かつての<アスタロトの足跡通り>は焦土と化した。
あちこちから漏れ聞こえる呻き声に鳴き声。瓦礫が崩れ落ちる音と炎が爆ぜる音。それは全て造られた花道を飾る歓声となった。そしてそこを練り歩くのは漆黒に塗られた軍隊だ。
騎乗する戦士達は皆うなだれ、魔術師達は外套のフードを目深に被り、皆一様に右、左と振る腕と脚を合わ一糸乱れぬ行軍を見せた。優秀な軍隊であっても、ここまで揃えること難しいだろう。
故にそれは不気味な破滅の軍隊に映った。
通りの端でガタガタと、逃げ遅れた猫が鳴き声を挙げ暗がりへ飛び込もうとした。すると隊列の戦士は目にも留まらぬ速さで抜刀し、猫を真っ二つにする。
その少し先では、跪きうなだれ命乞いをする老夫婦が「助けてください」と口にするが魔術師は魔法の矢で夫の額を撃ち抜き、戦士が妻の首を刎ねた。
「いくらなんでも酷いですねあれは——」
アドルフは両手に構えた野伏の短剣を器用に回し向かい来る軍隊を眺めた。
隣に佇むアオイドスは、それに「そうね」と気の抜けた返事をすると惨状を見回して溜息をつく。
「ダフロイトが攻められるだなんて——本当だったら異例中の異例。あの軍隊はさらにその中の異例中の異例ってことね」
「異例もそこまで重なれば、異例じゃなくなりますね。それだけ状況が変わったってことですか?」
「そういう事になるわね」
「あれはネイティブじゃないんですか?」
「あれはネイティブよ。きっとね。私が居た頃とは随分と様変わりしているけれど——ネイティブ自体の在り方が変わったのかも知れない。だってさっきのあのアイネって子も随分と違うもの」
「そうなんですね——今のリードランしか知らない僕じゃ、てんでピンと来ないです。っと、先生」
「ええ」
破滅の軍隊は視線上に新たな獲物——吟遊詩人と野伏だ——を捕らえた。
漆黒の騎兵達は一斉に駆け出すと、立ち昇る煤けた煙の中へ赤黒い眼光の帯を幾つも描いた。迫り来る赤黒の光の帯は上下左右に小さく弧を描き、ぬらりと迫り来る。抜き放たれた剣は血で曇り、鈍くあちこちで燃え盛る炎の紅を拾った。
しかし——鬨の声は一切耳に届かない。
無言の突撃は、それだけで忌むべきものに思えた。
「アドルフ君」
「なんですか先生?」
「訂正するわ」
「え?」
「あれはネイティブもどきね」
「もどき、なんて居るんですね?」
「そうね、あれは獣の一部よ、きっと——行くわよ」
ハイ! アドルフは吟遊詩人の号令に合わせ、短剣を逆手に持つと驚くべき瞬発力でその場から駆け出した。野伏は一投足で地を這うように跳び、次の脚で身体を捻るとそのまま半回転する。そして、瞬く間に軍馬の脚を斬り飛ばした。
堪らず転げ落ちる戦士は、そのすがら無闇矢鱈に剣を振り回すが、崩れ落ちる軍馬に阻まれアドルフへ、その切っ先が届くことはなかった。
一騎、二騎と立て続けに軍馬もろとも戦士を沈めた野伏は背後にビリビリする感覚を覚えた。ひらりと横に身体を翻すと蒼白い光がアドルフの残像を貫き飛んでゆく。すると崩れ落ちてゆく戦士の裏に潜んだ魔術師を撃ち抜いたのだ。
アドルフとアオイドス、二人の息はピッタリだ。
だからなのか、この二人もまた無言で破滅の尖兵を真正面から斬り伏せる。しかし、そうやって先頭集団を削り落とした二人だったが奥深くには潜らず、ただただひたすらに迎え撃っていた。一向に前進の様子を見せないアオイドスをアドルフが一瞥すると、アオイドスは野伏の視線を捉え、そして顎でクイっと前を見ろと指した。
アドルフは敵戦士の首を切り落とし、吟遊詩人に迫りつつあった別の戦士を蹴りで突き倒した。二本の切っ先を敵戦士の胸へ突き立てアオイドスの真意を確認する。
「あまり前に出ると、これに呑み込まれるから気をつけて」
「呑み込まれるって何かの比喩ですか!?」
「そうね、でもコイツら自体が獣の一部で、そしてね、ほら」
そう云った吟遊詩人は、節くれた杖を軽く前に振って「ね」とアドルフをまじまじと見つめた。
「ね。って——なるほど、そういうことですか」
アドルフが目にしたのは、先ほど沈めた死屍累々の戦士達が、斬り落とされた首や手脚を繋ぎ合わせ立ち上がる姿であった。軍馬も然り。主を待つようにその場で軽く足踏みをしたのだ。「これは——」オェッと大袈裟にしてみせたアドルフは両肩を竦ませる。
「あいつの身体の一部で、あいつが死ななければ、コイツらも消滅しないって寸法よ」
アオイドスは更に奥を杖で指した。
杖の先にあるのは、横に広がりつつある軍列の最後部でチラチラと姿を見せる大柄の戦士だった。それは——歩く破滅、いや、憤怒とでもいうのだろうか。何かそんな得体の知れない存在だ。
遠くからでもハッキリとわかる鮮やかな赤い短髪。騎乗した戦士よりも大柄な体躯は筋骨隆々とした四肢を晒し、そして、乱暴に削り出された鋼の大剣を担いだ。赤く灯された眼光は常に左右前後に獲物を求め向けられていた。
そして——幾百もの戦士、魔術師の影の中に浮かんだ一本の隙間の先でアドルフと大男の視線が交じり合う。
赤い短髪の戦士は野伏の視線を絡めとると、不敵に笑みを浮かべた。
(そこにいたか)
アドルフは戦士の口がそう動いたように見えた。
「先生、あれは——」
「気づかれたわね。あれと戦っては駄目よ。でも、もう少し、もう少し時間を稼がないといけない!」
「難しいこと云いますね!」
緩慢とした動きであった戦士達の動きが突如として機敏になる。
この一団があの赤短髪の戦士の一部だという意味はこれでわかった。理屈ではない。この一連の出来事がそれを物語っていた。アドルフは、それに戦慄を感じると気合いの声を挙げ「秘薬を使います」と告げ口の中へ黒い丸薬を放り込んだ。
それを奥歯で砕くと広がる苦く酸味のある味。ルトの実特有のあの嫌な味が口一杯に広がると、野伏の頭の中で何かが弾けた。
迫り来る戦士達の動きが、立ち所に緩慢となる。
赤黒い眼光が野伏の前に何本もの光の帯を作り出すと、それを引き回し始めた。
戦士達が緩慢となったのではなくアドルフの知覚が変化したのだ。
野伏の秘薬。その効果だった。
アドルフは非常に緩慢となった戦士達の合間を縫い合わせるように軽やかに走り、戦士達の首を斬り落とした。それは気休めにしかならないとわかってはいたが、師匠は時間を稼げと云った。であれば、これでも十分だ。
「アドルフ君だめよ!」
師匠の間延びした声が聞こえた。
時間を稼げと云うのならば、どうせ復活をすると云うのならば、大将の首を。赤短髪の戦士の目前までやってきたアドルフは、それを見上げ「大丈夫ですよ」と一言零した。
師匠というからには、やはり自分よりも秀でたものがあるわけなのだ。それを人生の師と仰ぐのであれば尚更だ。素直に忠告へ耳を貸しておけば良いのだ。そうやって弟子は経験の中から学び、いつかその忠告を耳にすることがなくなれば晴れて免許皆伝ということになる。そうやって師弟関係は築かれ、最後には巣立ってゆく。
——まだまだ忠告は聞かなければいけないか。
アドルフはいつの間にか宙を舞って、次の瞬間には背中に土をつけた。未熟な弟子は師匠の指導に耳を貸さなかったことに後悔をした。
赤短髪の戦士は、悠々とやってきた野伏を、ギロリと睨むと口角に不敵な笑みなのか怒りを浮かべ、そして巨木のような脚で蹴り上げたのだ。ボロきれのように宙を舞ったアドルフは、不意を突かれ受け身を取ることもできず強く地面に打ち付けられたのだった。
「アドルフ君!」
アオイドスは叫ぶと、杖で地面をひと突きし術式を呼び出した。するとどうだろう、地面に青く輝く円環から幾つもの円環が呼び出され、戦士達の足元へ音もなく移動をした。そして、もうひと突き。アオイドスを中心に戦士達は外側に弾き飛ばされたのだった。それは赤短髪の戦士も例外ではなかった。
「大丈夫? だから云ったでしょ」
「すみません、油断をしました」
アオイドスは素早く野伏へ駆け寄り手を引いた。
口に溜まった血を吐き出しアドルフは地面に転げた短剣を呼び戻し両手に納めた。
それを横目にアオイドスは周囲に寝転んだ戦士達を見回して、小さく呟いた。
「さて、ちょっと近寄りすぎたけれども。そろそろ頃合いかしら」
※
「アッシュ! あれ!」
「ああ、ネリウスだ。随分と図体が大きくなっているけれどもな」
アッシュの機転で魔力の奔流の直撃を逃れた二人は北の大門へ急いでいた。
エステルが指差した先にあった黒の軍隊は何かを取り囲むように、わさわさと蠢いていた。その中心にいたのは一際大きな赤髪の戦士だ。そしてその周囲を、青緑に輝く何かが縫うように動き回り、ばったばたと取り巻きの戦士達を薙ぎ倒して行くのがわかった。
「なんだ、誰か戦っているな」
「あの光はそうなのです?」
「ああ。ところで——」
追走する白馬のエステルは前を駆ける<宵闇>が肩越しに顔を覗かせたのを見ると「はい」と手短に答え、少々怪訝な表情を浮かべた。ぐんぐんと黒い軍団に近づきはするが、まだ少し時間はかかる。きっとまた同じことを訊かれると思ったのだ。
「本当について来るのか? お前に何も得はないだろ」
※
(黙っていろ!)
あの時、その後に続いた言葉はよく聞き取れなかった。
家屋を薙ぎ払う轟音と、隙間から聞こえてくる断末魔の声。そういったものに掻き消されたから。私はアッシュが張った魔力障壁のお陰で吹き飛ばされることはなかった。気がつけば私はアッシュの胸の中で目をキツくつむり、まるで嵐が過ぎ去るのをまつ子供のようだった。
この人は不遜だったり憮然だったりとおよそ良い印象にはとられない態度で何にでも突っ掛かるようだった。けれども結局はあの砦の時もそう、人のために自分の命を投げ打つことをする人なのだ。でも、子供のように小さく蹲った私をさっきは置いて行こうとしたり、着いてくと云えば、なんの得があるのだと云ってそれを拒否をする。
こういうのを不器用な人というのかしら?
こんな想いを抱くのは初めてだから、あの人が何を考えているのかが全然わからない。今だって、さっきと同じことを云っている。
でも、それでも私は——。
※
「私に益があるとかそういうのは自分で決めます」
「そうか」
「ええ、そうです」
「だったら——」
「まだ何か?」
「だったら、その、ですますを、まずやめてくれ。居心地が悪いんだ」
「そんなこと?」
「ああ、そんなことだ」
<宵闇>はそう云うと前を向いて続けた——「嫌なんだよ。別に俺は俺の好きでこうしている。だからそんな恩を感じているテイで来られても困ってしまう。居るなら普通にしていてくれ」
「テイ?」
「ああ、そうか——恩を感じる必要はないってことだ」
「じゃあ」
「ああ、勝手にしろ」
「はい!」
アッシュはエステルの弾けた返事に、目を細め「まあいいさ」と呟くと、「雲行きが怪しいな、急ぐぞ」と付け加えた。
前を見れば、軍団の合間を縫った輝きは消え、人がボロ雑巾のように舞うのが見えた。それに「あ!」とエステルは思わず声をあげると、今度は黒の軍団が外に弾け飛んだ。その中心には、純白の外套にすっぽりと身を包んだ女性と唐草色の軽装備とマントを羽織った男性が立って居るのがわかった。
※
「そろそろ頃合いかしら」
そう云ったアオイドスは、腹をさするアドルフと自分にルトの液で紋を描くと口早に<言の音>を呟いた。そして前に寝転がる赤短髪の戦士を警戒しながらジリジリと後退する。
それに気が付いたのか大男が脚を振り上げ器用に跳ねっ返りながら身体を起こしたのだ。ズドンと大きな音を轟かせ大地を踏み締めた大男は、大剣を拾うと「ふむ」と小さく漏らした。
次に首の調子を確かめるよう、かぶりを左右に倒した大男は大剣を前に突き出し「汝らに問おう」とくぐもった声で二人に訊ねた。
アオイドスが詠唱を完成させるまで、もう少しの時間が必要だ。
「お前らは人の子か? それとも神ならざる人の神か? どちらだ」
「将軍、それはどういう意味ですか?」
「ふむ。質問を替えよう。お前らは外環の子か?」
「なるほど、そういう意味ですか。でしたら答えは『はい』です」
「そうか! ならば良し! さあ、刻はきた。思う存分に死合おうぞ!」
アドルフの答えが満足だったのか大男は声を高らかと豪快に笑い、大剣を地面に何度も打ち付けた。ひとしきり吠えた大男は大剣を改めて構えなおすと上腕筋をボコボコと隆起した。浅黒かった皮膚が僅かに赤みを帯びたようで、その様はまるで軍神さながらに畏怖を撒き散らす。
少しづつだが後退をする二人は、それに目を見張り固唾を飲んだ。
「ふむ。儂を
そう云うと、大男は脚を大きく踏み鳴らした。
大地が揺れ、すると、それを合図にしたのか一斉と周囲の戦士達が破裂し赤黒い鮮血を吹き上げたのだ。ぶち撒けられた鮮血はまるで生き物のように蠢き何本もの筋を造る。すると大男の口角目掛けて流れ始めたのだ。それは蛇のようにスルスルと口の中へ一滴残らず流れ込んでいった。
「うへ、なんですかアレ」
アドルフはその光景に目を細めた。
そして丁度、背中をポンと叩かれた。
アオイドスの詠唱が終わり、術が身体に纏わり付くのがわかった。
「あれが、七つの獣、吸血鬼の始祖の一人」
「メリッサって娘、相当趣味悪いですね。十代の娘ってこんなものを想像するもんですか?」
「さあ? きっとあれね。世間知らずってやつよ」
「そういうことです?」
「さあ無駄口は終わり。来るわよ」
「はい!」
「外環の子よ、言葉は無粋。さあ死合おうぞ!」
大男が大剣を振りかざした。
そして撃ち降ろしたのをアドルフはひらりと避けるとそのまま二歩ほど後ろに飛び退いた。アオイドスもそれに合わせ歩幅を合わせる。アオイドスの術のおかげで随分と身体が軽い。アドルフは先ほど使った霊薬の後遺症か、先程まで内臓を痛め随分と身体が重たかった。しかし今は自由だ。寧ろいつもより動けそうな気がする。
大男はそれを見るや否や「逃げるか外環の子!」と顔を真っ赤にすると大股に脚を踏ん張り勢いよく大地を蹴った。すると稲妻の早さで前に詰め寄った。それこそ瞬きをする間に、アドルフの前に姿を現し、そして大きく大剣を一文字に薙ぎ払おうとした。
アオイドスが<ミンストレル>として世界を遍歴するのには幾つか理由があった。
一つは、とある少女を然るべき刻に迎え安全な所で匿うこと。
一つは、その少女が父と呼ぶ男を探し出し導くこと。
他にも幾つかあるが、当面はこの二つを成し遂げなければ先に進むことができない。
そして——吟遊詩人と野伏の前に黒い影が飛び込む。
瓦礫から昇る炎で赤く焼けた夜空のもと鋼と鋼が激突した。鈍く重く乱暴な金属音が鳴り響いた。パッと火花を散らせ鍔迫り合いを避けた黒い影と大男は互いに刀身を押し合う力を跳ねる力に変え、横に飛び退いた。
「すまないが、こいつは俺の獲物だ。譲ってもらうぞ」
二人の前に立ったのは<宵闇の鴉>アッシュ・グラントだった。
アオイドスは「アッシュ——」と云いかけた言葉を飲み込んだ。アッシュの傍へやってきた魔導師に気が付いたからだ。アークレイリの赤髪とそばかす顔。<宵闇の鴉>へ向けられた赤瞳。それにアオイドスは、どこか辛そうにそっと目を伏せた。
「先生——」
「ええ、あれがアッシュ・グラント」