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何もかも忘れるための旅なのに、君に見せたいものばかりだ
何もかも忘れるための旅なのに、君に見せたいものばかりだ
菊池まりな
恋愛現代恋愛
2025年07月14日
公開日
6,728字
完結済
恋人・美月を突然失った建築士の隼人は、全てを忘れるために旅に出る。しかし、美しい景色に触れるたび「彼女に見せたい」という想いが溢れてしまう。旅の果てに知る、美月の失踪の真実──そして再会。忘れる旅はやがて、愛を刻む旅へと変わっていく。

第1話 手紙

雨の音だけが、部屋を満たしていた。


藤原隼人ふじわらはやとは、差し出された一通の手紙を見つめていた。便箋の角が少し湿っているのは、封を開ける前に、彼が指先で何度もためらったからだ。


美月の文字だった。柔らかく、けれどどこか覚悟のにじむ筆跡。

たった一行だけだった。


「私はもう、あなたの隣にいられません。」


なぜ、という問いはもう何度も繰り返した。理由を求めて、過去のやり取りや彼女の表情、声の揺らぎまで思い出し尽くした。

それでもわからなかった。どうして、彼女は何も言わずに消えてしまったのか。


美月がいなくなってから、半年が経った。


仕事に没頭することで忘れようとした。夜ごと酒に逃げもした。

けれど彼女の不在は、隼人の生活の隙間という隙間に染み込んでいた。朝食の湯気の向こう、通勤電車の窓の外、設計図の余白──気づけば、彼女の影を追っていた。


ある日、机の上に開いたノートの片隅に、彼は無意識に書いていた。


「全部、忘れたい。」


けれどそのすぐ隣に、こうも書かれていた。


「……でも、君を知らなかった自分になんて、もう戻れない。」


自分でも、どちらが本音かわからなかった。

ただひとつ確かなのは、ここにいても、何も変わらないということ。

だから隼人は、旅に出ることを決めた。あてもなく、ただ遠くへ。

美月の記憶から逃げるように。あるいは、もう一度、自分自身を見つけるために。


彼は荷物を詰める。必要最低限の衣類と、旅の記録を書くためのノート。そして、美月が残した手紙。

それだけをリュックに詰めて、雨上がりの朝、静かに扉を閉めた。


始まりは、終わりに似ていた。

でもこれは、忘れるための旅。


──のはずだった。


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