——ガライエ砦前。
私のような存在は世界に七体解き放たれているのだと銀髪の魔女から聞いたことがあるわ。そのうち五体は彼女が名付け親。
私はその一人、アレクシス・フォンテーン。
どうやら私は快楽を貪ることを生業にしているそうね。実感はないけれども確かに生娘の首筋に牙を立てる時のあの感じを常に求めている。それを彼女は<色欲>だと云っていたけれども、そういうことなのかしら。
あと四体。
もう一体は、高慢ちきで鼻持ちならない魔導師のアイザック・バーグ。
あの男は何を考えているのか知らないけれど、すぐに人間にちょっかいを出して屍喰らいをこしらえては捨てるを繰り返している。薄気味悪い男。
リーン・ストラウスは臆病者の引きこもり女。
始祖の役割を放棄してどこぞの街で人間として暮らしているそう。この娘も何を考えているのか分からない。でも、私の次の次くらいには綺麗な娘ね。
そして、醜い女と言えばクルシャ・ブラッドムーン。
手当たり次第に男を貪って——性的な話ではなくて本当に男の肉が好きなのだそうだから気色が悪いわ。少し前に狩人から酷い目に合わされて、どこかの国の半分を塩に変えていたわ。ちょっとイカれた女よ。
最後がミネルバ・ファイアスターター。
アイザックがもし女だったらきっと、こんな感じよ。何でもかんでも欲しがって手に入らないのならば壊してしまえと平気で思っている狐のお姫様。聞くところによると、町外れの城館に男を侍らせているらしいけれども、そんなちっぽけな城館におさまっているくらいなのだから、私の方がよっぽどお姫様らしいわね。でも、あんな小娘と一緒にされても困るから私は女王様ということにしておくわ。
これで五体。
残るの二体のことはよく分からないけれども、あの魔術師——確か、シャルドラと云ったかしら、あれが云うにはネリウス将軍というのがきっとその一人ね。
なんとなく私達は何か根っこのようなもので繋がっているから、その存在の有無も誰かが感じた何かを知ることができる。だからきっとそのネリウスという男が感じた怒りを感じているのね。
アレクシスは足元でうつ伏せになった黒い塊を見下ろしながら、そんなことを考えていた。まるで糸が切れた操り人形のように突っ伏してしまったアッシュはまだ動き出す気配がない。
先ほどまで感じていた高揚感がアレクシスの身体を火照らせるものだから「ねえ、これでおしまいなの? 起きなさいアッシュ・グラント」と、<宵闇>の身体を足で揺さぶり彼女はどうにかアッシュを起こそうとした。甲斐甲斐しく抱き起こして優しく介抱するという選択肢は彼女にはない。
それにしても、さっきの光。
どうも始祖の誰かが名を与えられたようね。
繋がりが一つ増えたようだ。
だとしたら、与えたのは銀髪の娘なのかしら? いいえ、そんな筈はないわね。そうなのだとしたら私にも彼女がやって来たことを分かる筈だものね。じゃあ、一体誰が? 銀髪の娘もあの忌々しい狩人の一人だといっていたけれども、そんなことができるのはやっぱり同じ狩人ということかしら。
でも——何かがおかしい。
繋がりは感じるのだけれど、ちょっとした違和感があるわ。なんというか優等生が落ちこぼれの巣窟に土足で踏み込んできたような。何かそういった違和感ね。
いずれにしても——アレクシスは燃えるような赤髪を掻き上げて云った。
「あの娘の最後の願いはこれで叶えられそう」
アッシュはやはり突っ伏したまま、ピクリとも動かなかった。
※
我ながら間抜けな失態だ。
五体の存在は確認できていたし、残りの二体のうちの一体は大体察しがついていた。それでもだ、行方も正体すら不明な一体の存在がこうも早く明るみに出るとは思いも寄らなかった。
これでアレクシスに持っていかれたら俺はどうなってしまうのだろうか?
あいつらの特性は俺たち<外環の狩人>とほぼ一緒だ。メリッサに書き加えられた捕食衝動が奴等を吸血鬼の始祖としている。それが厄介というのか予測不可能というのか。あの娘の考えていることが全く分からない。ただ吸われておしまいなのであれば、それで良いが確証がない。それであれば、このままアレクシスに捕食されるわけにはいかないと云うことだ。
頭のてっぺんからつま先、四肢に至るまで全く力が伝わらない<宵闇>は、おもちゃを足蹴にするよう身体を揺さぶられるなか、想いを巡らせ状況の打開策を考えた。しかし幻肢のような手足は全く動かなかったし、万が一打開策があったのだとしても、それを実行できない。
つまり、打つ手がない。
手詰まり、チェックメイトを宣言される直前だ。
※
——ガライエ砦に続く坂道。
いつかまた会える日——なんてそんな都合の良いことがあるのかな。
後ろを振り返ることもなくエステルは赤髪を振り乱し坂道を走り抜けた。
足元に見える草や小石に何体もの骸がぐんぐんと自分の背後に流れてゆく。何度か路傍の石に躓き坂を転げそうになったが、それでも脚を止めることはなかった。風の中に漂う生臭い血の臭いに吐き気をもよおし嘔吐する。が、それでも引き付けを起こし締め上がる胃の痛みを堪え尚も脚は止めない。
生きるのだと決めたのだから、死ぬ気で生き延びるのだ。
エステルは自分の惨めなその様相に挫けそうであったが、そう鼓舞しながら坂道を転げるように駆けた。そして、どれくらい駆けたのだろうか、それすらも定かでなくなったその時、背後の空が突然に白く明るくなると、足元の影がグンと前に伸びたのだ。
その影は錯覚を引き起こし、エステルを呑み込む奈落の裂け目のように眼前に伸びた。そして、とうとう魔導師の脚を絡め取ったのだ。
突然視界に飛び込んだ白く明るんだ夜空が今度は目の前で血に塗れた草や泥に石、折れた剣、思いつく限りの打ち捨てられた何かがぐるぐるんと視界の中で歪な万華鏡のような光景を見せた。耳をつんざく不快な高音がそれに追い討ちをかけると、エステルは両手で耳を塞ぎ、身体を丸めそのまま坂を転げ落ちて行った。
しばらくすると不快な臭いが鼻の奥を突いた。
血生臭い。それに混じった
臭いの正体はこのかぶりからだった。
口角から醜い牙を突き出した女のかぶりは、口を魚のようにぱくぱくと動かしエステルになんとか喰らいつこうとする。魔導師は思わず、小さく「ひっ!」と声を上げると、両手で口を押さえた。それ以上悲鳴を上げることはなかったが——その女の形相に当てられると身体を震わせ「なんなの、なんなの、なんなの」手の中で静かに連呼した。
もう岩のように重くなった両脚をジタバタとさせ出来るだけその場から離れようとするのだが、なかなか上手く地面を捉えられずに虚しく両脚が空を切ってしまう。その間、吸血鬼のかぶりは、顔をもぞもぞとさせ長い舌をだすと、まるで蛸がその足で身体を這わせるようにエステルに向かおうとするのだ。
「来ないで、来ないで、来ないで!」
エステルは、できる限りの沈黙を保とうとしたが、あまりの陰惨なその光景に我を忘れ叫ぶと手近で掴めた石を力の限り吸血鬼の顔に投げつけた。それでも吸血鬼は自身の再生を求め、命の篝火となる魔導師に向かい、投げつけられた石が何度強打しようともそれを止めようとはしなかった。
何度も。何度も。石を投げつけ、なんとか離れようとするなかエステルは、吸血鬼の生きることへの執念なのか、それとも衝動なのかそんなものに心を折られそうになる。
生臭坊主に身体を求められ、それを拒否すると、謂れのない嫌疑をかけられ逃げ出した自分。自暴自棄となり、もういっそのこと死んでしまおうとも思ったが、そんな気概も起きず打ち捨てられた砦で、世捨て人のようになった自分。無闇に自身を卑下する必要はないが、目の前の吸血鬼のその執念、そんなものをもし自分が持っていたのならば、もしかしたら何か変わっていたのだろうか?
魔導師となったのも、結局は境遇から逃げ出しただけだったのだ。
華やかな生活のなか、突然に言い渡された政略結婚。それが嫌で家を出奔し、元々興味に能力もあった魔導の道へ逃げ込んだのだ。そこで、そういった執念や自分を突き動かすような衝動に駆られたのであれば変わったのだろうか? いや——きっとそんなこと、まず起きない。
もう拾える石すらも無くなり、草をむしり取りそれを投げつける。
それすらもう、むしり取れる草はすぐになくなるだろう。
そうだ——そうやって周りにあるものへ理由を求めてそれを使い捨てるように生きてきた結果がこれなのだ。自分で何かを造ろうとも、築こうともしなかったのだ。自分の居場所は自分で造らなければいけなかったのだ。今だってそうだ、<宵闇の鴉>に拾われた命ですら、さもすれば助けを求めれば颯爽と自分を助けてくれるのでは無いかと心のどこかで思っている。自分でどうにかしようと思える、何かが無い。それが何かは分からないけれどもだ。
(俺は大丈夫だ、いけ)
あの人は縁も、ゆかりもない私にそう云ってくれた。
——吸血鬼の舌がもう魔導師の鼻先まで届こうとしている。
あの人は私が動けないことを知っていた。
だから少しでも回復する時間を稼いでくれたのだ。
——あの鼻をつく臭いが届き、ぬらりとした感触がエステルを襲った。
両手で遠ざけようとするが、吸血鬼はそれに喰らい付こうと顎を大きく動かし、なかなか上手く行かない。
そうか、やっとわかった。
あの時感じた後ろめたさはこれだ。いつか会える日なんて来ることもないその日を理由に、その日がくれば恩に報いようなんてもっともらしい誓いを立てたのだ。それはもう、報いようなどと思っていないのと一緒だ。このまま逃げられたとしても、きっと私はこの気持ちを抱えたままだ。そうなのだとしたら、そうだ、私は逃げ出すのでなく立ち向かわなければならない。理由なんて、それだけで良いのではないか。
「来ないでって云ってるのよ!」
エステルは槌で腹を打たれたかのように両脚を天高く振り上げると、悲鳴をあげる節々に顔を歪めた。それでも渾身の力で両脚を振り下ろし、その勢いで身体を立て直した。上等だったはずの絹のローブはズタズタに破れ胸元が露となり、黒の外套は返り血の色なのか土の色なのかそれとも反吐の色なのか、もう何がへばり付いているのかを想像するのも嫌になりそうな、見窄らしい有り様だ。
それでもだ、エステルはどこか吹っ切れたような気分だった。
生きると決めたのだ。借りを返すと決めたのだ。まずはそこからだと意を決したのだ。立ち上がったエステルは一歩後ろに飛び退くと、胸にかけられたアウルクスの銀細工を引きちぎり口早に何かを呟いた。
<宵闇>は吸血鬼の源は負の魔力であると云った。
だから正の魔力を当てれば動きが緩慢になると。それであれば当てる魔力を最大限に込めた何かを直接埋め込めば消滅はしないものの、動きを止めることはできる筈だ。そうして、エステルは右手で緑色に輝き始めた銀細工を軽く弾いて、しっかりと握りしめた。
「あなたも生きたい——いえ、死んでいるのでしょうけれども、消えたくないのでしょ? それは私だって同じなの。私は生きなければいけない理由ができたの」
答えを返すことはない吸血鬼のかぶりは呻き声をあげながら、尚もエステルの足元に這い寄ろうとする。エステルは更に一歩下がり、今度は右手を振りかぶり再び口早に<言の音>を紡いだ。
「だから自分の手でこれだけはやっておきたいの。悪く思わないでね」
そしてエステルはアウルクスの銀細工を力の限り、吸血鬼の顔面に投げつけた。
それは見事に右眼孔に突き刺さると輝きを増し光の渦を創った。
※
リードランの大地は戦乱の歴史そのものでもある。掘り起こし、新たな生命を芽吹かせようと開墾すれば、あちこちから亡骸や遺骨が姿をあらわすことがよくある。
そんな場合は大概が幽霊騒ぎに亡霊騒動、酷い場合は負の魔力にあてられ躯が屍喰らいと成り果てる事案へ発展をする。最悪なのは、何かしらの理由で大地に埋もれてしまった塚を掘り起こしてしまった場合だ。
生前の地位が高ければ高いほど埋葬された遺体は塚人なる可能性が高い。
この場合はアウルクス神派を挙げての討伐隊が結成され、法外な金銭が地主に請求されてしまう。金銭の話はさておき、そう言った理由から多くの地主は田畑を貸し出す際、または新たに開墾する場合は地元の教会へ赴き土地の浄化を依頼する。
アウルクスは婚姻と出産、医療を司るが、その開祖は大飢饉に襲われたリードランの地を癒して廻った大魔導師である。故にアウルクス神派の魔導師はみな、大地で淀む負の魔力を浄化する呪法を会得しているのだ。
銀細工に宿された力もそれだ。
通常であれば呪符に宿し大地へ埋め浄化と共に紙(神)は大地に還るわけだがエステルはそういった呪具を仕舞い込んだ皮鞄をどこかでなくしてしまっていた。だから信仰の証しである銀細工を使ったのだった。それはきっと教会への決別、これまでの自分への決別だった。
※
輝きをました緑の渦は急速に広がると、光の触手とも根っことも思える繊条を生やし吸血鬼の顔の穴という穴にスルスルと入り込んだ。そして妖しく蠢き眼孔から目玉を押し出し、鼻の穴、口、耳の穴からその先端をワラワラと覗かせ遂には、かぶりを大地から持ち上げた。
その様子はまるで大地の中を這い回るミミズが土を喰らい毒素もろとも浄化するような光景を彷彿とさせた。
グルグルとワラワラと蠢く繊条はその速度を次第にましていくと、とうとうヒュン! という高い音と共に一点に集約され空中で消え去ったのだった。そして、軽い金属音と共にアウルクスの銀細工がエステルの足元に落ちた。
「こう云うのも何か変だけれども」エステルはそう云うと赤黒く汚れた顔を腕で乱暴に擦って続けた「これでやっと世の中ってやつに向き合えそう。ありがとうね」
吹き荒ぶ北風が赤毛の魔導師の肌を乱暴になぶっていった。
エステルは身体を大きく震わせた。
芯から凍えるような寒さに気がつき、改めて自身を見返すと革のブーツや手袋もどこかで失くしてしまい素手素足の酷い有り様だったのだ。これは悪寒に襲われても仕方がない。辺りを見回し同じような背格好の骸をいくつか見繕い、丁度良いブーツに丁度良い手袋を拝借した。そして無残に破けた絹のローブは脱ぎ捨て、厚手の皮と裏地に起毛の布を合わせた分厚いローブを剥ぎ取りそれに着替えた。
「ごめんなさいね」
エステルは遺体に声をかけ、そうやって身支度をすませた。
——さて、急がなくちゃ。
エステルは自分に言い聞かせるように小声で云った。
一時、空を覆った暗雲はすっかり消え去り、月明かりが足元を照らしてくれていたから随分と軽快に進めることだろう。もっともあちこちに寝転がる解放戦線の遺体も露わになる。できるだけ、それは目にしないとエステルは心に決めた。
——しかし、あれだけいた吸血鬼に屍喰らいはどこに行ったのかしら……。
エステルは坂道のずっと先に見え隠れするダフロイト城壁へ目をやり、静かに歩き始めた。魔導師が立ち去った後には、アウルクスの銀細工が月光を受け、白く輝き転がっていた。