目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

スーパーシューター②





 アッシュ・グラントはクレイトンの目貫通りを駆けた。眼前を走る細身の女を捕まえるため前のめりにだ。シェブロンズダイナーで奪われた金品を取り返すというのが目下の目当てで、目的で、目標だ。

 だがしかし、アッシュ自身が奪われたのは、なけなしの端金。忙しく両脚に鞭を打ち命を賭けるような話ではない筈なのだ。命を賭けるような——そう、穏やかではないこの状況。それというのも、目の前を走る女は懐から取り出した魔術の杖を振り乱し、取り乱し<魔力の矢>をアッシュに放って来るからだ。


 それだけならば、いざ知らず。

 シェブロンズを右手へ真っ直ぐ南に伸びた目貫通りは、人通りも多いから厄介だ。間違えれば無関係の人々に怪我を。さもすれば死を与えてしまう。だからアッシュはアドルフから学んだ、いや、模写をした短剣術で飛び交う矢の一つ一つを地面に叩き落としながら女を追跡する。そう、そんな必要も義理も無い筈なのだが何故だかだ。金品だって見て見ぬ振りをすれば良いし、そうすれば面倒に巻き込まれることもなかった筈だ。


(僕は一体全体、何しているのだろうか。勢いで追いかけてしまったけれども、たった数枚の銅貨の為、あのイカれた女を追いかけている?)


 周囲を見回すと、このイカれた状況に通りの人々は地面に伏せるか、しゃがみ込み嵐を過ぎ去るのを待っている。しかしだ、それは偶然にも人々の命を奪ってしまう可能性もあるわけだ。だからそれは、当たるも当たらぬも半ば運任せといってよい。


(追いかけなければ、こんな騒ぎにならなかった? でもあの人は罪も無い人を殺している——いや、だから追いかけている訳でもないのか——)


 アッシュの右肩を狙った<魔力の矢>を弾こうとしたその時だった。騒動に気がつかず通りへ顔を出した女性の、文字通りに矢が直撃しそうになると、アッシュは女性の腕を乱暴にひき寄せ抱え込み、それを背中で受けた。


「ごめんなさい!」苦痛に顔を歪めたアッシュは、そのまま女性を放り出したことを謝りながら踵を返し、追跡を続行する。ぐんぐん後ろに流れてゆく背景はそろそろ目貫通りの終わりに差し掛かる。


(そっか。きっとエステルさんならこうしたのかな? だからなのかな)


 露天を離れる際にエステルが見せた心配そうな顔を思い出した。

 そして——疾駆する軍馬から手を差し伸べるエステルの姿が一瞬よぎる。

(痛ッ! どちらにしてもだ——あのまま帰ったら)とうとう、すぐそこまで女を追い詰めたアッシュは、短剣を左手に握り直すと右手で脚を軽く叩く。するとアッシュの身体が仄かに青く輝くと弾かれたかのように前に躍り出た。


「シェブロンズにいた皆んなが可哀想なんだよ!」


 宙を低く弾かれ跳ぶアッシュは、そう叫び左腕を水平に突き出した。そして身体を捻るとそのまま、女の腰を斬り裂こうとする。が、「一体アンタはなんなんだい!」と金切り声をあげた女は、それをひらりと避けた。そしてそのまま転がり、建物と建物の間に飛び込んだ。避けられたアッシュは勢いを殺すように地面を滑りながら身体を反転し、それを追った。

 随分と薄暗い細い路地に逃げ込んだ女は更に右に折れるとアッシュの視界から逃れる。遠ざかってゆく足音にアッシュはかどでの待ち伏せを警戒することなく突き進んだ。


「アンタ! しつこいんだよ!」

 女は執拗に追いかけてくる追跡者に吐き捨てると<魔力の矢>を乱れ撃った。青い閃光があちこちの壁にぶつかり、火花を散らす。アッシュはそれをものともせずに全力で追いかけたのだが——異変に気がついたのは、その時だった。

 胸の奥が締め付けられるように苦しくなってきたのだ。思い返せばそうだ。シェブロンズに立ち込めた霧を収束させる時に自分はその中を掻い潜ったのだ。少なからずを吸い込んでしまっていたことを忘れていた。体内の魔力を活性化させたおかげで即効性を抑えていたのだが、それが今になって首をもたげたのだ。


(まいったな——店の方は、なんていったっけ——魔術師さん達がいるから大丈夫か)


 右の太腿に激痛が走る。

 すると痛みと苦しさに視界が狭くなっていくのがわかった。

 <魔力の矢>が直撃したのだ。


 突然に視界に飛び込んできた空の一本線。それは建物がひしめき合う裏路地から見上げる空の様子だ。それが二度も三度も視界から消えては飛び込むを繰り返した。アッシュ・グラントはとうとう背中に冷たい裏路地の地面の感触を感じ、そこで大の字に空の一本線を眺めた。







「アンタ——アッシュ・グラントかい?」


 見事にアッシュの右脚を撃ち抜いたハーゼは、この忌々しい追跡者が前のめりに身体を倒し転げたのを確かめると戻ってきたのだ。そして肩で息をしアッシュの傍に立った。


「…………」それに答えず、苦悶の表情でハーゼを睨むアッシュ。

「正義の味方にでもなったつもりかい? まあ良いさ——阿呆な男だねアンタ。金でも取り返しに来たって云うのかい? それともキュルビスの頸を落としたってだけじゃ満足じゃないのかい?」

 ハーゼは自分のズボンの裾を引っ張られるのを感じると、それに視線を落とした。アッシュが力なく左手で裾を掴んでいたのだ。

「と、とりあえず皆んなに謝れよ……」消え入るような声でアッシュが云った。

「は? それを云いに追いかけて来たってのかい?」

「——んな訳ないでしょ。金も返しなよ」

 アッシュはそう答えると相変わらず苦悶し乾いた声で小さく笑った。


「何が可笑しいんだい!?」

 転げ風前の灯であるはずのアッシュが嘲るように笑う余裕に、ハーゼどこか気圧され、苛立ち、そしてそう語気を強く云うとアッシュの顔面を蹴り上げた。低く唸り声をあげたアッシュは堪らず口から血を吐き出し、そのままぐったりする。

 謝れ? 金を返せ? この男は本当にそれだけのことで命を張ったというのか。そうなのだとしたら理解に苦しむとハーゼは思った。あのアッシュ・グラントが本当に? そう思えば思うほどに虫唾が走る。自分が知っているアッシュ・グラントはそんな生優しいものじゃない。するとハーゼはアッシュの傍に転がる黒鋼の短剣に気がつき、それを拾いあげ目を細めた。


「もう一度訊くよ? アンタはアッシュ・グラントかい?」

「だったら、どうだって云うんだよ——」

「大人しく答えな!」今度は無防備になったアッシュの鳩尾みぞおちを踏みつけ、ハーゼは中腰になりアッシュの顔を覗き込む。

「…………」

「そうかい、答える気は無いのかい。だったらどうだって云ったね、アンタ。そうだね、もしアンタがアッシュ・グラントだというのならば——」


 ハーゼは手にした黒鋼をアッシュの首筋に当てながら続けた。


「アタシ達のかたきだね。アンタがネリウスをやらなければ、アタシ達はこんな身体にならなくて済んだんだよ」


 そう云うと細い身体をぴたりと包んだ上着の首元を乱暴に引っ張ったハーゼの胸元が露になる。そこには——海辺の岩に張り付く石灰質の小さな貝のような腫瘍が幾つも浮き出し胸元一体を黒々とさせていた。


「イカれたネリウスの野郎が戻ってきたと思えば、この始末さ。あいつは解放戦線の輩を丸ごと呑みこもうとしたんだよ。でもね、アタシとキュルビス達は、からがらそれから逃げ出した。でも、このざまさ。それからと云うもの、夜は眠れないし——人の肉を喰いたくて喰いたくて仕方無くなっちまった。でもね——とある日だ。あの女に会ったのは。銀髪のイカれた女が、あの短剣に狩人の血を吸わせれば、アタシ達のも全部一緒に持っていってくれると教えてくれたんだ」


「それは、残念だったね——僕は違うよ」アッシュはまた挑発するかのように、乾いた声で小さく笑った。

「まあ、そうみたいだね——だったら……」


 ハーゼはそう云うと、おもむろに立ち上がりアッシュの顔面に渾身の蹴りを見舞う。

「だったら、アンタの肉を喰わせてもらうよ」と口を大きく開き——鋭く尖った犬歯を露に、首筋へ喰らいつこうとした。







 女の渾身の一撃がアッシュの顔面を捉えると、脳が震え、鼻腔の奥に血の匂いが広がった。痛みはもはや麻痺し、耐え難い衝撃だけが頭を揺さぶる。消えかかった視界は真っ赤に染まり、女が大きく開いた犬歯を生々しく映し出す。

 まるでそれは、もはやそれは、もうそれは、幻のようで幻想のようで——(オイ。儂に身体をよこせ)——夢心地で——(このまま死にたくなければ)——幻聴も聴こえ始めるありさまで——(儂に身体をよこせ、悪いようにはしない)


(誰!?)朦朧としたアッシュは次の瞬間、左手に強い衝撃を感じた。

 すると、引き伸ばされた時間が訪れたのか、迫り来る女の顔が歪みゆっくりと、おかしな方向に首が曲がっていくのがわかった。


 それを追いかけるようにアッシュの左拳が視界を横切っていく。

 それからというもの、アッシュは自身の意識が宙ぶらりんになったのを覚え——瞬く間に、いつの間にか壁に激突した女へ自分が踊りかかっていくのがわかった。それはまるで自分が自分でないような感覚だった——いや、訳ではなく、そうなのだ。


 ぐるるるるる———アッシュの口から獣の様な呻き声が漏れた。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?