星野美友紀は、資料を握る指先が白くなるほど力を込め、喉が締めつけられるような感覚に襲われていた。
中島陽介の放つ冷気は、まるで氷の刃のようにその場の空気を一変させる。ただでさえ緊張している中、彼の低く冷たい声が耳元で響いた。「説明しろ。」
反射的に、美友紀は半歩後ずさりし、うつむいて激しくなる心臓の鼓動に耳を澄ませた。
「さっきも答えたはずですが?」渡辺雅彦が静かに彼女の前に立ちふさがる。「美友紀には向いていないから、やめただけです。」
中島陽介の視線は渡辺を越えて、まっすぐ美友紀を射抜く。「答えろ。なぜ部を辞めた?」
その口調に一切の妥協はなく、渡辺の存在など眼中にない様子だった。
彼の性格を知り尽くしている美友紀は、ここで答えなければ今日という日は終わらないと悟っていた。
深く息を吸い、彼の機嫌を損ねたままの視線を真っ直ぐ受け止める。
目が合った瞬間、心が揺れるのを抑えきれそうになかった。
さっきは一瞬だったが、今は至近距離で、目の前の中島陽介と、記憶にある彼の姿が重なり合う。
今の彼はまだあどけなさが残り、鋭さも和らいでいる。冷たい視線の奥には、前世で見たような複雑さはなかった。
何度見ても、この顔、この佇まい、この雰囲気に心を奪われてしまう。
「私には合わなかったから。」美友紀は顔をそらし、心のざわめきを必死で抑えながら、無意識に資料の端を指でなぞった。
「それに、あなたももううんざりしているのでしょう?」
鼻の奥がつんと痛み、涙がこみ上げてくる。視界がぼやける前に、彼女はぱっと踵を返し、その場から逃げ出した。
ちらりと陽介が手を伸ばし、何か言いかけたのが見えた。けれど、その様子に反射的に足が速くなる。
幸い渡辺が素早く腕を横に伸ばして、陽介の行く手を遮った。
「中島さん、美友紀はもうはっきり言いました。これ以上、無理をさせても意味がありません。」渡辺の声は穏やかながらも、きっぱりとしている。
「無理やり続けさせても、誰も幸せにはなれませんよ。」
美友紀の姿が消えていくのを見つめながら、中島陽介の冷気はさらに強まった。その視線が渡辺に向けられると、彼は小さく冷笑した。「俺と彼女のことに、君が口を挟む権利があるのか?」
「自分の問題を片付けてから言ったらどうだ?彼女がもしそれを知ったら、ここで俺と話す余裕なんてなくなるんじゃないか?」
渡辺の笑顔がぎこちなくなり、上げていた手を陽介に叩き落とされる。
中島陽介は渡辺を無視して、美友紀の後を追って歩き出した。
すれ違いざまに一度だけ振り返り、彼を見下ろして小さく鼻で笑った。
……
星野美友紀は教室の机に崩れ落ち、資料を握りしめたまま動けずにいた。
窓ガラスには赤く腫れた目が映り、青白い顔が光に照らされてより一層儚く見える。
まだ気持ちが落ち着かないうちに、小林茉里が勢いよく駆け寄ってきた。
「あんた!また中島様に何かやったの?」
スマホの画面が目の前に突き出された瞬間、美友紀の瞳孔がぎゅっと縮まる。
掲示板のトップに、赤い「爆」のマーク付きでスレッドが固定されていた。
煽るようなタイトルの下に、投稿者が貼った三枚の写真。
一枚目は、校舎の前で静かに立つ中島陽介。
二枚目は、渡辺と並んで歩き出す自分が、陽介に呼び止められているシーン。
そして三枚目……
美友紀の手が宙で止まる。
投稿者の撮影のタイミングは見事というほかない。
逃げ出す直前、陽介が手を伸ばして引き止めようとした瞬間が、そのまま切り取られていた。
思わず画面に映るその手に指が触れる。次の瞬間、慌てて画面をスワイプした。
そこに並ぶのは、罵詈雑言の数々。
「星野ストーカーはいつになったら中島様を諦めるの?」
「鏡見てこいよ。顔以外、どこが中島様にふさわしいっていうの?」
「他の男と歩いてるとか、まさかの駆け引き?」
「その手に乗るほど、中島様は単純じゃないから!」
「作戦がどうとか関係ない。中島様が本当に気にしてるのは……」
「討論部の第二反論者が直前で逃げたら、誰だって問題視するよ」
「星野ストーカー消えろ星野ストーカー消えろ星野ストーカー消えろ……」
……
覚悟していたつもりでも、これらの言葉を目にすると、胸が締めつけられる。
気にしないなんて、できるはずがない。
誰だって、こんな悪意に無関心ではいられない。
ただ、以前は自分があまりにも必死で、周囲の目を気にしている余裕などなかった。
でも、もう終わったこと。
スレッドを閉じた直後、小林茉里からのメッセージ通知が99件以上も溜まっているのに気づく。
無意識に開くと、そこには目を覆いたくなるような罵倒の嵐。
眉をひそめてよく見ようとした瞬間、茉里が勢いよくスマホを取り上げた。
「ちょっと!人のスマホ勝手に見ないで……」
「ごめん。」美友紀が先に謝る。
その一言に、茉里は言葉を失った。
「美友紀、私は責めてるんじゃないよ……」
「茉里。」美友紀はそっと彼女の手を握る。「これからは、私のために何も言わないで。」
感動してくれると思ったのに、茉里は逆に涙ぐんだ。「どうして?もう私は一番大事な友達じゃなくなったの?」
「そんなことないよ。」美友紀は手に力を込める。「茉里が一番大切だから、これ以上、私のことで傷ついてほしくないの。」
「じゃあ、美友紀が傷つくのは見ていられないよ!」
「何が傷つくって?」
姉妹のようなやり取りをさえぎるように、背後から冷たい声が響いた。
美友紀の背筋が一瞬で硬直する。
振り向くと、もっとも会いたくなかった陽介がそこに立っていた。静かに彼女を見つめている。
中島陽介の近くに立つと、あの冷たい杉の香りが一気に鼻を突き、思考が止まる。
「な、なんでここに……」
耳まで真っ赤になり、茹でたエビのように体を縮める。
「ねえ、どういうこと?」加瀬敦司が面白がって近づいてきた。「そもそも中島様を追いかけて、このクラスに来たんじゃなかったの?」