「――相変わらず、飽きない光景だ。人間が必死に積み上げた秩序が、脆く崩れる様というのは」
肩上に佇む、小さな灰色のネズミが冷ややかに嘲笑った。
身を切る風が、煤けた耐衝撃コートを、フードを激しく揺らす。
ここは札幌の中心部、高層ビルの屋上。眼下に広がる夜景を、私はただ見下ろしていた。
常人ならば目もくらむ高さ。だが、瞳に映るは、色とりどりの灯かりではない。
今夜の光景はいつもと違う。
街のシンボルであるはずの、さっぽろテレビ塔。その展望台から発される汚濁めいた気配と、断続的な明滅。
麓である大通公園には、無数のパトカーの回転灯が騒ぐ。だが、警官隊は包囲するだけで、手出しできずにいた。
「陽介、”観測”を始める。
ネズミが始まりを告げる。私の唯一無二のパートナーである、テイラー。
私は「是」と応える代わりに、しん、と瞼を閉じた。
深く深く、息を吸う。膨らむ肺、流れる血、飲み下される唾液。
途端、私の意識が無数の点となって、夜の札幌に拡散。
路地裏のゴミを漁るもの。寒々とした配水管を駆け抜けるもの。賑やかさに溢れる地下街に潜むもの。
街に生きる数万のネズミ。そのすべてが私の眼となり、耳となる。
パートナーであるテイラーを介し、数多の脳と『私』を並列接続することで発生する、限定的ながらも神の如き視点。
思考加速、拡張。
脳内に展開されたのは、襲撃を受けるテレビ塔の立体地図。
『王よ、我が王。
頭に響く念話は、テイラーへ宛られたもの。
『
送られてきた映像思念は、テロリストの犯行。
自動小銃で武装した男たちが、統率の取れた動きで包囲網を牽制。
障壁を破壊する異能者『
『展望台にいるのは、ただのニンゲンだけではないぞ。
床に伏せさせられた人質に、顔を青ざめさせながらも、毅然としてテロリストを睨みつけている少女。
金髪に青い瞳。……見覚えはないはずなのに、私の何かが警鐘を鳴らす。
(あの娘を守らなければ――)
なぜか過ぎった思考を、頭を振り中断。落ち着け、今は……。
「武装犯に、異能使いが混成した部隊か。なるほど、現代戦とはかくあるべきなのだろうね。実に合理的だ」
状況を分析する私の声は、内心の動揺を誤魔化すのに成功していた。同時に、肩上のテイラーが尊大に鼻を鳴らす。
「ふん、小賢しい真似を。余が盤名を指し、其方が執行する。我らの前に、あの程度の雑兵など取るに足らんわ。――行け、陽介」
合図。躊躇うことはなかった。
軽く、蹴る。宙へと身を投げ出せば、肉体に感じるG、視界が反転する。
無数の光、網膜を焼き付けながら上空へと遠ざかる。街の喧騒も、風の音さえも、落下する私から乖離していく。
ああ、このまま終わるのも悪くないか。ほんの誘惑。
「――
だが、私の身体は生存へと動き出す。幽かな発声は、落下速度に搔き消されるも、虚空に淡く足場が形成。
つま先が触れると、凄まじい反発力が生じた。落下によって蓄積した位置エネルギーが、運動エネルギーへとロスなく変換。ベクトル転換し、そのまま推進力へ。
物理法則を嘲笑い、私の身体は砲弾となって、テレビ塔へと飛翔する。
今や、この街すべてが、私のための狩場だ。立体的な遊び場だ。
「続けて、
『我が王、最適ルートを算出、投影する』
テイラーの脳――否、街中に散らばる数万の脳が並列処理した演算結果が、網膜に映し出された。青白いライン、立体な
なぞるように、私は踊る。手足を跳ねつかせ、伸ばし、曲げ、飛ぶ。
壁を蹴った。看板の縁を足場にし、ネオンサインの煌めきをかすめ飛ぶ。
街行く人々は、空を駆け抜ける小さな影に気付くことすらない。彼らにとっては、騒動の上を飛ぶ、夜鳥の幻に過ぎないのだから。
◇
地上90.38m。
展望台内は、銃声と魔術の炸裂音が交互に響き、焦げ臭い匂いが充満。テロリストが、罵声と怒号振りまいていた。
「こちらの要求を大人しく聞け、見せしめにガキをぶち殺すぞッ!」
うずくまる女性が子供を抱きかかえ、血を流し伏せる護衛たち。暴力を振るわれ、鼻血を流す政府高官。
恐怖の最中。悪漢たちの眼先にいたのは、金髪碧眼の少女。アンジェリカ・スキルヴィンク。
「殺す、なら……わたし、殺しますっ! 騎士の誇りに懸けて!」
非武装でも、蒼い瞳は決して屈していなかった。
人々を庇う気高さが、男たちの神経を逆なでする。片言で話す、異界人。
「ああ、異世界から来たガキってのは、本当に不愉快だなっ。てめぇらのせいで、俺は仕事を失ったんだ!」
男が銃床で殴りつけようとした、瞬間――展望台へなだれ込んできたのは、無数の赤い眼光。
「な、なんだっ!?」
それはさながら津波か、嵐か。
数百、いや千は下らないであろうネズミの群れ。鋼鉄を噛み砕く牙、魔術付与を伴う獣たちは、津波のようにテロリストたちへと殺到。
「うわあああ!なんだこいつらっ!」
「ひるむな、掃討しろ!ただのネズミだ!」
リーダー格の男が叫び、統率の取れていたはずの部隊は、突如現れた害獣の群れに対応を迫られる。
自動小銃が火を吹き、熱閃光がネズミたちを焼き払うが、数は一向に減る気配を見せない。
だからこそ、誰も気づいていなかった。騒ぎの波に紛れ、侵入した一つの影があったことを。
「やあ、こんばんは。パーティの途中に失礼するよ」
声の主を認識した時には、遅かった。
――血しぶきが舞う。
「私の手持ちに、招待状はないのだけれど。まあ、かまわないよね。……君たちも招かれざる客なのだから」
降り立ったのは、フードを被った煤けたコートの少年。
振るう刀は、伸縮自在。魔力障壁と防弾チョッキをバターの様にスライス。人質に近かった男たちから順番に、首や手足から鮮血が吹き出す。
「しっ、侵入者だぁあああっ!? あぶっ!?」
遅れて、展望台の強化ガラスが、内側から弾けるように粉々に砕け散った。あまりの斬撃の鋭さに、男達の障壁ごと斬り飛ばしていたのだ。
一瞬の静寂。
「ふむ、地獄一歩手前というところであるな。悪くないぞ」
肩に乗るネズミが、キュキュキュと嘲笑う。
(――なんだこれは、
場にいた誰もが息を飲む。銃口を向けるテロリストたちですら、驚愕に凍り付いていた。
リーダー格の男――銃剣付き
「なんでもいい、こいつを全員でハチの巣にしてやれっ!」
銃弾と魔力弾の豪雨が、少年に殺到する。
「無駄だ。其方の布陣、既に二手遅れているぞ」
少年は既に、床を蹴り、銃撃の網をくぐり抜ける。
平然と、テロリストたちの渦中へと踊り出た。行き交う火線が同士討ちを誘発し、陣形を乱す。
「そこだっ!」
行きかう銃口、火線が交差。躊躇われる引き金。
そのまま武器を持つ腕だけが、黒い刃によって正確に斬り飛ばされる。がら空きになった胴体に、小手から放たれた電撃。
「ぐぎゃっぁああああっ」
「ああ、子供もいるんだったね。……私はどこまで考慮するべきなのだろう」
明後日に飛ぶ腕。無力化した男を盾に、少年は次の標的へ。 陽動に暴れていたネズミの群れが、連動して一斉に散開し、テロリストたちの視界をかく乱。間に、また一人倒れた。
「クソ、どこいった。あのガキ!」
「バカやろうっ、上だっ!」
「――は?」
テロリストが見上げた先。
少年は壁を蹴り、蜘蛛の様に天井に張り付いていた。逆さまの視界のなか、少年は銃を乱射する男の真上から飛び降り、刃を突き立てる。
「記憶と視野に、R15指定は無理だろうね。この後、メンタルケアを受けることを薦めるよ」
たまたま近くにいた人質の母子に、声を掛ける。あまりに非現実的でそぐわない声色だった。
次々に倒されていく
「ああぁあ! クッソ、しゃらくせぇっ! 人質も仲間も知ったことか!」
「コラ、待て!」
リーダー格が止めに入るが、激高した
目にした少年は、呑気にぼやいた。
「おや、もしかして花火の時間なのかな?」
火球が爆発すれば、人質はおろか、この展望台フロアそのものが吹き飛ぶだろう。それだけのエネルギーはある。が、余裕を崩さない。
「喰らいやがれっ、地獄で後悔しろっ!」
「捧げものか……よかろう。余が、喰らってやる」
しかし、ネズミはニヤリと嗤った。そう、間違いなく、少年の肩に乗るネズミは、口を三日月に開いたのだ。キュキュキュ、と音を立てて。
放たれるはずの火球は、くるり、と方向転換。
「あ?」と間抜けな声を上げた、
そのまま男自身に直撃し、凄まじい爆炎となって彼を飲み込んだ。炸裂する熱気は、指向性を伴い、テロリストたちの陣だけを吹き飛ばす。
「――これぞ魔術の簒奪。フフン、面白い見世物であったぞ、道化」
爆炎に巻き込まれた銃剣持ちのリーダー格が、床に這いつくばったまま呻く。
「うう……くそ。なんだ」
「おや、元気そうじゃない。よかった。警察も主犯格がいないと困るもんね」
「き、貴様ら……一体、何者だ…!?」
「何者? そうだなぁ。……通りすがりのネズミと、そのお伴だよ」
穏やかな陽介の声と共に、肩の上の王が最終通告を下す。
「しかし、罪には罰を。其方には、死の安らぎは与えぬ。故に、永きに渡る恐怖をくれてやろう」
ネズミの瞳が妖しく真っ赤に輝くと、主犯格の男は泡を吹いて気絶した。
静寂が戻った展望台に、煤けたコートの少年だけが静かに佇んでいる。
人質だった娘、アンジェリカは、呆然と目の前の光景を見つめていた。
他の人々も、何が起きたのか理解できずにいる。圧倒的な暴力が、さらに圧倒的な力によって、鎮圧された。
ただ、その事実だけがそこにあった。
少年は、人質たちに一瞥もくれることなく、床に崩れ落ちる政府高官に歩み寄る。そのままボソボソと耳元で囁き始めた。
「……だから、よろしくね」
政府高官は目をぱちくりさせて、反応出来ていない。
そこに、混乱したままの金髪碧眼の少女アンジェリカは、かろうじて声を絞り出す。
「あ……あなたは、なぜ、だれ、ですか?」
少年はゆっくりと振り向いた。フードの奥深く、表情を窺い知ることはできない。ただ、闇奥の二つの赤い光点がこちらを捉えている。
得体のしれない圧。だが、彼の口元は僅かに緩んだ。
「――無事ならよかった」
少年は、肩の上のネズミに何かを告げると、身を翻した。
先ほどテロリストの攻撃で粉々になった、展望台のガラス窓の縁に立つ。
彼は夜闇へと、身を投げる。まるで空を歩くかのように軽やかに。すぐにビルの谷間へと姿を消した。
残されたのは、無力化されたテロリストたちと、呆然とする人質、そして――。
「待って!ネズミの……王……ッ!」
遅れて、警察の特殊魔術化部隊と、警邏騎士団の突入を示す轟音。
伸ばしたアンジェリカの手が、虚しい。
そう、残されたのは、『ネズミの王』という、新たな都市伝説が始まった事実だけだった。