星野美友紀の前世の記憶が、ようやくゆっくりと蘇ってきた。
彼女は、彼と同じクラスだったことすらすっかり忘れていた。
中島陽介は、周囲の声など気に留める様子もなく、じっと美友紀を見下ろしている。その存在感は圧倒的で、周りの空気まで重くするようだった。
「どこを怪我した?」と、低く静かな声。逆らえない威圧感がこもっている。
美友紀はとっさに視線を外し、手のひらに爪を立てながらも平静を装った。
「あなたには関係ないわ。」
その言葉に、中島は眉をひそめ、周囲の空気がさらに重くなる。
加瀬敦司が空気を読んで、中島の袖をそっと引きながら小声で促した。
「もうすぐ授業が始まるよ。席に戻ろう。」
美友紀はその言葉に救われた気分で、慌てて資料を机に押し込み、うつむいたまま教科書を整理するふりをした。
彼らが離れていくまで、指先の震えが止まらなかった。
ほどなくして先生が教科書を持って教室に入ってくる。
その授業中、美友紀の頭の中は陽介のことばかりで、全く集中できなかった。
彼はいったい何を考えているのだろう?
自分が追いかけるのをやめた途端、なぜ彼はこんなに距離を詰めてくるのか?
考え込んでいると、誰かがそっと服の裾を引っ張った。見下ろすと、小林茉里が心配そうに見つめている。
手のひらには、彼女がそっと渡してくれたメモが握られていた。
広げてみると、思わず苦笑してしまう内容が書かれていた。
「中島くん、もしかして美友紀のために怒ってる?本気で落ちたのかも!」
思わず笑顔になりかけた瞬間、静まり返った教室に自分の名前が響いた。
「中島陽介、星野美友紀、前に出てこの問題を解いて。」
たちまち教室がざわつく。
美友紀は思わず眉をひそめて拒否した。
「先生、私、できません……」
「ちょうどいいじゃない、中島くんが教えてあげれば。」
返す言葉が見つからなかった。
先生が「くっつけよう」としているのも無理はない。
何しろ以前、陽介に近づきたくて、先生にも色々お願いしていたのだから。
講台に立つと、美友紀はあえて陽介から一番離れた場所を選んだ。
先生も彼女が失敗しないようにと、わざと簡単な問題を用意してくれていた。
前世で陽介と接点を持ちたくて、入学試験で学年2位を取ったのに、その後はわざと成績を落とし、中島に勉強を教えてもらう口実を作っていた。
でも今は――
美友紀は唇を引き結び、陽介の問題を横目で確認しつつ、自分の問題をさっさと解き始めた。
先生は二人の時間を作ろうとしたのか、陽介にはわざと難しい問題を出していた。彼は黒板いっぱいに解答を書き連ね、ついに美友紀の隣まで来てしまった。
「ねえ……」と美友紀が控えめに声をかけようとしたその時、陽介が不意に遮った。
「今、俺のこと、なんて呼んだ?」
陽介はチョークを持つ手を止め、声は小さいが強い意志が感じられる。
美友紀は戸惑いながらも、彼の真剣な視線を感じて答えを探した。
「陽介くん……?」
「うん。」陽介はどこか満足げに頷き、「もう分からないの?」と少し嬉しそうな声を出した。
彼は美友紀の解答を覗き込んで眉をひそめ、さらに自分の問題を見てまた顔をしかめた。
何かに気づいたのか、急に自分の書いた黒板を振り返った。
「もしかして、俺の問題を解いてたのか?」
美友紀は冷静に頷いた。
「だから、もう少しスペースが欲しいの。」
すると陽介は素直に半歩横へ移動した。どこかぎこちなく、でも従順な動きだった。
美友紀は軽く会釈してから、再び問題に集中した。
いつの間にか、ざわついていた教室が静まり返っていた。
最後の一筆を書き終え、ほっと息をついた美友紀は、チョークを戻して席に戻ろうとしたその時、陽介の複雑なまなざしに出くわした。
「この問題……誰に教わったんだ?」陽介の問いには、どこか苛立ちがにじんでいた。
美友紀はその質問に呆れた。
なぜ自分が何かできると、必ず誰かに教わったことになるのだろう?
彼女の戸惑いに気づいたのか、陽介はもう一度口を開いた。
「俺が教えた方法とは全然違う。」
美友紀は彼の解答を見上げ、いつの間にか黒板の大半を使って丁寧に解いているのに気付いた。
彼は説明が丁寧すぎて、スペースを大きくとってしまっている。
一方、美友紀の解答は簡潔で、まるで模範解答のように要点だけがまとまっている。
「もともと分かってたの。」と、チョークを置き、もう深入りする気はなかった。
「それより、あなたも自分の問題をちゃんと解き終えてね。」
席に戻ると、机の上に先ほどのメモがあった。
苦笑しながら、素早く何行か書き加えてまた机にしまい込む。
この授業は、何とか無事に終わった。
チャイムが鳴ると同時に、美友紀は茉里の手を掴んで教室を飛び出した。
もうこれ以上、陽介に詰め寄られるのはごめんだった。
二人は校庭の隅まで走り、息を切らしながらフェンスにもたれた。
「ねえ美友紀、結局、中島くんと何があったの?」と、茉里が興味津々の目で聞いてくる。
何があったのか、美友紀自身も知りたい。
「もし……」と、深く息を吸い、しばらくの沈黙のあとで、
「もう中島陽介のこと、好きじゃないって言ったら、信じてくれる?」と、真剣に告げた。
茉里が笑ったり疑ったりするのを覚悟していたが、思いがけず、彼女は美友紀の手をぐっと握りしめ、目を輝かせた。
「本当に?」
美友紀は一瞬戸惑いながらも、しっかりとうなずいた。
「本当だよ。」
「よかった! 前から彼は美友紀にはもったいないと思ってた。家柄が良くて、顔もスタイルもいいかもしれないけど……」
言いかけて、茉里の声はだんだん小さくなっていった。
「でも、やっぱり美友紀にはふさわしくないよ。」と、真剣な顔で続ける。
「美友紀はもっと大切にされるべきだよ。彼のことで傷ついたり、悪く言われたりするのを見るのは、私だってつらかった。」
本当に、つらかった。
美友紀は、胸に溜めていた思いが一気にあふれ、思わず茉里にしがみついて泣いてしまった。
「ありがとう……茉里……」
「ううん、大丈夫……」と、茉里もつられて涙ぐむ。
「でもちょっと残念かも。二人のこと、実は少し応援してたから……」