「返しなさい、この化け物! この!」
その手から奪われた<宵闇>の頭部を必死に取り返そうとするエステル。どれだけ冷静なのか、どれだけの狂気に囚われたのかは皆目見当がつかない。しかし、それさえ取り返せれば、胸に抱けば何かが良くなる。エステルはそう考えていた。
赤髪を振り乱し、泣き叫び、大男の巨木のような脚を木材で力の限り打ち付けるが、燃えて朽ちてしまいそうなそれは二度か三度の打撃で脆く崩れていってしまう。
大男は大きく口を開き——それは、人がそうするそれとは随分と異なる——顎はすでに形状もおかしくまるで鰐のように上下に開き、それこそ人の頭ならば丸呑みにできるほどであった。その奇妙な口の口角のあらゆるところから、ねばねばとしたものが垂れ流れ、獅子奮迅するエステルの赤髪までも濡らしていた。
「この! この! この! 返しなさいと云っているのよ! この化け物!」
エステルは両手の中で朽ち果てた角材を投げ捨てると、長靴の裏で剥き出しになった大男の太腿を力の限りに蹴り飛ばす。それはまるで穀物の詰まった頭陀袋を蹴るようなそんな徒労感だけがエステルの中へ残される。それでも止めることはしない。そうすることでしか、この危機感を拭いさることができない、それしか見当がつかないのだ。
しかし次第に「この!」と腹の底からの声も小さくなり、とうとう<宵闇>のかぶりが丸呑みされる頃には、消え入るような声で「返しなさいよ——」と嘆き、膝を折ってしまう。そう——アッシュの頭部は大男の歪な口の中に消えていったのだ。頭蓋を噛み砕く音は朧げな雷撃のそれのようで、エステルは堪らず両耳を塞ぎ言葉にならない言葉を張り上げた。
腰が抜け、エステルは己が全てを虚無に覆い尽くされたように感じ、何かを視界に入れてしまえば発狂してしまいそうだった。だから、ただただ大地に向かって大声を張り上げこれが悪夢であることを願いありったけの後悔の渦を吐き出した。
こんなことなら、こんな気持ちを抱かなければ良かったのに!
帰れと云われた時に帰っておけば良かったのよ!
アルベリク兄様に云われた通り、政略でもなんでもいいから結婚して——絶叫のうちに自分の全てを塗り替えてしまおう、嘘を塗りたくって辛い現実をなかったことにしてしまおう。そんなことは叶わない。判っている。でも他には何も思い浮かばないのだ。
うがあああああああああああああ!
大男の絶叫が耳をつんざく。
苦悶の轟が響くと、呼応した何かが辺りを暗くしていった。
それは月明かりも、辺りを舐め回す炎の舌も、爆ぜて生まれた火の粉も一切の明かりを呑み込んだように思えた。
※
バックドアを潜ったロアとその一行は、扉を閉じると一目散と乱暴に描かれた円環の模様の中心に駆け出した。いや、翔んだと云った方が正確かも知れない。地に足を付けている様子もなく、一様にバタバタと外套を旗めかせ移動するその様はまるで幽霊、亡霊の類をなぞらえた。
「ロア様、あれを。逆流が始まっています」
一団の男がロアに並び、苦悶の叫びを挙げる大男を指差した。
「そのようですね。みなさん、多層防壁を展開します。穴を埋めますよ。万が一、攻性のものがあっても無力化せずに押し返してください」
※
「あらららら。これはまた沢山」
アドルフの惚けた声が吟遊詩人の耳に届く少し前には、周囲はまるで蛇壺のなかのようで、ぬらりとした壁から生え出た触手で埋め尽くされつつあった。壁の中で何が起きているのかは分からなかったが、時を追うごとにその透過の具合は損なわれ、ただ黒くぬらりとしたものになってきたようだった。アオイドスとアドルフはそれを小高い瓦礫の山から傍観していた。
「思ったより酷いわね」
「うへー。先生、冷静ですね。流石にちょっと気持ち悪くなってきました」
「男の子が弱音を吐かないの」
「へいへい」
そう云ってアドルフは両頬をバチンバチンと叩いてみせた。パチンじゃなくバチン。その気合いの度合いがわかるというものだ。
「こうなったことが無いからわからなかったけれど、いざなって見ると——相当、気味が悪いわね。ロア達大丈夫かしら。頼みの綱は彼女達しかないから、取り込まれてしまったら、一度退却しないとね」
アオイドスはそう云うと、ちょっと突き出た瓦礫に腰を下ろした。
「はあ」と気のない返事を返すアドルフは、脚を組んで座り直した吟遊詩人の横顔をじっとみつめていた。
※
「一体何が起きたの?」
薄い黒布を頭から被されたように辺りから光を奪われたエステルは、目の前で青や赤や緑に輝く、踠き苦しむ大男が頼れる光源であった。その大男といえば、両手を大きく開いた口に突っ込み何かを引っ張り出そうとするようだったが身体を激しく痙攣させている。何が起きているのか——全く想像もつかない。
辺りを見れば大男の口から溢れ出す、半透明の何かの<記号>が螺旋を描きながらそこいらを埋め尽くした。建物や草花、樽に骸といったものは<それ>に触れると、表皮を捲られ先端から青い粒子に変えられた。
かぶりを失ったアッシュの骸とそれを抱きかかえるエステルの周囲は不思議と<それ>を寄せ付けなかった。今では、エステルを大きく取り囲む円環の幾何学模様は濃い青に輝き脈を打っている。これも何か寄せ付けない要因の一つなのかも知れない。
そんな光景にエステルは再び堪らず、今度はすっかり冷たくなったアッシュの骸に顔を埋め、もう成り行きに任せ、これで死ぬのであればソレは自分に与えられた罰なのだろうと半ば諦めたのだった。
「さっきは変なこと云ってごめんなさい——」
エステルは静かにそう零して目を瞑った。
そして、今度は別の影が自分の前を暗くしたのを感じた。
「魔導師さま、お気を確かに」
エステルは今更、何に驚きようもないくらい心が疲弊していたのだが、これはどうだろう。地獄に天使。スラムにお嬢様。そういう驚きにはまだ敏感だ。それは聖霊ロアであった。大きすぎるフードは後ろに退けて、後で二つに結ったブロンドを露にしていた。大きく開いた双眸の瞳も金色だったのだが、右目の瞳孔は何かが常に蠢いている。随分と神秘的な印象にエステルは場違いとわかりながらも息を呑んでその姿を見上げた。
「あ、あなたは?」
「わたくしは、そうですねご主人様の悪いクセなのですが、え、あ、はい、わたくしのご主人です。すぐにラベリングをしたくなってしまうようで。ご主人様曰く、わたくし達はあなた方の言葉で言えば<聖霊>だそうです。聖霊のロア。それが、わたくしの個体名です」
「ら、らべりんぐ?」
「ああ、失礼いたしました。渾名のようなものとお考えください。もっとも、ご主人様はもう少し重めの意味合いで付けてらっしゃったようですが、気にしないでください」
そう云うとロアは手を差し伸べ、エステルを立つように促した。
「そろそろ防壁への侵食が危険域に達します」
「防壁? 侵食って?」
「あなた方が朧げに認識をしている<外環>と呼んでいる領域からの侵食です。本来この世界では処理しきれない——なんと云えば理解してもらえるかわからないのですが、あの大男から溢れ出ているあれは、外環のものなのですが、あれがリードラン全体を包み込むと世界は崩壊してしまいます」
「——」エステルは顔をしかめロアを見つめ小首を傾げた。
「そうですよね、そうなりますよね。取り急ぎはここに居れば安全です。少々お待ちください」
「お待ちくださいって——」
「ええ、全てが良くなります。でもきっと完全には修復できないので、わかりませんが、でも、最悪の状態は脱せるはずです」
訳がわからない——エステルは小さく呟き、ロアの手を取ると立ち上がり、ことの成り行きを見守ることにした。ロアはそれを見届け、アッシュの骸を一瞥すると「ありがとうございます」と呟いた。「え?」とエステルは切り返すが、ロアはそれきりエステルを見ることはなく、両手を広げ凛と声を張り上げた。
「さあみなさん、穴を塞ぎますよ!」
すでに大男の周りを取り囲んだ聖霊達は、身体を痙攣させる大男に手を軽く触れ、目を瞑り口々にあの奇怪な言葉を唱え始めたのだった。
——...OKE#700,7,33,16,181,2,70,0,32,1,35,27,4,12,70,92,67,162,66,1,219,18,27,24,68,91,8,247,209,17,70,16,189…… CLT:FORI=1TO1000:U=USR(#700,10000):NEXT:?TICK()..264……?264-264……0 [0]=#4770:CLT:FORI=1TO10000:U=USR(#800,10000):NEXT:?TICK()..2643……CLT:FORI=1TO10000:U=USR(#700,10000):NEXT:?TICK()..2648..?2648-2643..5..?5*1000/60……83——
すると、大地に描かれた幾何学模様が一斉に黄緑色に輝き始め、空に向かって光の壁を放ち始めたのだ。それは光の壁が大地よりそびえたように思え、エステルは思わずアッシュの骸を抱きかかえ、またその場に座り込んでしまうのだった。
※
鈍色の雲海に浮かぶ建造物や世界を構成する質量が絶え間なく表層を捲り揚げ、青い粒子と化して霧散していく。眼下ではあらゆる生命体が揺蕩い、皮を剥がれ、筋肉がほどかれる頃には末端からやはり青い粒子となって霧散をする。そんな世界の中で激しくぶつかり合い、死闘を繰り広げるのは<宵闇の鴉>としょぼくれた白狼だった。<宵闇>は光の速さで襲いくる白狼の牙を黒刃でいなし撃ち返すのだが、なかなか決定打に欠ける一進一退の攻防を強いられた。
いかんせん、この場は白狼が云うに世界の成れの果て、<原初の海>の贋作であり、まだ魔導や魔術といった技術が産み出される以前の状態なのだそうだ。だから、アッシュは持ち前の身体能力だけで、得体の知れない白狼と対峙しているのだから仕方がないのかも知れない。
※
アッシュのかぶりを喰らった大男は、脳幹に触れると直ぐに殆どの体組織が<宵闇>の細胞に侵食され内側から崩壊した。そして気がつくと、この姿——しょぼくれた白狼となり、自身の内側とも、外側ともはたまた<宵闇>の内側ともわからない曖昧な空間で世界の全容を見渡した。遠くをほっつき歩く<宵闇>を見つけると、世界を構成する質量を掻き分け、忌々しい人間と対峙したのだ。
白狼はそもそも、魔女に生を与えられ、使命を云い渡されていたのだが、その
だから、これが八つ当たりだと云う事は分かっている。だがそれに良心を咎められることはなく、再び<宵闇>を屠ろうと躍起になっているのだ。
※
永遠とも刹那とも思える刻の流れの中、二人は牙と刃、身体と身体をぶつけ合う。
白狼の前脚から繰り広げられた強烈な一撃を、切っ先を下げそれをいなしたアッシュは、すかさず前蹴りを白狼に見舞い距離をとる。そして、そのままの勢いで半身を戻し左旋回で白狼の胴体を真っ二つにする筋を放った。しかしその刃の軌跡をひらりとかわす白狼は、<宵闇>と距離をとり再び間合いを測る。
「お前は何を護ったのか、ついぞ答えなんだな。今はどうだ、生きているのか死んでいるのかもわからず、儂と斬り結ぶ意味がどこにあるのだ」
白狼はハハハと喉の奥を枯らしたような声で蔑むように笑った。そして「儂に外環の景色を見せようとは思わないか」と首を垂れ左回りにゆっくりと動く。対するアッシュは切っ先を下げたまま摺り足で同じく左に回る。
「なんだ狼、もうご老体に鞭打つのがしんどくなったのか?」
「——詭弁を弄するならば、もう少し云い方もあろうに。云うにことかいて老体と来るか」
「なんだ、詭弁だったか?」
「おうよ。仮にも世界に忘れられたお前の分身の一つなのだからな」
「それもそうだな。あの魔女め余計ないことをするもんだよ」
「で、どうだ。ここに来てみてわかったが、お前は世界に失望しているのだろ? だからここに、リードランに逃げ込んだ。であれば、儂を連れて世界に戻ってみぬか?」
「ろくでもない発想をするもんだな。なんでだ?」
「何がだ?」
「魔女はお前らに外の世界を知らせてはいないだろ? なのになんでそんなに外の世界に出たがる」
「それか。そうだな、切っ掛けは<暴食>が狩人に手を出した時だったが、はっきりとした欲に変わったのは、あの野伏を喰った時に垣間見た景色のおかげだな」
「そうか、その景色とやらには人間は居たか?」
「おうとも。もっともそれを具体的に知らしめたのは<色欲>だがな」
「御託はいい、名は?」
「ジョシュア・キール。名を訊いてど——」
その名を耳にしたアッシュは唐突に駆け出し、瞬く間に白狼の眼前で黒刃を水平に構えると一気に振り抜いた。
それは稲妻の一閃のようであったし、ゆらりとした朧げな水平線のようでもあったが、虚を突かれた白狼は飛び退くのが一瞬遅れ、見事に左前脚を斬り落とされていた。着地はままならなく、どぅ! と鈍い音を立てかぶりを地に這いつくばらせる。青い粒子の靄と地平線ないしは水平線の隙間から<宵闇>の黒々とした長靴が近寄ってくるのが見えた。
「ジョシュアをどうした」
「なんだ、あれはお前の親かなんかか?」
「いいや、俺の友だ。ジョシュアはどうなった」
アッシュはそう短く答えると、黒刃を白狼の右脚に突き立てた。ギャ! と短く白狼は悲鳴を挙げるが、直ぐに忌々しい声でそれをせせら笑う。
「そうかそうか。それを知りたければ儂を喰らうがいいさ」
「なんだと?」
「あれは儂に同化することを拒んだが、儂の中で揺蕩っておる」
「なるほどな。狼を喰う趣味はないが——」
アッシュは白狼の右脚の切っ先を引き抜き、そして今度は首に突き立てる。
白狼はそれでも、不気味にせせら笑うのを止めようとはしない。
「ジョシュは返してもらうぞ」
その時だった。奇怪な言葉の羅列が周囲を埋め尽くし次第に記号の螺旋となる。見上げれば鈍色の雲海も、世界の瓦礫も何もかも記号の螺旋をなした。
——...OKE#700,7,33,16,181,2,70,0,32,1,35,27,4,12,70,92,67,162,66,1,219,18,27,24,68,91,8,247,209,17,70,16,189…… CLT:FORI=1TO1000:U=USR(#700,10000):NEXT:?TICK()..264……?264-264……0 [0]=#4770:CLT:FORI=1TO10000:U=USR(#800,10000):NEXT:?TICK()..2643……CLT:FORI=1TO10000:U=USR(#700,10000):NEXT:?TICK()..2648..?2648-2643..5..?5*1000/60……83——
アッシュはそれに構わず白狼の首を斬り落とし、掴みあげる。かぶりだけとなった白狼はそれでも口を動かし「早くしないと聖霊どもが片付けてしまうぞ」と囁く。そして、何処かからか声が響いた。
「ご主人さま、それの誘いにのったら駄目です!」
※
「おいおいおいおいおい!」
最初は小さく、最後は大きく。
アドルフは「おい」をどれだけ連呼したか数えるほど余裕はなく、監視対象だった、ぬらりとした黒い壁が突然に膨れ上がるのに気がつくと「逃げましょう先生!」とアオイドスに声をかける。
「そうね、これはちょっと不味いわね——うん、ダメね」
珍しく、焦りの色を顔に浮かべた吟遊詩人はアドルフと共に瓦礫を飛び降り、待たせていた軍馬に騎乗する。そして全速力で南に旋回し街道を突っ走った。音もなく広がる黒い壁は二人を追いかけるように、周囲の建物も木々、何もかも触れた途端に青い粒子へ変えながら、取り込んでいった。
「聖霊達は!?」
アドルフは後方を目視しながら叫んだ。
「わからない! でも——成功じゃないことは確かね。半々の半が最悪の結果だったのかも」
「それじゃあ——」
「それもわからない。一回戻ってみないと。にしてももっと離れないと駄目ね」
「了解です!」
野伏と吟遊詩人は軍馬を駆ってぐんぐんと南に走る。
黒い壁は相変らず周囲を呑み込みながらダフロイトの街を削りとっていく。
すっかり他の狩人やネイティブもダフロイトからは姿を消していることだけが唯一の救いだなと、アドルフは心で呟いた。