雨の音だけが、部屋を満たしていた。
美月の文字だった。柔らかく、けれどどこか覚悟のにじむ筆跡。
たった一行だけだった。
「私はもう、あなたの隣にいられません。」
なぜ、という問いはもう何度も繰り返した。理由を求めて、過去のやり取りや彼女の表情、声の揺らぎまで思い出し尽くした。
それでもわからなかった。どうして、彼女は何も言わずに消えてしまったのか。
美月がいなくなってから、半年が経った。
仕事に没頭することで忘れようとした。夜ごと酒に逃げもした。
けれど彼女の不在は、隼人の生活の隙間という隙間に染み込んでいた。朝食の湯気の向こう、通勤電車の窓の外、設計図の余白──気づけば、彼女の影を追っていた。
ある日、机の上に開いたノートの片隅に、彼は無意識に書いていた。
「全部、忘れたい。」
けれどそのすぐ隣に、こうも書かれていた。
「……でも、君を知らなかった自分になんて、もう戻れない。」
自分でも、どちらが本音かわからなかった。
ただひとつ確かなのは、ここにいても、何も変わらないということ。
だから隼人は、旅に出ることを決めた。あてもなく、ただ遠くへ。
美月の記憶から逃げるように。あるいは、もう一度、自分自身を見つけるために。
彼は荷物を詰める。必要最低限の衣類と、旅の記録を書くためのノート。そして、美月が残した手紙。
それだけをリュックに詰めて、雨上がりの朝、静かに扉を閉めた。
始まりは、終わりに似ていた。
でもこれは、忘れるための旅。
──のはずだった。