徹な印象を与えていた彼の常識を覆すものであり、私の心に熱いものが込み上げた。私は、胸の高鳴りを抑えきれず、思わず涙ぐみそうになるのを感じた。
「レオン様……」
ただ一言、震える声で口にするだけで、これまでの固い壁が崩れ落ちるかのような錯覚に囚われた。
彼はゆっくりと近づき、私の額に優しく手を当てた。その温もりは、昨夜の冷たさとは全く違う、真摯で深い溺愛を感じさせるものだった。
「君がどんなに辛い思いをしてきたか、俺には分からないかもしれない。しかし、これからは俺が全て背負う。君はただ、俺の側で微笑んでいてほしい。」
レオンのその言葉は、あたかも固く閉ざされた扉を開ける鍵のように、私の心の奥底に眠る希望を呼び覚ました。
◇ 祝宴の余波と、陰口の嵐 ◇
庭園でのひとときの静かなやり取りが終わると、再び館内へ戻る時間が迫っていた。外では、まだ祝宴の余韻が微かに残る中、幾人かの貴族たちが廊下を行き交い、今日の結婚式の話題で盛り上がっているのが聞こえてきた。
しかし、その中には、私とレオンの新たな一面に気づき始めた者もいれば、未だに「冷たく突き放された政略結婚」として、陰口をたたく者もいた。とりわけ、元婚約者を自称する侯爵令嬢オフィーリアは、あの不運な事件の余波で、いっそうその口うるささを増しているように思えた。
館内の一角で、何組かの貴族たちがひそひそと話し合っているのを耳にした。
「聞いたかい? あのレオン様が、昨夜になって突然態度を変えたとか……」
「いや、あの冷たい男が、実は溺愛しているなんて、信じられないわね」
「まあ、あのミレーヌ様も、相当可憐な人だからな……」
皮肉と嫉妬、そして好奇心が混じり合ったその噂は、すぐさま社交界の話題となった。しかし、私はそんな噂に心を揺さぶられることはなかった。むしろ、心の中ではレオンの隠された一面に、少しずつ救われ始めている自分がいることに気づいていた。
館内の広間に戻ると、改めてレオンが私の傍に現れ、静かに言った。
「ミレーヌ、今日のところは誰にも邪魔されぬよう、俺たちだけの時間を持とうと思う。」
その提案に、私は驚くと同時に、内心で密かに喜びを感じた。政略結婚である以上、私たちは表向きは距離を保たなければならない。しかし、今この瞬間、レオンが私に見せた優しさと保護欲は、すべてを覆すほどに真実味を帯びていた。
「……分かりました。ぜひ、そうさせてください。」
そう答えると、彼は一瞬だけ柔らかな微笑みを浮かべ、手を差し伸べた。
その手を取ると、私の心は熱く震え、まるで長い冬が終わり、暖かな春が訪れたかのような感覚に包まれた。
◇ 密やかな誓いと、新たな決意 ◇
館内の一室に、誰にも邪魔されぬ隠れ家のような空間へと通されると、レオンは慎重に扉を閉めた。部屋はシンプルながらも落ち着いた装飾が施され、柔らかなランプの明かりが、まるで二人だけの世界を作り出しているかのようだった。
「ここなら、少しだけ心を解放しても良いだろう。」
レオンのその言葉に、私は胸の奥で何かが解き放たれるのを感じた。普段は厳格な彼でさえ、今はまるで守るべき大切な存在としての責任感と、心からの愛情が溢れているかのように見えた。
彼はまず、そっと私の手を取り、ゆっくりと顔を近づけた。
「ミレーヌ……お前を守るために、俺は何でもする。」
その言葉は、これまでの冷徹な印象を一変させ、真摯で深い愛情が込められていることがはっきりと伝わってきた。
私の心は、戸惑いと喜び、そして不安が入り混じり、まるで激しい嵐のようにざわめいた。だが、同時にこの瞬間こそが、今まで隠されていた真実が明かされる時なのだと直感した。
「レオン様……」
私は、震える声で呼びかけた。
彼はゆっくりと頷くと、改めて真剣な眼差しで私を見つめた。
「お前を、俺は一生愛し続ける。たとえ、この政略結婚という形だけの縛りであったとしても、心から君を大切に思っている。お前が悲しむ姿を見るのは、耐えがたいんだ。」
その言葉とともに、レオンは私の頬に優しく触れ、まるでそっと傷ついた心を撫でるかのような温もりを与えてくれた。
しばらくの沈黙の後、私は自らの内にあった疑念と、これからの未来に対する不安を、静かに吐露した。
「私も、これまで自分の運命に抗えず、ただ流されるままに生きてきた。だから、あなたが私を本当に大切に思ってくださっているのなら……どうか、私の心の奥にある不安や悲しみも、受け止めていただけませんか?」
レオンは、深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出すと、確固たる決意を込めた声で答えた。
「お前がどんなに苦しんできたか、俺には計り知れぬ。しかし、これからは俺がその全てを背負う。お前はただ、俺の側にいて、笑顔でいてほしい。お前が笑うたびに、俺の心もまた温かくなるのだから。」
その瞬間、部屋に流れる空気が、一層静謐で、そして神聖なものに変わったように感じられた。私たちは、言葉を超えた互いの気持ちを確かめ合うように、ただしばらくの間、寄り添いながら時を過ごした。
――そして、ふたりの心の中には、新たな誓いが芽生え始めた。たとえ政略結婚という枠組みの中に閉じ込められていようとも、互いに真実の愛を見出し、未来へと歩む決意を固める。それは、誰にも奪われることのない、二人だけの秘密の誓いであった。
◇ 新たな光を求めて ~帰路に立つふたり~ ◇
しばらくして、レオンはそっと立ち上がり、私の手を取って部屋を後にする。館内を抜け、再び広がる廊下の先に、朝の光が差し込む窓が見えてくる。外の世界は、昨夜の重苦しい空気とは打って変わり、どこか希望に満ちた輝きを放っている。
「今日から、俺たちは新たな一歩を踏み出す。これまでの噂や陰口に左右されることなく、ただお前と共に歩む未来を、俺は守り抜く。」
レオンのその宣言は、私の心に静かなる確信をもたらし、これからの厳しい日々も、互いの愛で乗り越えられるのだと信じさせた。
館の外に出ると、広々とした庭園と澄み渡る青空が迎えてくれる。風は柔らかく、花々は生き生きと咲き誇り、まるで新たな始まりを祝福しているかのようだ。私たちは、手を取り合いながらゆっくりと歩き出す。
歩みながら、私はふと、今までの自分の生き方を振り返る。
「私は、ただ運命に流されるままに生きてきた。でも、これからは違う。自分自身の意志で、未来を切り拓いていくのだ。」
その心の中の決意は、レオンの温かい手の中で、確かに力強くなっていくのを感じた。
そして、庭園の一角にある小さな噴水の前で、レオンはふと足を止め、真剣な眼差しで私を見つめた。
「ミレーヌ、今日という日が、俺たちの新たな物語の始まりだとしたら、これから何があっても、俺はお前を決して見捨てはしない。」
その言葉に、私は涙がこぼれ落ちるのを感じた。悲しみや不安、そしてこれまでの孤独が、一瞬にして洗い流されるかのような、温かい安心感が全身を包んだ。
「レオン様……」
私は、小さく呟くように答えた。
その瞬間、周囲の自然が一層輝きを増し、未来へ向かうふたりの影が、長く伸びる朝陽の中に重なって見えた。
――そして、今日この日から、私たちの運命は新たな方向へと動き出す。たとえ政略結婚という枠に縛られていたとしても、心の中で燃え上がる真実の愛は、決して消え去ることはないのだと、確信せずにはいられなかった。
帰路につく中で、私はふと立ち止まり、振り返るように館の方を見た。あの荘厳な大聖堂、そして昨日の祝宴の喧騒は、もう過ぎ去った儚い影のように感じられる。しかし、その一方で、私の心には新たな光が確かに宿り始めていた。
レオンと並んで歩むその道は、決して平坦ではないに違いない。社交界の陰口や、過去の傷跡、そして政略結婚という重い運命が、ふたりの間に立ちはだかるだろう。しかし、今の私には、どんな困難も乗り越えられるという、強い確信があった。
「これから先、どんな嵐が襲ってきても、俺はお前の傍にいる。」
レオンの低い声が、私の耳元で静かに響く。
私は、彼のその言葉に全身で応え、しっかりと手を握り返した。
――これが、私たちの新たな誓いであり、冷たく見えた仮面の向こう側に隠されていた、真実の愛の始まりであった。
遠くで、朝靄が晴れていく中、ふたりの姿はゆっくりと小さくなるが、その影は確かに未来へと続く道を示しているように思えた。今日という日が、たとえ誰かの噂の的になろうとも、私たちの心の中で誓った愛の灯火は、これからも決して消えることはない。
――こうして、政略結婚という宿命の下に始まった私たちの物語は、まだ始まったばかりである。
この朝、レオンと交わした静かな誓いと、ふたりの心に芽生えた新たな希望。それは、これから待ち受ける数々の試練や、社交界での厳しい現実、そして何よりも互いの内面に潜む深い闇を照らす、消えることのない輝きとなるに違いない。
私、ミレーヌ・アルヴァンドは、今日ここに、新たな未来への一歩を踏み出す。
たとえこの政略結婚という形式の中であっても、私の心は、レオンという男の真摯な愛情によって、確実に温められている。
そして、胸に秘めた小さな炎は、これからの日々の中で次第に大きく燃え上がり、やがては誰にも消すことのできない、輝かしい光となって、私たちの未来を照らすだろう。
――この先、どんな困難があろうとも、互いの愛と信頼は決して揺らぐことはない。今日の朝の静かな誓いは、永遠に私たちの心に刻まれ、未来への希望と勇気となるに違いない。
こうして、今日という日が幕を閉じる頃、館の外では澄み渡る青空の下、ふたりの歩む未来へと続く道が、確かな一歩一歩として刻まれていくのを、私は心の中で深く感じながら、静かにその光景を見送った。
――これが、私たちの新たな始まり。たとえ政略結婚という運命に縛られていようとも、互いの真実の愛がある限り、未来は必ず輝くと、今、私は信じて疑わない。