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手繰り寄せられる軌跡①




 黒の乗手達は吹き荒ぶ風と雨の中、教会を後にした。

 正門の前に伸びる今にも崩れかけの架け橋の両脇は濃紫の沼地が広がっている。暗闇の中でも、そうだとはっきりと分かるほどに、禍々しく濃い。

 乗手達は架け橋を渡り、東へ向かった。行く手には鈍色の雲海が広がり、蒼白い繊条が音もなく蠢いている。随分と遠くでは雷が酷い音をたて猛威を振るっているのだろう。鈍色の空、禍々しい濃紫こむらさきの沼地。その狭間を一団は駆けて行く。


 先頭を行くレトリックは、雨がバチバチと漆黒のフードを鳴らす中、師匠であるフェルディアの言葉を思い返していた。

 彫りの深い目鼻立ちがハッキリとした顔を打ち付ける雨に歪めている。それが雨のせいなのか、はたまたは去来する想いによるものなのかは分からない。随分と前にフェルディアが招き入れた魔導師アイザック。彼が連れてきたアレクシスという女がもたらした<楔>とは、我々に仇をなす外環の狩人に突き立てることで、隠り世から魂を呼び戻す<雫>を狩人から取り出すのだそうだ。


 数日前、長らく病に冒された妻と娘が逝ってしまった。

 いや、正確には逝ってしまったのだと聞かされた。遺体は酷い毒素を撒き散らすから一時期的に教会で保管されている。遺体を焼くことも難しいそうだ。フェルディアは彼女達を隠り世から呼び戻すためには<雫>が必要なのだと云った。妻も娘も本来であれば死す運命ではなかった。だから<雫>さえあれば、呼び戻すことができると。



 レトリックが命じられた任務はこの<雫>の奪取だった。



 しかし、任務は一筋縄ではいかないのは自明の理。とは、どういう意味なのかはわからない。だがしかし、フェルディアはそれの一つは、かの英雄<宵闇の鴉>アッシュ・グラントなのだと云った。それであれば、一介の魔導師である自分には荷が重いのではないかとレトリックは思った。


 アッシュ・グラント。

 片腕で黒鋼の両手剣を振るい、魔導に精通した戦士。神代の語り草にまで、その姿が垣間見える謎の英雄は、決して勧善懲悪を貫くようではなく、どこか気紛れに悪事を挫いているような印象なのだ。博愛や正義、平和などという言葉はその英雄譚には存在しない。

 だが、人々は皆口を揃え彼を英雄だと祭り上げる。

 レトリックは、それに違和感を感じてしまう。竜の頸を落としたのも、巨人王の額に短剣を突き立てたのも、どこか行き場のない憤りに駆られての衝動だったのでは無いかと感じている。


「そんなのに勝てる筈もなかろうに」


 軍馬が上下するのに合わせ身体を制御するレトリック。無駄口は舌を噛み切る元凶だと分かってはいたが無意識に言葉が口をついた。

 その言葉は、後を追走する魔導師達には届いてはいなかった。肩越しにそれを確認したレトリックは、この一団の不気味さに改めて溜息をつく。文句を云うでもなく、ただただ理不尽な出撃命令を承服する黒装束の魔導師たち。任務完遂の為に割かれた人員だ。


 所謂、僧兵と呼ばれる魔導戦士達だ。

 彼らは魔導で身体能力を強化し徒手空拳でのみ闘う格闘戦の名手であり、闇に紛れ命を狩る神魔だ。彼らの信条とは、外界の姿は偽りであり、己が心眼でのみ世の理を読み解くことにある。故に皆一様に灰褐色の帯を頭に巻き付け、両目を隠す。そして彼らに取って言葉は空虚であり発するは、理の音、つまり<言の音>のみなのだそうだ。

 意思疎通において言葉は交わすものの、必要最低限の言葉でしかそれを行わない。魔導師フェルディアは虚な目で、そんな彼らを従え任務を遂行しろと云ったのだ。

 だからレトリックは、溜息をつくしかなかった。

 どうにも死地に追いやられているようにしか思えなかったからだ。さしずめ、僧兵はレトリックの死神であるに違いないと。


 黒の一団はクルロスを東に抜け、東十字路に差し掛かると北上し、フリンフロン王国属州アムルダルムとの国境を巧みに超えて行った。







 魔導師の<魔力を起源とした業カニングクラフト>とは <魔導アニミズムキャスト>である。これは赤子でも知っている。

 森羅万象の理に触れ、その揺らぎを紡ぎ奇跡を顕現するのだ。内なる音、外なる音。内は生命の中にあり、外は物質に見出す。世の魔導師達は、これらを八百萬やおよろずの神の言葉だと喩えるが、メルクルス神派はその起源を全く別としている。

 開祖メルクルスは、世界の狭間に揺蕩う<生命の起源>。生きるものは皆、その根底には画一的な起源を持ち、そこから生命力を得ていると云うのだ。

 そして、メルクルスはこの<生命の起源>を神であるとしたのだ。

 故に我々は神の子であり、その業を振るう者は神の代弁者であるとした。

 そして、メルクルスは<生命の起源>に辿り着こうとする。


「だから、魔導のその先を見ようとしたメルクルスは聖霊ロアの手で処断された。何故メルクルスは禁忌を犯してまで<生命の起源>を解き明かそうとしたのだろう?」


 数日の強行軍の末、レトリック達はアムルダルム首都マニトバ南東にやって来た。

 眼下に広がるのはシラク村と呼ばれる小さな村落だ。到着から数日レトリック達は、その村落の監視をしている。山間の切り立った崖から見下ろす限り、その村の人口はせいぜい三百が良いところ。もしかすればそれよりも少ないだろう。レトリック達はそんな吹けば消えてしまいそうな小さな村落を監視しているのだ。これも任務の一環と思いレトリックは忍耐強くそれを続けた。

 その間、僧兵の中の一人とは随分と会話を重ねる仲となり、自分達の神派についてを話していたのだ。訊ねられた僧兵パナヨティスは「きっと神を超越しようと考えたのではないか」と短く答えた。


「そんなものなのかね」定型句のような回答に眉をひそめるとレトリックは、崖に寝そべり望遠鏡を覗きこんだ。

「なぜ、それを知りたいのだ」

 パナヨティスは、寝そべったレトリックの後頭部を見下ろし——双眸を隠した帯から何が見えているのかは実際のところ分からないが、そう訊ねた。


「私の妻と娘は不治の病という奴でね。最近逝ってしまったのだ。私はそれを治すため神派をメルクルスに改めた。でもね間に合わなかった。間に合わなかったんだよ。だから、もうこれにすがるしかない。なーんて云う俗物でね私は。開祖様はどうだったのかなって思ったんだよ」


 レトリックは懐から黒い包みを取り出してそう答えた。


「知ってどうする」

「そうだね。自分と開祖様がどれほどの違いがあるのかを知って——どうだろう、悔い改めるのかな? わからない。<生命の起源>だなんて、そんなもの扱えたら、そりゃもう神そのものですよね。開祖様は、そうなって何をしたかったのか知りたかったのかもな」


 パナヨティスはレトリックの答えに軽く鼻を鳴らすと「我々罪人には崇高な目的はわからんだろうよ」と小さく云うと、顔を軽くあげる。

「だが、お前の家族が現世に戻ることを願っておくとしよう。さて、仕事のようだな」僧兵は、レトリックが片手を軽くあげ、くるりと宙で回すと踵を返し崖を降りて行った。

「罪人ね。私はそうは思わないがね。でもまあ——」レトリックは起き上がりながら、歩いて行く僧兵の背中に声をかけると「お前さん、案外良いやつなんだな」と後を追いかけた。



 遠くに見えるシラク村の東門には、ボロボロになった数台の商人の大型馬車とそれを囲うように四つの騎影が確認できた。

 レトリック達はこの時を待っていたようだ。







 もくもくと白い雲が空を覆い尽くした。


 この旅に出てからミラは見るもの触れるもの感じるものが新鮮で新鮮で仕方がなく、胸を躍らせる毎日だった。

 空はこんなにも広く雄大で、夏の雲は綿菓子のようだったし、それでいて空にそびえたつ。そんなことでさえも新鮮だった。頬を撫でる風の心地良さ、雨の冷たさ、茹だるような暑さも記憶に刻まれていくのが、言いようもなく楽しいのだ。

 そうやってさまざまな感覚に触れていくことで、想い出していくこともある。

 それは、見覚えも聞き覚えもなかった魔術に関する知識だ。

 夜になり篝火を灯せば<火の精霊>についてを想い出し、川に足を浸せば<水の精霊>についてを想い出した。ついには六精霊の知識を完全に想い出し、今ではすっかりエレメンタリオの術式を展開できるまでになっていた。


 驚くことにミラは、それらの術式をなんの予備動作もなく展開をするのだ。つまり術式を描くことなく即座に実行に移す。グラドは夜に火を起こす手間が省けて丁度良いという位にしか思っていなかったが、これは全くの異例である。むしろ、魔術学院のお歴々が騒ぎ立てるほどに、大ごとなのだ。


 しかし、その傍ら、どうしても思い出せないこともある。

 それは、ミラが「お父さん」と呼ぶアッシュ・グラントのことだった。

 母については、グラドは「お前の母ちゃん」だとアオイドスのことを指して云うのだがピンと来ていない。ミラにとってのアオイドスとは、寒空のなか倒れていた自分を助けてくれた恩人であるという以外の印象は持ち合わせていない。


「ねー叔父さん。お父さんの話を聴かせてよ」


 街道に落とされた、コナラやミズナラの木陰の中を行く二人はアッシュについて話をしていた。街道の片側に永遠と沿うように生い茂る木々、もう片側に流れる清流、その合間をゆっくりとした蹄鉄の規則正しい音が流れていく。


「なんだ、またそれか、お前も飽きない奴だな」


 グラドは水袋から一口水を含むと——おそらくそれは——プハーと声を漏らした。


「だって、あの夢をみてから、これっぽちも見なくなったし、全然思い出せないの。ケチケチしないで教えてよ」

「そうだなー。大体がお前の母ちゃんの詩でしか聴いたことがないからなぁ。おう! そうだ!」

 そう云ってグラドは掌で膝を打つと、飯を食いながら話してやるといい、川縁に馬を進めると、そこで火を起こした。川に釣り糸を垂らしたグラドはどんな手品を使ったのか、二人で食べる分だけの魚をすぐさまに釣り上げると火にかけ、そこに塩を振った。


「ねー、まだぁ」


 ミラは魚を催促している訳ではなくグラドが話をしてくれると云った、アッシュの話を催促しているのだ。それにグラドは「ちょっと待てよ」と焼き魚の仕込みを済ませた。水袋からまた口に水を含むと——おそらくそれは——プハーと声を漏らした。

「よし、落ち着いた落ち着いた」と、ずんぐりむっくりはそう云うと右腕で口を擦り付けようやっと本題に移った。

 グラドが話したのは、<六員環ろくいんかん>と題される物語の一部分だった。







 <六員環ろくいんかん>の舞台となる時代。

 その頃のフリンフロン王国は北からの脅威が鳴りを潜めてはいたが、南に隣接をするフォルダール連邦共和国との戦端が開かれていた。南の国境にほど近い城砦都市サンティエルは、その最前線となっていた。


 サンティエル戦線。

 それが国境付近に敷かれた戦場の俗称だった。

 東のブレイナット公国からの睨みもあり、共和国ソルダール国軍は静観を決め込んでいたためにクロダールは比較的に防衛線が手薄なサンティエルからの進軍を試みた。

 しかし、それは誤算であった。

 サンティエルの悪魔——ハインリヒ男爵は屈強な双剣士であり、背中から生やした八本の黒鋼の腕を魔術で振るう優秀な魔術師だ。彼は単騎で数千のクロダール軍を半壊させると、押し返したのだ。


 サンティエル城砦に居を構えるハインリヒ男爵は名実共に<英雄>だと称された。

 それから散発的に行われた連邦からの威力偵察に、何度もの戦線突破回戦は、すべてハインリヒ男爵とその部隊の活躍でクロダールが背中に土をつけられる格好となる。予想外の展開にクロダール国軍は、その防衛線をサンティエル戦線と呼び、ハインリヒをサンティエルの悪魔だと畏れ、呪ったのだ。


 城砦都市サンティエル。

 常勝無敗のハインリヒが治める都市であるにも関わらず、どこか辛気臭い空気が漂っていた。南の土地柄の流れを汲む煉瓦造りの家屋が多くひしめき合う城砦都市は、その機能を十分に発揮するため、他の都市と比べると砦の裾野は狭く小さく纏められている。

 それが故に街のあちこちの通りでは頭上に石橋が渡り方々の区画を繋いでいた。さながら立体迷宮のように入り組んでいる。そういったこともあり、昼間であっても影が多く支配する街であるのは確かだ。

 が、しかしだ。それでもあったとしても街の雰囲気は淀んでいるといってよかった。


 北門を潜りサンティエル入りをした、黒衣の戦士は先ほどから気になることがあった。

 しばらく街を練り歩いてみても、女や子供の姿が極端に少ない。街で見かけるのは昼間っから呑んだくれている軍属か、何処かからか雇われてきた年老いた農家。街の片隅で物乞いをする世捨て人。そんなものばかりなのだ。

 街の中ほどにある水洗い場には、洗濯をする女の姿も、それを遊んで待つ子供の姿もない。

 市場らしき通りを歩いてみても、食材を求める姿でさえもそうだった。そう、まるで活気が無い。

 黒衣の戦士はそれを怪訝に思いながら、通りに一瞥をくれ酒場の扉を押し開くと、フラリと滑り込むように中に入った。


 昼間から呑んだくれた数名の傭兵風情が、黒衣の戦士を一瞥した。それまで大声でがなりあっていた傭兵たちは水を打ったように静まり、見覚えのない黒衣の戦士を値踏みする。深々と被ったフードを取り払った戦士は店のカウンターに腰をかけると「エール酒をくれ」と何枚かの銅貨をその場に置いた。背中に担いでいた黒々とした両手剣をカウンターに立てかけ、左腕の黒籠手に右手の革手袋を外すと、木製のジョッキになみなみと注がれたエール酒が運ばれた。

 戦士は一気にそれを呑み干すと「もういっぱい貰えるか?」と店主に静かに云った。それに、禿頭の店主は「おう」と短く答え、すぐにジョッキを取り替える。


「訊ねたいことがあるのだが、いいか?」戦士はそう云うと更に数枚の銅貨をカウンターに置いた。

「答えられることは少ないぜ」と店主は云うと、戦士の肩越しに見える傭兵達をチラリとみると「それで、何が訊きたいんだ?」と続けた。カウンターで鈍く輝く銅貨を回収することは勿論、忘れていない。


「ああ、簡単な質問だ。ハインリヒってのはどんな奴だ?」

「なんだって?」店主は目を丸くすると身体を乗り出し戦士に顔を寄せた。

「悪いことはいわねぇ、男爵のことを嗅ぎ回るのはよしな。素っ首斬り落とされるぞ」

「この辺じゃ、英雄様なんだろ?」黒の戦士は、そう云いながらジョッキの縁をトントンと指で叩いてみせる。店主はため息をつくと三度目のジョッキ交換をし「騒ぎはごめんだぜ。これを呑んだら出て行ってくれ」と小声で云った。黒の戦士は、お世辞にも整ったとはいえないぼさぼさの黒髪を軽く掻きながら銅貨を店主に手渡し、ジョッキに口をつけた。


「そうか、そんな感じなんだな。じゃあ、質問を変えるが女や子供がこの街に少ないのはどうしてだ? 疎開でもしているのか?」

 黒の戦士がそう云うと店主は「いわんこっちゃないぜ」と困り果てた声を漏らす。

 すると戦士は背後に気配を感じた。


「おい、黒いの。お前何を嗅ぎ回っているんだ」

 背後に立ったのは先ほど戦士を値踏みした傭兵たちだった。

 腰にぶら下げた片手剣を抜き放ち、黒の戦士の肩にそれを置く。ヒイインと凍てつく音が耳元で聞こえるようで、その刃が上等であることを窺わせた。黒の戦士は、それに気を止める訳でもなく店主に「それでどうなんだ?」と眉をひそめる。しかし店主は「勘弁してくれ、煽らないでくれよ。店の中で暴れられたらたまったもんじゃないぜ」と肩をすくませる。


「ああ、そうだな。なめくさった態度はよくねぇな」

 傭兵の——顔の半分が焼け爛れた男は、皮膚を硬くした頬をヒクつかせ辿々しくそう云った。黒の戦士はそれに「そうか」と短く答え、懐に手を突っ込むと、カウンターに金貨を数枚投げ捨てた。


「なんだよこれは」と、店主は甲高い音を立て転がった金貨を手にとった。

「修繕費に営業補償だ」


 そう云った黒の戦士は勢いよく膝裏で椅子を叩きながら立ち上がると、それにヨロけた傭兵の片腕を取った。

 そのまま肘を逆に折りつけ関節を砕いた戦士は傭兵の腹に蹴りを見舞う。

 堪らず身体を浮かせた火傷の傭兵は、くの字になりながら後方に吹き飛ばされた。傭兵がたむろするテーブルに激突しそれを割ると、その取り巻きは「野郎!」と戦士に斬りかかる。店内は騒然とし次の瞬間には店のあちこちで悲鳴があがり、騒動に無関係のものは皆、店外に転がり出ていった。

 黒の外套をひるがえし襲いくる三本の軌跡を妨げた戦士は、瞬く間に身体を沈め疾風の速さで傭兵の脚元に蹴りを見舞う。これに体勢を崩し転げた傭兵は、黒の戦士の次の一撃——強烈な下段撃ち下ろしに意識を飛ばした。

 残された二人の傭兵は片手剣を正眼に黒の戦士との間合いをジリジリと計る。

 戦士はそれに臆することなく、隙を作ることなく、冷たい視線を外すことなく、その間合いを詰めて行く。


 傭兵は背中に汗が流れるのを感じた。


 目の前の戦士の誘うようなに幾度も斬りかかろうと足を踏み込もうとする。しかしその瞬間、自分の顎が砕かれる姿が頭をよぎるのだ。予知とかそういう類ではない。それは戦士の黒瞳の鋭さが発している警告のようなものだ。それを感じるたびに嫌な汗が背中をつたうのだ。頭はのぼせ、柄を握る手はすっかりと冷たくなっている。極度の興奮と緊張が傭兵達を苛んだ。


「どうする。まだやるか?」戦士は顎をクイっとあげ傭兵たちに最後の勧告を投げた。

「わかった。勘弁してくれ」

 傭兵二人はそう云うと剣を投げ捨て両手をあげた。



 傭兵達はバツが悪そうに寝転んだ仲間を担ぎ店の外に駆け出して行くと店主はいそいそとカウンターから出てきて戦士の横にならんだ。そして、ぐるりと店内を見回しながら、なにやら指差し数を数える。


「机が三、椅子が六脚」と店主。

「なんの数だ」

「あんたがぶっ壊したうちの備品だ。床にも穴が開いちまったな。こりゃ酷えもんだぜ」

 黒の戦士はそれにフンと鼻を鳴らし「金貨五枚じゃ足りないとでもいうのか?」と、声を低く吐き捨てるとカウンターに戻った。

「いいや、二枚多いぜ」と店主は、金貨を弾くと戦士はそれを器用に受け取った。

「なんだ随分と高価な備品なんだな」

「よく云うぜ。営業補償も込みなんだろ? こんなもんだぜ。それに、お前さんの一泊分の料金も入っているから、全部で金貨三枚ってわけだ」


 戦士が渡したのはフリンフロン金貨だ。

 五枚もあれば二ヶ月はゆうに暮らせるほどの価値がある。そのうちの三枚というのだからこの店に並ぶ机に椅子に店の何日ぶんかの営業補償というのは、相当に高価なものということだ。


 それに戦士は目を丸くし、小さく笑ってみせた。

 そして、カウンターに立てかけられた黒鋼の両手剣を背負うと、表情をすっと変え「それで俺の一泊分ってのはどういうことだ?」と店主を怪訝な目で捉えた。


「頼みがある」

「なんだよ、出ていけとか泊まっていけとか」

「あんた、アッシュ・グラントだろ? 途中で気がついたぜ。宵闇の鴉、だろ?」

「だったらどうなんだ」

「頼みたい事があるんだ。ハインリヒのことも全部話す。どうだ? 飯でも喰ってゆっくりしていってくれよ。頼みをきいてくれるかどうか、あんたが決めればいい。ゆっくり話をする時間をくれ」

「わからねえな。俺がアッシュだって保証はどこにある」

「ああ、だったら、そうで無くても良いさ。あんたがアッシュかどうかは、どうでもいいぜ。あんたの腕っ節に用があるんだ」

「喰えねえ親父だな。訊くだけきいてやるよ」

「そうか! よし、じゃあ、お前さんの部屋は二階だ。で、宿泊するには台帳に名前を書いていってくれ」

 店主は狡賢く笑いそう云うと戦士に片目を瞑ってみせ、振り返ると「ティルザ! 部屋を用意してくれ。ラルス、市場で食材の買い出しに行ってくれ」と店主は、意気揚々と小走りにカウンターへ戻った。戦士は苦笑いをすると、カウンターに出された宿泊台帳へ名前を書いた。


「ほらな、あんたアッシュ・グラントじゃねえか」

 禿げ上がった頭を掻きながら嬉しそうに店主は云うと、台帳をカウンター下に戻した。

「なあ、宵闇の——」

「親父、その通り名は云わないでくれ」

「なんでだよ?」

「好きじゃないんだ。勝手についてた通り名だからな」

「そうなのか」

「ああ、そうなんだ」


 アッシュ・グラントは、やはり苦笑いをすると先ほど呼ばれていたティルザ——店主の娘だそうだ——に案内され二階の宿泊部屋に案内された。


 綺麗な茶髪を頭の上で結ったティルザは、随分と若そうだった。

 アッシュは街の印象を心で反芻していた。しかし女に歳を訊くのもなと思い、訊ねようとした言葉を呑み込んでいた。

「なにか?」と、そんな様子のアッシュに笑いかけ小首を傾げる。

「いいや、なんでもない。案内ありがとうティルザ」


 アッシュはそう云い部屋の扉をゆっくりと閉めた。




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