玄関のセンサーライトがぱっと点き、漆黒の夜空を稲光が切り裂いた。
星野美友紀はドアノブをぎゅっと握ったまま、呆然とその光景を見つめていた。
中島陽介が夏川明佳の肩にもたれかかっている。黒い学生服には酒の染みが広がり、ゆるく結んだネクタイの下からは鎖骨がのぞいている。
彼は伏し目がちで、濡れた前髪が額に張り付いていた。いつもの気品や距離感はどこにもなかった。
「美友紀、どいてくれる?」
夏川明佳はわざとらしい甘い声でそう言い、眉を上げて挑発するような表情を見せる。「陽介くん、私の代わりにたくさん飲んでくれたから、送ってくるしかなかったの。」
星野美友紀が動かないのを見て、夏川明佳はそのまま中島陽介を支えて中へ入っていく。
香水と酒の匂いが混じって鼻をつく。星野美友紀はこみ上げる吐き気を必死でこらえ、半歩後ずさりした。夏川明佳が中島陽介をソファに寝かせるのを見届ける。
「後はお願いね。」
夏川明佳は名残惜しそうに中島陽介の髪を整え、立ち去ろうとした瞬間、手首を掴まれた。
中島陽介はうつろな目で、頬を赤らめ、かすれた声でつぶやく。「行かないで……」
星野美友紀は夏川明佳を見た。やはり彼女は一瞬驚いたあと、勝ち誇ったように微笑んだ。
「誤解しないでね、美友紀。陽介くん、酔って訳の分からないこと言ってるだけよ……」
夏川明佳がいつ、どうやって出ていったのか、美友紀は覚えていなかった。
家に二人きりになると、星野美友紀はゆっくりと中島陽介のそばに歩み寄った。
生徒会長として輝いていた彼も、どん底から立ち直った姿も見てきた。それでも、こんな無様な彼を見るのは初めてだった。
制服のボタンを外そうとしたその時、黒い革の財布が床に落ちた。
人には、時に予感のようなものがあるのかもしれない。
授業中に教師に指名される直前、胸の奥をかすめるあの微かな気配のように。
今の星野美友紀も、まさにそんな気がした。
開けてはいけないと分かっていながら、手が勝手に動き、財布の内側を見た瞬間、息が止まり、心臓の鼓動が耳をつんざいた。
――十八歳の夏川明佳が、白いワンピースで桜の木の下に立ち、花のような笑顔を浮かべている。
その写真は、かつて夏川明佳を一躍有名にしたものだった。写真の右上には、万年筆の文字で「心の中の白い月」と四字が刻まれていた。
いつの間にか雨が静かに降り始め、中島陽介のうわごととともに窓を叩いていた。
星野美友紀は無意識にお腹に手を当て、この新しい命の訪れが、もう嬉しくはないのかもしれないと思った。
和室のダイニングに入ると、暗闇の中、蝋燭の明かりだけが机の隅を照らしていた。白い紙がその光に照らされ、ひときわ眩しく映る。
手に取った妊娠検査の結果は、力を込めすぎて紙がくしゃくしゃになっていた。障子越しにソファで眠る中島陽介を見やり、自分が滑稽でたまらなくなった。
愛を注げば、彼の心を手に入れられると思っていたが、夏川明佳が振り返るだけで、自分の全ては無意味になるのだと今さら気付く。
検査結果に記された小さな命の印を見つめ、涙があふれた。くしゃくしゃになった紙は、ゴミ箱に勢いよく投げ捨てられた。
壊れた家庭に生まれ、両親の不仲に苦しんだ美友紀は、愛されることを強く求めていた。
自分の子どもには、同じ思いをさせたくなかった。
書斎には、数日前に中島雅子から渡された離婚届が置かれている。
最初は強く拒んでいたが、今はこれが互いの解放かもしれないと思えた。
ペンを取り、「中島美友紀」と迷いなく署名し、手早く荷物をまとめて、始発のANA便を予約し、家を後にした。
夜明け前の羽田空港は、行き交う人々で慌ただしい。
窓の外、遠ざかる東京の夜景を見つめながら、星野美友紀の胸は波立っていた。
目を閉じて心を落ち着けようとするが、再び開けた瞬間、機体は激しく揺れた。
「お客様……」客室乗務員の声はかすれ、「ただいま気流の乱れにより、キャビンはしばらく揺れが続きます。すぐにお席に戻り、シートベルトをお締めください……」
「必要であれば、ご家族やご友人にご連絡を……」
遺言とは言われなかった。
だが、その震えた声が全てを物語っていた。
スマートフォンを開き、空っぽのLINE画面を見つめ、中島陽介とのトーク画面に入っては消し、結局一言も残さなかった。
機体が地面に急降下するその刹那、星野美友紀の脳裏に中島陽介の顔が浮かんだ。
あの結婚は、彼女が必死にしがみつき、手段を選ばず手に入れたものだった。
こんな結末は、自業自得だ。恨む資格などない。
ただ、これが新しい始まりだと思っていたのに、まさか人生の幕引きになるとは思わなかった。
中島陽介。
もし来世があるなら。
今度こそ、出会いませんように――
……
「やったな、星野! ついに中島先輩の副弁士になったじゃん!」
「そうだよ、これで学園のキング様にしっかり取り入ったな!」
「もし本当に付き合うことになったら、絶対居酒屋でご馳走してよ!」
「……」
ディベート部の部室は、騒がしい声で満ちていた。
クスノキ越しに射し込む明るい日差しと、そよ風に揺れる葉の音、うるさい蝉の声が混じり合い、どこか現実感が薄れる。
ぼんやりした頭でふとスマホを見ると、画面には平成三十一年七月――十七歳の夏が映し出されていた。
「部長、ディベート部を辞めたいです。」
星野美友紀は静かだがはっきりとそう口にした。瞬間、部室は水を打ったように静まり返った。
「頭おかしいんじゃない?」
「そうだよ! 一年も追いかけてやっと中島先輩の副弁士になったのに、もったいなくない?」
「どうせ嘘でしょ! あのストーカー気質で、やめるなんて絶対無理だよ!」
「星野さん、もう一度考え直したら……」
「……」
誰も信じてくれない。
星野美友紀は窓の外から目を戻し、机の上のスマホに表示された令和元年の日付を見て、そっと微笑んだ。
「ごめんなさい、部長。」そう言ってバッジを外し、畳の上に置いた。「もう決めたんです。」
ディベート部の部室を出た瞬間、今までにない解放感があった。
もともと話すのが苦手な自分に、ディベートは向いていなかった。
それは、中島陽介との関係も同じだった。
本来、釣り合うはずがなかったのだ。
二階へ降りかけた時、ふと見覚えのある姿が目に入った。
白いシャツに制服のスラックス姿の少年が、凛とした足取りで階段を上がってくる。
ほとんど反射的に、星野美友紀は近くの教室に身を隠した。
なぜ彼と再び顔を合わせるのがこんなにも怖いのか、自分でも分からないまま、胸のざわめきが消えない。その時、目の前の光景に思わず固まった。
「君は……」
こめかみに白髪が混じる木下教授が、ずり落ちかけた金縁眼鏡を押し上げて目を細める。「星野……美友紀か?」