振り返ると、高野明徳が悔しそうな顔でこちらを睨んでいた。星野美友紀は、思わず言葉を失った。
つい数分前まで「半年も物理から離れていたから、もう勘が鈍ってしまったかも」と自嘲していたのに、今や渡辺雅彦が彼女こそ真の一位だと皆に告げている。
「ちょっと、話を……」
言いかけた瞬間、高野はぷいっとそっぽを向いてしまう。
「星野、もう時間だ、行くぞ。」
教室の入り口では、渡辺の声がせかしていた。
星野は手にしたノートをぎゅっと握りしめ、心が揺れ動く。
講壇に目をやると、藤堂成一が驚きと喜びが入り混じった視線を送っていた。
彼女の視線に気づいた藤堂は、静かに講壇を降りて彼女のそばに来る。
「やっぱり、君だったんだな……」
その声には、抑えきれぬ興奮がにじんでいた。
「先生、私のことをご存知なんですか?」
藤堂はためらいなく手を差し出し、堂々と名乗った。
「藤堂成一だ。君とは初めてだが、私は上の学年で物理コンクールの優勝者だった。」
星野はようやく納得し、慌ててその手を握り返す。
「私は……」
名乗ろうとした瞬間、藤堂はにっこり微笑み、話を遮った。
「君のことは知っているよ。知っているどころか……ずっと気にしていたんだ。」
星野は困惑した表情を浮かべる。
ずっと気にしていた?
「木下教授がね、君のことを何度も話していた。いつも『あの子は……』って。」
「反抗的な生徒、ですか?」星野は苦笑しながら口を挟む。
藤堂はその率直さに少し驚き、気まずそうに苦笑したが、やはり好奇心には勝てないらしい。
「噂は本当だったみたいだな。でも、正直に言うけど、君が昔、男のために研究をやめたって聞いたけど、本当かい?」
またその質問かと、星野の喉が詰まる。
「無礼を承知で聞く。けれど、この道は険しい。もし覚悟があるのなら……」
その言葉は、星野の胸に重く響く。
彼女はまっすぐに藤堂を見返し、澄んだ声で言った。
「私は、研究を諦めたことなんて一度もありません。これからも、絶対に。」
藤堂はしばし黙り込み、星野をじっと見つめた。
やがて、口元に柔らかい笑みを浮かべる。
「それなら、木下教授もきっと喜ぶだろう。」
彼女は星野の手をしっかりと握り、
「今まで先入観で見てしまって悪かった。でも、本気で戻る気があるなら、君の実力なら、学問の世界はいつでも君を待ってるよ。」
「……ゴホン」
突然の咳払いが二人の会話を断ち切った。
振り返ると、渡辺がまだ手を差し出したまま立っている。
「星野……」
星野はどう返事をすればいいか分からなかった。
その時、後ろから高野の苛立った声が響く。
「何ぼーっとしてんだよ。さっきまで成績が不満だって言ってたくせに、今は満足か?」
星野は小さくため息をつく。
「渡辺、私……やっぱり行かない。」
その言葉に、教室は一瞬静まり返った。
「やっと分かったんだ。私は今まで自分の才能に頼りすぎて、ちょっとした挫折で簡単に諦めてしまっていた。でも、今回のことは私にとってきっと大きな糧になる。」
講壇のそばにいる渡辺に向かって、星野は穏やかに微笑む。
「それに、Cクラスが他より劣っているなんて、私は思っていない。」
「でも、進度はやっぱり遅れるだろ……」
渡辺の不安げな声が聞こえる。
だが、星野は首を横に振った。
「物理研究会から離れてもう半年以上。今回の成績は、たまたま予想問題が当たっただけかもしれない。そんな偶然に頼るのは長続きしない。進度がゆっくりでも、基礎をしっかり固めたいの。」
渡辺は長い間星野を見つめていた。
星野は、彼が無理やり連れて行こうとするのではと不安になったが――
「君がそう決めたなら、僕は尊重するよ。」
その言葉に、星野の胸のつかえがすっと消えた。
「いつか、Sクラスで待ってる。」
そう言い残し、渡辺は仲間を連れて教室を後にした。
「Cクラスがダメだって誰が決めた?ここには本物の一番がいるんだからね!」
藤堂は明るく場を盛り上げ、自虐気味に続けた。
「まあ、次の試験でちゃんとトップを守ってくれないと、私の指導力を疑われちゃうんだけどね……」
星野は思わず笑みをこぼす。
彼女は肘でまだ不機嫌そうな高野を小突いた。
「どう?まだ勝負する?」
高野は斜めに彼女を見て、わざとらしく言う。
「何をだよ?誰が一番人脈を使えるか競うのか?前の席のお嬢さん、謙遜しながら自慢するの、上手いよな。」
実は、星野がSクラスへの復帰を断った時点で、高野の怒りはかなり収まっていた。
そもそも彼自身、Cクラスで白紙答案を出して目立つつもりだったのだ。
でも、星野は違う。
――むしろ、少し感心していた。
自分だったら、答案をすり替えられ、一気にどん底に落ちたら、彼女のように冷静でいられただろうか。ましてや自ら残る決断をするなんて――到底できない。
少し逡巡した後、彼は本音を口にした。
「お前、正気か?」
星野は、彼の“皮肉”をなだめるつもりだったのに、逆に疑われてしまった。
「何それ、失礼だな……」
「本当に何も考えてないのか、それとも……」高野は複雑な表情で、「今ここで戻らなかったら、Sクラスの席を他の誰かに取られるんだぞ?」
「でもさ、Sクラスで最高の環境を手に入れても、私たちCクラスの人間に負けたら、もっと恥ずかしいんじゃない?」
高野は返す言葉がなかった。
彼女の瞳がまっすぐに輝いているのを見て、ついに彼は折れた。
「好きにしろ。」
「ただし……」と声を潜めて続ける。「誰が裏で仕組んだのか、ちゃんと考えた方がいいぜ。」
星野は戸惑う。
このクラスの人たちは、ほとんど彼女のことを知っているが、彼女自身はほとんど知らない。
「しっかり調べた方がいい。お前みたいにメンタルの強い奴で、しかも俺みたいに理解のある奴がそばについてたからよかったけど、もし他の誰かだったら、次の大会は……」