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ルエガー大農園③




 ——少し前のこと。 ルエガー大農園「大木様の館」廊下。


 アドルフは力強く閉められた鎧戸を目の前にしていた。

 赤髪の魔導師が着替えたいからと云ったからだ。

 先程まで半ば下着姿で黒髪の男に馬乗りになった魔導師だったが「これは誤解よ」と訊ねてもいない弁明に重ね「早く服を持ってきて」と捲し立て、彼らは追い出されたという寸法だ(少なくともアドルフの頭の中では、そのような理解だ)その当事者はといえば、顔二つ分の距離にある鎧戸を野伏と仲良く並んで見つめている。


「あああ、仕方ないですね」

 アドルフは肩を落とし云うと「あー、アッシュさんとお呼びしても?」と続けた。横で立ち尽くした男は、こちらを向いてそう云ったアドルフへ「少々違和感がありますが」と小さく答える。


 本館に続く廊下には白木の木材が使われていた。

 アークレイリ産の木材は、厳しい冬を過ごすことから年輪が詰まりその質を重厚なものにするそうだ。きっとこの白木もそれなのだろう。二人が履く革の長靴が廊下を踏み鳴らす音が白木に反射するのか随分と固く響いて聞こえる。


「アッシュさん、その、本当に記憶がまったく?」

 アドルフは段々とソワソワとし始め、アッシュに申し訳なさそうに話しかけた。アオイドスの云うとおり沈黙が苦手なのかも知れない。横を歩くアッシュは小さく「はい」と答え、指で頭を指すと「思い出そうとすると、痛くなるのです」と、苦笑いをしてみせた。





 <宵闇の鴉>を目にしたのは、ダフロイトで大男と対峙したあの時が初めてだった。


 薄赤の煉瓦の建物が密集する区画、褐返かちかえしの煉瓦の区画、様々な区画が宿場街や繁華街、人々の住まう家々を構成しひしめきあうダフロイトの中央北区画。それぞれの区画の建物は、たとえ豪雪となったとしても雪が屋根に積もらないよう大きく垂れ下がった屋根が備えられた。それは非常に特徴的で、これで雪の重みが家屋を潰してしまうことを防いでいる。そして、それは元来の良きダフロイトの景観の一つだ。


 <宵闇>との邂逅の日は、そういった人々の営みや文化といったものが、跡形もなく消し飛び、あまつさえ魔術の硝煙に塗れた炎がダフロイトの夜空を焦がしていた。瓦礫と瓦礫、半壊した建物、弓形に歪んんだ街灯柱、あらゆるものが歪み朽ちていた。

 その隙間から顔を覗かせた、べったりとした炎の多くは天まで届き、対峙した二人——アッシュ・グラントと大男の姿を影絵のように浮き彫りにしていたのだ。


 その影に浮かぶ二人の眼光。

 何もかもを貫き通すであろう鋭い黒瞳の光。

 ことどく狂おしい赤黒に濁った瞳の輝き。

 ただただそれだけが野伏の脳裏にこびり付いて離れなかった。

 だが、今、野伏に向けられたそれは、穏やかで、鋭さはなく優しく朝日を拾うだった。つまり、似ているようで似ていない。違うようで違わない。そういったあやふやとしたものだった。





 野伏はアッシュの苦笑いに優しく微笑み「無理はしないでください」と云うと、お世辞にも整ったとはいえないぼさぼさの黒髪に一瞥を送り、目を伏せた。

「あ、ね、寝癖ですかね?」

 野伏の一瞥に気がついたアッシュは慌てて黒髪を撫で付けながら、おどおどと云ったのだがアドルフは「いえ」と短く答え「ところで——」と言葉を続けた。


 アドルフはトルステンの妻リリーにエステルのことを伝え身支度をお願いするつもりだと云い、おそらく小一時間は時間がかかるだろうとアッシュに伝えた。トルステンもまだ朝の仕事から戻らないはずだから「少しこの辺を散歩してきますか?」とアッシュに勧めたのだった。

 アッシュは最初、少しばかり戸惑った様子だった。しかし皆が集まったら<囁きの術>で呼ぶから安心してくださいとアドルフの言葉に「それでは」と、アッシュは外の散策に出かけたのだった。


 その際、右耳に軽く触れて術を施したアドルフに、多少なりとも驚いたアッシュを見て野伏は寂しそうに顔を曇らせたのだった——本当に何もわからないのだ、と。



 ——ルエガー大農園 大広間。


「アッシュ、アッシュ・グラントはどこに?」

 声を震わせたエステルは咄嗟に横のアドルフへ顔を向け前のめりになった。


「安心してください。あそこにいますよ」

 手を軽く突き出して、エステルに落ち着くように云いながら、東に突き出た大窓を指差した。そこに見えた庭では落葉のまだらの目立つ森が、すっかり朝日に照らされ青々としていたり寒々くしたりと冬模様を露にしていた。果たしてアッシュ・グラントは、その木々の葉や枝が落とす影と陽の境目に佇み、空を見上げていたのだ。


 その姿は、目を細め何かを追いかけているようにも見えた。


「彼は何をしているのですか?」

 エステルはアドルフとトルステンの顔を交互に見た。

 それに答えたのはトルステンだった。

「アッシュさん——そう呼ばせて頂きますが、彼は先ほどまで庭師と一緒に落ち葉を掻き集めたり、木の根を手入れしてくれていたのです。でもエステルさんが来る少し前から、ああやって空を眺めています」


 エステルは訝しげな顔をした。


「空を——ですか?」

「ええ——鳥でも眺めているかのようですね」


 バタン!

 トルステンが席を立ち大窓に向かって歩きながら答えると、大広間の扉が開かれ、とうとう逃亡者を確保し服を着せることに成功したリリーが戻ってきた。


「あなたの云う通り、鳥を見ているそうよ。この冬空に珍しいわよね、黒い鳥が飛んでいるみたい」

 リリーは開口一番、そう皆に告げた。


「みたいとは?」と、エステル。

「ああ、アッシュに云われて見てみたけれども、私には見えなかったのよね」

「そうですか——」


 エステルは消え入るように云うと、トルステンの傍まで歩き、大窓から内に張り出た縁へゆっくりと腰をかけた。すっかり眉をへの字にしたエステルはアッシュを案ずるように彼を眺めた。


「アドルフ、これからどうしますか? アオイドスを待ちますか?」

 トルステンはエステルを一瞥し、笑みを零すと席に戻りそう云った。

「いいえ」とアドルフは、朝食の前に今後の話をさせてくださいと断り、ことの経緯を説明した。


 事の発端はガライエ砦にリードラン解放戦線が雪崩れ込んだ事にある。

 エステルの話によれば何らかの理由で、ガライエ砦で眠りの刻にあった吸血鬼の始祖を、解放軍が偶然目覚めさせた。すると、極々小規模な吸血鬼のコロニーだったガライエ砦に大量の眷属が発生、解放軍を壊滅に追い込んだのだそうだ。

 エステルは辛くも眷属の餌食になることはなかったが、その騒動の中とうとう身を隠せなくなった。そして脱出を試みたが、これに失敗。餌食になる間際で偶然居合わせたアッシュに助けられたそうだ。


「本当に無事でよかった——」

 アドルフは先ほどのエステルが身につけた服のことを思い出しながら小さく呟き、更に話を続けた。エステルはそれに微笑み「ありがとう、アッシュやランドルフのおかげです」と云ってまた庭に目をやった。


 大窓の向こうでは、勢いよく駆けてきたアイネがアッシュに飛びかかり、ひっくり返っていた。アッシュはジタバタと四つん這いで逃げまどうのだが、とうとうまたアイネに捕まってしまった。

 それを見たエステルは「まあ!」と声をあげると、肩をすくめ大広間の面々の顔色を伺ったが、真剣な話を続けていたので何も云わず顔を窓に戻した。


 トルステンが水差しからポットに水を注ぎ、温めると先ほどのように、それぞれのカップへ紅茶を淹れて回った。ここからはアオイドスがアドルフに伝えた解放戦線の動向と並行して進んだエステル達の動向が複雑に絡み合う。


 アレクシスと対峙したアッシュを残しダフロイトに援軍の要請に戻ったエステルは、そのままランドルフ達警備隊と吸血鬼討伐に向かった。その殆どを駆逐するが始祖は取り逃し、明け方には気を失ったアッシュを連れダフロイトに帰還。

 同じ頃にダフロイト北の<聖霊のローブ・ヴォラント>、つまりルエガー農園が所在する地域に将軍ネリウスが侵攻。コービー・ルエガーがそれに単身応戦するもコービーは戦死。再侵攻するネリウス軍と偶然鉢合わせた巡察隊もこれに駆逐された。かろうじて生き残ったジルハードが瀕死の状態でダフロイトへ帰還。ネリウス軍の侵攻が明るみになった。


 その後の顛末は、ネリウスの侵攻を迎え撃ったアオイドスとアドルフ、警備隊詰所で匿われていたアッシュとエステルが邂逅。アッシュはネリウスとの一騎討ちを望み、<黒い月>もしくは<世界の卵>が顕現。ダフロイトを壊滅状態に追いやった。


 <黒い月>というのは、この災厄をさっそく唄にしたセントバの訳知り面をした三流吟遊詩人供が名付けた俗称で、フリンフロン軍では聖霊ロアが口にしたと云う<世界の卵>という言葉を仮称として扱っている。現在は、何が原因だったかをジーウ達王国軍が調査、イカロス達は忽然と姿を消したネリウス将軍の行方を追っているそうだ。


 大窓の外ではアイネがアッシュの背に乗り掛かり、キャッキャと騒いでいる。


 アッシュは窓の傍へ苦しそうな顔を寄せると、エステルには目もくれずアドルフに右耳を指差した。アドルフは術で「もう少しアイネと遊んでやってください」と囁き、笑顔でアイネに手を振ってみせた。アッシュはそれならばと、アイネの小さな身体を抱えあげ股を首に通すと、肩車でそこら中を駆け回った。エステルは、自分に目もくれなかったアッシュの事に気がついた時には、知らず知らずに固く唇を結び寂しそうに、木々の影が揺れる庭に目を落としていた。


「アドルフ、一つ訊いてもいい?」


 先ほどの陽気な声からは想像もつかない鉄のように冷たい声でリリーが云った。

 アドルフはどこか覚悟を決めた顔をし、かぶりを縦に振った。


「なんでアオイドスとあなたは、コービーを助けに行かなかったの? あなた達なら何とかなったんじゃないの?」

「リリー」トルステンが間に割って入ったが、リリーはそれを制した。

「少なくともアオイドスは、それを知っていたのでしょ?」


 アドルフは黙って、かぶりを振った。


「じゃあ何で——」

「リリー止めないか」堪らずトルステンが語気を強めた。

「トルステンさん、良いのですリリーさんの云う通りです」

「それに何で今ここにアオイドスは居ないの? おかしいでしょ」

「すみません、こればっかりは——」

「こればっかりは?」

「こればっかりは、皆さんにお伝えできないことなのです。本当にすみません」


 アドルフは大テーブルに額がつく程かぶりを垂れ、肩を震わせた。


 大広間に射し込んでいた陽の光は朝日の白から少しずつ赤味を帯びてきた。

 それに落とされた影は大テーブルを挟んでアドルフを包み込み、まるでそのまま暗闇に野伏を溶かしてしまうのではないかと思えた。

 相変わらずアイネはアッシュに肩車されキャッキャと嬉しそうにはしゃいだ。今度は懸命に手を伸ばし、すっかり葉の落ちたアオダモの枝を折ると、それを振り回していた。


 大広間に流れた暗く重たい空気を破ったのはエステルだった。


「横からすみません。リリーさん、ここまでの話を聞いていて薄々はわかっています。あなた方がただの農夫ではないことはわかります。それが何なのかは、アークレイリ人の私には明かせないのだと云うことも。だからこれは私が云うべきことではないのです。ですが、少なくとも彼は決死の覚悟で奮戦していました。あのネリウスとも対峙して何とかしようとしていました。命を賭けてです。彼が何か重要な使命を帯びて、それを成し遂げようとしていたこともわかります。いいえ、他所の国の話だろうが何だろうが黙りません。命を助けて頂いた身で何をと思われても構いません。その中で、アドルフは任務とやらと逃げまどう人々の板挟みになったのだと思います。私だったらそうです。きっと彼の良心がそうさせたのだと思います。それでも、拾えるものは最大限に拾い集めて、命懸けで拾い集めて、人々を助けた——その彼を……」


 まさかエステルが自分を擁護するとは思ってもいなかったアドルフは、思わず「大丈夫ですエステルさん、僕は大丈夫ですから」と口を挟んだが、「いいえ」と赤瞳を興奮で濡らすエステルに押し切られた。


 リリーは両手を腰に当てエステルを鋭く見据えている。

 エステルはそこまで一呼吸もおかずに云い切ったからなのか、肩で息をしながら、リリーの視線を真っ向から受け止めた。


 しかし——外から響く黄色い声、アイネの声に目を大きく見開き、そして手を口にあて押し黙った。


「すみませんでした。出過ぎたことを云いました」


 しばらくの沈黙の後。口を突いてでた言葉は本心ではあるが、そこまで云う必要があったのかとエステルは我に返っていた。自分の中にわだかまった気持ち、もやもやした気持ち、苛立ち、不安、そういった何かがそれを包み隠そうと大声を張り上げ壊してしまおうとしたのではないかと思った。それが、どういったものなのか、エステルは言葉が見つからなかった。そしてリリーに謝罪し、沈黙したのだ。


 そうだ、リリーとトルステンは少なくともコービーという家族を亡くしているのだ。そして、外ではしゃいでいるアイネは父親を——私は何を云ってしまったのだろう。


 アッシュが外から硝子を小さく叩きアドルフの方を見ていた。

 すっかりアッシュの黒髪には枯葉やら小枝やら、何かの虫が頭にひっついていた。


「いいのよ、エステル。あ、エステルと呼んでいい?」

「はい、是非」

 リリーの声はすっかり落ち着きを取り戻したようだった。それに驚いたエステルは目を丸くし、かぶりを縦に振っていた。


「私のこともリリーと呼んでもらえる?」

「はい、リリー。すみませんでした、事情もろくに知らずに出過ぎたことを」

「いいえ、アドルフを庇ってくれてありがとう」

「え?」

「事の顛末をききながら、ほら、外であんなに楽しそうに遊んでいるアイネを見ていたら、むしゃくしゃしてきて。何というか、八つ当たりってやつ。アドルフ、ごめんなさい。あなたはあなたの任務を遂行してアイネのこともエステルのことも救ってくれたんだもんね。悪態をつくなんて、私どうかしていたわ。憎むべきは身内ではなく、そう、あのイカれた狂信者のネリウスですもんね」


 そう云うと、リリーは深々とアドルフに頭を下げた。アドルフはそれに驚いたのか椅子から跳ね上がり「リリーさん、頭をあげてください」と声を裏返した。


「でもね、アドルフには悪いけれど、私はアオイドスのやり方には賛同できない。これだけは譲れない。あまりにもアドルフが不憫すぎるもの」


 リリーは頭を上げ、そう云うとトルステンの顔を見つめた。

 事の成り行きを見守っていたトルステンはリリーの肩に手を置くと「ちょっと遅くなったけれど、朝食にしよう」と静かに云った。


 しばらくすると扉の向こうから「アッシュ、遅いとリリーにお尻叩かれるよ!」と、けたたましい黄色い声が聞こえてきた。




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