本能的に、星野美友紀は背筋をピンと伸ばし、思わず「はい」と返事をした。
教室に満ちていたざわめきは一瞬で消え、視線が一斉に彼女へと集まる。
白髪の木下教授が、杖をつきながらゆっくりと教壇から立ち上がり、星野の方へと歩み寄ってくる。
星野は彼の皺だらけの目元を見つめた。気のせいかもしれないが、その深い皺の奥に、かすかな笑みが浮かんでいるように感じた。
「もう物理研究会はやめたんじゃなかったのか?」木下教授はしわがれた声で問い、じろりと彼女を見上から下まで見渡した。「太陽が西から昇る日もあるのか?今日は何の風の吹き回しだ?」
星野はドアにもたれ、そっと目を閉じた。心は沈みきっていた。
今ここで中島陽介に会うほうが、まだこの小さな老人と向き合うよりましだと思った。
木下教授の一言で静まり返っていた教室に、再びざわめきが広がる。
好奇心旺盛な学生が木下教授のそばに寄り、小声ながらも教室中に聞こえるような声で言った。
「木下先生、この子が、先生が言ってた“恋に溺れて学問を捨てた愚か者”ですか?」
愚か者……?
星野の耳が熱くなり、頬まで赤くなっていくのがわかった。
今すぐここから逃げ出したかった。ドアノブに手をかけたその時、背後から柔らかな声が聞こえた。
「もういいじゃないですか、木下先生。」男の低く落ち着いた声が響く。「あまり驚かせてしまうと、今度は僕が困りますよ。」
顔を上げると、渡辺雅彦が優しく微笑んでいた。
記憶の中のままの姿だった。白いシャツの袖を無造作にまくりあげ、きりりとした鼻筋に金縁の眼鏡。琥珀色の瞳が彼女を見つめ、どこか懐かしい笑みを浮かべている。
二人の縁は深い。幼い頃、両家は鎌倉で隣同士だった。大人たちは冗談半分に「将来は結婚させよう」などと言っていた。
もしもその後、父の事業が大きくなって東京へ引っ越していなければ——もしも母が再婚しなければ——
彼と再び会うこともなかっただろう。
名門私立校に転入したばかりの頃、義理の娘という立場で肩身の狭い思いをしていた彼女を、物理コンクールに誘い、自信を取り戻させてくれたのも渡辺だった。
けれど、あとのことは——今はもう思い出したくない。
「ディベート部も辞めたって聞いたけど?」渡辺は部室の休憩スペースへ彼女を案内し、ポカリスエットのペットボトルを手際よく差し出してくれた。
星野は素直に受け取り、何口か飲んでようやく頬の熱が引いてきた。
「渡辺くん、情報早いね?」
何しろ、辞めてからまだ数分しか経っていない。
「木下先生が気にしてる子だから、僕も気になるさ。」渡辺は自然な仕草でボトルを受け取り、真剣な目で彼女を見た。「それに、物理学界が逸材を失うのはもったいない。」
「そう、辞めたんだ。」星野は目を伏せ、苦笑いを浮かべた。「私には向いてなかった。」
休憩スペースは狭く、木下教授が横になれる小さなベッドのほか、ひとり掛けのソファと机があるだけ。
渡辺は向かいの椅子に腰かけ、じっと彼女を見つめた。「じゃあ、本当に自分に合うものを探してみない?」
「たとえば……また物理研究会に戻ってみるとか?」
空気が一瞬凍りついた。
「それは無理だよ。」星野の声はかすれていた。「もう、ブランクが長すぎる。」
言い終わらないうちに、休憩室のドアが勢いよく開いた。
白髪の小さな老人が、ふぐのように頬を膨らませて入ってくる。
「試しもしないで諦めるのか?昔、あんなに輝いていた君はどこに行った?」
木下教授の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「当時、私はもう引退してのんびり過ごそうと思っていたんだ。なのに誰が毎日“全国大会で金メダルを取る!”と叫んでいた?誰が“学界の中心になる!”と大見得を切っていた?あの言葉は全部秋田犬のエサにでもなったのか?」
星野は絶句した。
ぼんやりと、自分もかつてはそんなふうに輝いていたことを思い出す。
なぜあの光が消えてしまったのか——
手のひらに爪を食い込ませ、唇から血の味がにじむまで噛みしめる。すると、ごつごつした温かい手が、そっと彼女の拳を包み込んだ。
「一週間後、合宿だ。」木下教授の濁った瞳に光が宿る。「今回の関東大会のテーマは、君が一番夢中だった“量子もつれ”だよ。」
時間が数秒、止まったようだった。
星野の耳には自分の心臓の音しか聞こえなくなっていた。
「まずは資料を見てから決めてもいいんじゃない?」渡辺がタイミングよく、分厚い書類を彼女に差し出した。
A4の紙にびっしりと書き込まれた理論式。それは彼女にとって、見慣れたものだった。
周囲から見れば、たかが半年物理研究会から離れていただけ。しかし、本人にとってはまるで前世のように遠い時間だった。
指先で紙をそっとなぞる。
前回は辞めてしまったけれど、量子もつれの研究だけはやめられなかった。この頭に刻み込まれた知識とデータは、紙の上のどんな理論よりも先を行っている。
「もし、私がまた失敗したら……」
「何をぶつぶつ言ってるんだ!」木下教授は渡辺に声をかけた。「渡辺くん、今度の地区大会は君がチームリーダーだ。手持ちの資料は全部美友紀に渡して、しっかりフォローしてやってくれ。」
「もう歳だし、体が思うように動かん……」
木下教授は「さくらさくら」を口ずさみながら、軽やかに部屋を出て行った。星野にはその姿がとても「老い」とは結びつかなかった。
「うれしいことがあると、誰でも元気になるものさ。」渡辺が笑う。「あのとき君が部を辞めたとき、木下先生は東大の病院に一週間も入院してたんだよ。」
星野は言葉を失い、そっと紙を握りしめた。その指先に力がこもる。
それは渡辺への返事であり、自分自身への誓いでもあった。
「今度は、誰も裏切らない。」
帰り際、物理研究会の部室はもう誰も残っていなかった。
二人で桜並木の廊下を歩きながら、資料の一部について熱心に議論していた。あまりにも夢中になりすぎて、星野は危うく人にぶつかりそうになる。
顔を上げて謝ろうとした瞬間、相手の顔を見て言葉が詰まった。
「なぜ部を辞めた。」
問いかけは彼女に向けられたが、その視線は隣の渡辺に鋭く突き刺さっている。
中島陽介の放つ空気は鋭く、隣にいる渡辺と並んでも全く引けを取らない。
「彼女の得意分野じゃなかったから、仕方ないだろう。」渡辺は眼鏡を直し、中島に手を差し出した。「中島くん、よろしく。」
「僕が聞いているのは彼女だ。」中島は渡辺を無視し、冷たい視線を再び星野に向けた。「なぜ、辞めた?」