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魔導師アッシュ・グラント①





 落ち着いたエステルも交え今後の話をと云ったトルステンが場を仕切った。

 アドルフから聞いた状況に合わせ、エステルが覚えている限りの話をまとめ、そして最後にアッシュ自身が思い出せる限りのこと訊ねた。結局のところアッシュの状態としては自身の名前から出自、これまでに至る一切の記憶が無く、無論、英雄<宵闇の鴉>としての記憶は欠片も残されていなかった。

 ただ、全く一切合切を忘れているというよりは、何か切っ掛けがあれば、即座に学び覚えるような不確かな感覚でわかるようになる事もあるのだそうだ。例えばそれは知識や技術の類だ。


 アドルフとエステルの話からは、恐らく記憶を無くす前のアッシュは、何かしらかの理由で覚醒した吸血鬼の始祖、その系類を追いかけていたようだ。他にも何か目的を持って旅を続けていた節はあるようだったのだけれども、それについては一旦置いておくこととなった。


 では、どうするのか?

 トルステンは、少なからず<大崩壊>の切っ掛けとなった始祖の系類とアッシュの接触は防がないとならないと云った。接触が他にどのような災厄を呼ぶかは計りかねる。こちらが撃って出なくとも、向こうから嗅ぎつけてやって来る可能性も示唆し、対応を検討することとなった。

 トルステンはそれに始祖を消滅することができるのであれば災厄を回避できるのではないかと付け加える事を忘れなかった。だが、護るにせよ攻めるにせよ、当面はアッシュとエステルは体力気力ともに回復させることへ専念するよう云い渡された。そしてトルステンとアドルフ、リリーの三人は検討材料の収集を開始した。


 かくして<大木様の館>が本領を発揮する。


 遥か北の地からもたらされたドルイドの御神木はリードランの大地に根を張り、各地に移植された御神木を霊的に繋ぎ合わせる。それはすなわち、北の島国ロドリアの地を歩き一切の事象を影から掌握した追跡者・野伏のぶせの最大の秘術であった。どこまでも根をはり絡み合い霊脈を通じて標的を捉え、暗闇から粉砕する。それはまるで根が岩をも砕くそれに似ている。情報収集にあたるのは農夫の三人ではなく、フリンフロン王国諜報組織<月のない街>の三人だ。







——<大木様の館> 客間。


 朝の時間を朝食で締めたアッシュは、自分の部屋に戻ってきていた。

 先ほどの乱闘の痕跡は全くなく、ベッドも綺麗に仕上げられていた。

 きっと館の給仕が綺麗に部屋を整えてくれたのだ。


 これといって何かをしなければいけない訳でなく、さしずめは弱った身体を整え来る旅立ちの日に備えるのが目下の任務だ。だからという訳ではないのだけれども、アッシュはベッドに腰を降ろすと仰向けになり天井を眺めた。客間の天井には何本もの立派な木材が張り巡らされ、梁に吊木、野縁に野縁受けを構成していた。きっと部屋の隅々を清涼感で満たす香りは、これらの木々特有のものなのだ。

 開け放たれた小窓のカーテンが揺れると、その香りがフワッとアッシュの身体を包み込んだ。

 外からはアイネが庭師のネリスの仕事を邪魔をする声が聞こえてくる。


「ねーネリス! 早く羊舎に連れって行ってよ!」

「なんだ、分からねー奴だな、俺はまだ仕事終わってねーんだから後でな! 芋を喰ってからでも遅くないだろうよ」

「えー! そしたら羊さん達寝ちゃわない?」

「大丈夫だ大丈夫だ! 早く行き過ぎるとそれはそれで、羊飼いのブルーノにこっぴどく怒られるぞ」

「それは嫌!」

「だったらもう少し我慢しろ!」

「はーい!」


 随分と聞き分けの良いアイネの声に裏を感じたアッシュは寝転がりながら笑みをこぼした。そして、それは的中し「おいおい、アイネ。手をぶった斬るんじゃねぇぞ。違う、そこじゃない。それを切ったら次の春に花が咲かなくなっちまう。いやだから——」と心優しいネリスの剪定講座が始まったのだ。


(両親を亡くしているというのに——必死にそのことを忘れようとしているのか。そういえば、彼女の父もアドルフと同じ野伏のぶせだったと云っていたっけ——親の都合で人生を振り回されていると云うのか、そういうのって——痛っ!)


 アッシュはぼんやりとそんな事を考えると、不意の頭痛に襲われ顔を歪めた。つい先ほども自身の両親や出自の事を思いを巡らせようとすると、頑なに閉ざされた扉に仕込まれた罠を触ってしまったように、鋭い頭痛に襲われたのだ。明らかにその度合いは、技術や知識そういった類を思い出そうとするよりも酷い。しかしアッシュは、その境目を探るよう意図的に思いを巡らせ、そこはかとなくそれを掴みつつあった。


 背の低い脇棚に置かれた、かつての自分が装備をしていた黒鋼の鱗籠手、身の丈近くある両手剣に兵士の鎧、革の長靴に手袋、その脇に置かれた狩猟短剣。

 救出された際は一糸纏わぬ姿だったアッシュ。館に運ばれベッドへ寝かされた後にこれらは忽然と姿を現したのだそうだ。全てが、どこまでも暗く黒いそれらを横目に見たアッシュは「あれを使っていたんだよな」と呟き、右手を天井に上げそれを眺めた。


 かつての感覚はその拳にはなかった。

 部屋に戻ってすぐに両手剣の柄を握ったが、これを片腕で振るっていたというのが信じられないほどの重さで、それは、アドルフやエステルの誇張なのではないかとさえ思えた。しかし、彼らが嘘を云う意味がない事もわかっている。だから、きっと、それは真実なのだ。

 そして彼らは、自分が魔導をも使いこなしていたと云った。エステルによればアッシュは<言の音>の詠唱を続けながら両手剣を振るい吸血鬼の群れを薙ぎ倒していたという。


 ——右手を握っては開いてみる。


 アドルフはアッシュがネリウスと対峙した際は魔術も使っていたと云った。


 ——今度は左手を握っては開いてを繰り返した。


 そして、何もないところから黒鋼の狩猟短剣を顕現させたとエステルは先刻のアッシュ覚醒時の様子を語っていた。その短剣は今、脇棚に置かれている。


「眉唾もの——でもないのか」


 そう、そういった記憶は時間がかかるが、次第に実感として戻りつつあり、先ほどトルステンがポットを温めるのをじっと見たアッシュは自分が魔導を使っていたという事に対して合点がいっていた。


「魔導——痛っ! そうか、幻装魔導か——これなら」


 一瞬顔を歪めたアッシュはベッドから起き上がり、脇棚に置かれた狩猟短剣を手に取った。

 野伏のぶせ達が構える短剣よりも幾分か大振りのそれは、間合いを詰めてきた相手を牽制する得物として愛用された。かつて霊峰ジ・アダフに巣喰った巨人の王フワワとの戦いで七つの光輝こうきを掻い潜り、その額に突き立てたのもこの短剣だったと伝承に残されている。


「巨人のフワワなんて——随分と可愛らしい名前だね——痛ッ。その時はきっと武技幻装で魔力を付与していたのだろうから。だから、これでと——」


 アッシュは独り言をぶつくさと口にしながら、人差し指を軽く短剣で傷つけ血を滲ませる。そしてそれを刀身に垂らし何やら奇怪な文字を描いた。


「魔力を流し込む? いや<言の音>か——」


 アッシュはそう云うと目を瞑り、それを思い出そうと思いを巡らせた。


 ——そのつもりだったのだが、どうだろう。


 激しく狂った緑色の閃光が刀身から放たれ驚いたアッシュは思わず短剣を落としてしまった。短剣は木の床に弾かれることはなく、スッと迎入れられるよう頭から床に突き刺さった。刀身の半ばまで埋まった短剣はその場でカタカタと身を小さく震わせると、アッシュの焦りに呼応するように輝きを強める。


 アッシュは「止まれ! 止まれ!」と短剣の柄を握り引き抜こうとするのだが、床に吸着しているのか、短剣は頑なにその刀身を引き抜かせてはくれなかった。緑の渦がアッシュの激情に合わせ——遂には部屋をそれで満たした。次第にベッドや脇棚がカタカタと震え始めると、扉の外からエステルの声が響いた。


「アッシュ!」





 ——<大木様の館> 厨房。


 朝食を終えたエステルは、早速外出をしたトルステンとアドルフを見送ると、厨房でリリーと朝食の後片付けをしていた。

 突然涙したのは、気恥ずかしくあった。アッシュに話しかけて貰えたこと、その彼の優しさに触れたことも起因していると誤解は解いていある。だから、目下の懸念事項といえば、食器を洗ったり片付けをすることが苦手だということが露呈したことだ。不器用に皿を洗う手際の悪さにリリーが「ちょっとエステル。あなた筋金の入りのお嬢様って本当なのね!」と豪快に笑われ、どれどれと食器洗いのイロハを学ぶところから水場の修練が始まった。


 教官は鬼のリリー。

 彼女は容赦という二文字を知らない。

 リリーは随分と手際よく洗い、さっと食器を乾かしてしまう。

 リタージ学派の<コモンマジック>を使うリリーは濡れた食器を風と火の術式を組み合わせ一気に乾かすのだ。エステルはそれを見ると「油汚れはサっと落とせないのですか?」と、おずおずと訊ねてみた。

 どうやら油の成分を分解しようとすると、食器自体に損傷を与えてしまうとのことで「そこは自力で頑張るところよ」と、したり顔で諭されたのだった。


 だから、「あははは」と空笑いをしたエステルは流し台からカラカラカラと小気味よい音を立てた食器を手にとり懸命に洗い始めた。


 暫くすると一仕事を終えたリリーとエステルは、小さなテーブルについていた。二人は暖かいミルクに幾許いくばくかの蜂蜜を垂らした暖かい飲み物を口にしていた。

 カップを両手で持つと冷え切った手はジンジンとし始め、少しだけ痒くなる。

 エステルはその感覚に目を丸くして手を摩ったりもした。


「急に温まるから痒くなるわよね。私はもう慣れちゃったから平気だけれども」

 リリーは頬杖をついて楽しげにエステルの手を見つめていた。

「はい、驚きました。教会に居た頃でも大体が給仕のかたが片付けや掃除もしてくれていたのでこういったのは、どうでしょう覚えている限りまるっきり初めてで」

 エステルは、申し訳なさそうにリリーにそう云った。

 リリーはクスクスと微笑むと「話したくなければ無理に話さなくて良いのだけれども、なぜエステルは家を出てしまったの?」と、思い出したかのように訊ねた。


 もう既に自分のことなど調べがついているだろうに、なぜそれを訊ねるのかと云えば、きっと裏付けが必要なのだろう。本人の言であれば、それが真実なのだろうから。そんなことを心の隅で邪推をしてみるが、かぶりを振り、そうではないとエステルはリリーの目を見ながら思い直した。なぜだろうか、先程の大広間での失言を大らかに包み込んでくれたリリーだったからそう思えたのかも知れない。


「ご存じかと思いますが——私の家はアークレイリ王国王家傍系の血筋、代々王家に剣を捧げてきた家柄で——」

「違う違うエステル、その辺りの事情は大丈夫」とリリーは慌てると「お家で何かあったの?」とやんわりと質問を変えた。あまりものエステルの神妙な面持ちに申し訳なくなってしまったからだ。エステルはそれに顔を赤くした。先ほど邪推した自分が恥ずかしくなったのもある。


「はい。そうなのです。家督は兄が受け継ぎ、母は城館の奥に引っ込んでしまいました。長兄と次兄も結婚をし、下の妹達もそれぞれ婚姻をすませると家を出てしまいました」

「あら、そうなの。それじゃあ肩身が狭かったでしょう?」

「ええ、そうなのです。そこで持ち上がったのが私の婚姻の話でした。仮にもベーン家の長女ですので、それなりにお声がけは方々から頂いていたようなのですが」

「ああ、なるほど。それで家の都合に合わせて、良い家柄の男と?」

「はい。だから私は兄に云ったのです。私の人生は私のものですと」

「そしたら?」

「子供じゃないのだから聞き分けろと。貴族に生まれてきたのだから覚悟をきめろと」

「なるほど、ひどい話だね。でもなんでまた魔導師なんかに?」

「はい、それは——」


 これを吐露できる相手はなかなか居なかったのか、よき聞き役を得たエステルは少々顔を紅潮させながら手振り身振りで話をしたのだが、不意に言葉が切れた。ガタガタと部屋が揺れ始めたのだ。

 もう何千年も火山活動をする霊峰ジ・アダフ。それよりも歴史が俄然に浅いがフリンフロン国境南に横たわる黒色山脈の活火山がある地域では地震が少なくはないと聞くがクレイトン近隣で自然発生の地震は極めて少ない。


 であれば、館を揺らしているのは別の理由だった。


 話の途中であったが二人は顔を見合わせ、厨房から飛び出した。

 玄関ホールに向かうと、蜂の巣を突いたようにあちらこちらから農夫や給仕たちが集まり、客間に伸びる廊下を見て騒ついていたのだった。


「レディーリリー、客間の方で!」とか「リリー様、アッシュ様のお部屋が緑色に輝いて……」とか「親方! 大変です」などと騒ぎ立てている。


 自分を親方と呼んだネリスの耳をつまんでリリーは「何があったの!? あと、親方と呼ぶのはやめてちょうだい」と語気強めに訊ねた。それにネリスは「アッシュの部屋から強烈に光ったものだから、驚いてこっちに来てみたら突然揺れ始めたんだ!」と、イテテテと云いながらも、割と正確な説明をした。


「エステル、あの輝きは」とリリー。

「はい、魔力の痕跡です。みなさん危ないので外に避難しておいてください。私が行ってきます」

「ちょっと待って——!」


 ガライエ砦からこの方、エステルは随分と変わった。今のエステルの表情は短い時間ではあるがリリーが見てきたどんな顔つきよりも凛々しく、何もかも任せられると思った。

 だから、リリーは制止をしたものの、少しばかり微笑んで「ほらみんな外に出るわよ。エステルの声が聞こえたでしょ?」と玄関ホールに集まった一同を先導して、外に避難をしたのだった。







 ——大木様の館 客間。


 勢いよく扉を開け放ったエステルはその光景に度肝を抜かれた。

 アッシュを中心に強烈な緑色の輝きが渦を巻き上げ、部屋中の家財道具がフワフワと宙を舞っている。

 魔導の根源とは万物に宿る霊を己が身体に宿る魔力を用いて顕現させるものだ。

 それは自身の身体も万物の円環の中の一つとして捉え奇跡を顕現する回帰派、森羅万象を外から捉え術を顕現する幻装派に二分される。いずれの派もそれぞれから見出した<言の音>と呼ばれる音を組み立てる事で魔導を行使する。

 多くの場合それは「言葉」であったり特定の「音」である(故に音を生業とする吟遊詩人とは相性が良い。ミンストレルと呼ばれる各地を放浪する吟遊詩人達は特に旅団幻装を好みこれを行使するのだ)


 そして消耗される魔力とは己が体力であり、命そのもの。

 だからエステルは目の前で繰り広げられる光景に度肝を抜かれたのだ。そこを満たしたのは行き場を失った魔力。つまり顕現しようとしたものが奇跡だろうが術だろうが必要以上の魔力が注がれ溢れ、そこでうねっている。そして、あまりにもその密度が高く広範囲なのだ。


 ここまでの魔力の放出は死を意味する。


「アッシュ!」

「エステルさん!?」

「これは一体どうしたのですか!?」

「分からないのです! 幻装を纏わせようとしたら——」アッシュは握って離れなくなってしまった短剣に目を落とした。

「武技幻装ですか!?」

「恐らくは!」

「どの音を使ったのですか!?」

「音!?」

「ええ、どの<言の音>を使ったのですか!?」

「わかりません! それを思い出してみようとしたら……!」

「え? では<言の音>は?」

「まだ何も!」


 魔術とは特定の術式に雷にも似た力を注ぎ、大気中の理を捻じ曲げ意のままに操る。

 魔導とは<言の音>の持つ旋律、波、そういった揺らぎから内なる力を熱を伴い顕現する。故に魔導とは揺らぎがない限り奇跡も術も形を成し得ないのだ。

 致死に至る魔力の放出に、不明確な揺らぎの根源。

 言葉通りであれば、それをアッシュは思い描く事で魔力を放出したということになる。

 だからエステルは絶句したのだった。

 どの言葉を使ったか解らなければ打ち消す方法が見つからない。


 渦巻く魔力が撒き散らす熱と風と音。

 声は掻き消され、だから互いに声を張り上げていたのだが、とうとうエステルは押し黙ってしまいアッシュはそれに不安を覚えた。


「エ、エステルさん!?」アッシュの救いを求める声が轟音の中で微かに響く。

(一度放出された魔力を戻すことはできない……で、あれば何かに固着させるしか……でもそれは魔術の秘技)

 エステルは知りうる限りの魔導の知識、エイヤの城館で学んだ魔術の術式の全てを総動員し考える。しかし、どう組み合わせようが可能性と結果を想定しようが、導かれる結末は術者の死であった。


 見ればアッシュは次第に首を項垂れ肩で息をし始めている。

 緑の渦の中、アッシュは苦悶の表情で閉じない魔力の弁を押さえつけようとしているが決して上手くいっているとは言い難い。


 とうとうエステルはその場に座り込んでしまった。




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