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第4話


言い終わらぬうちに、数台のマウンテンバイクが坂道を駆け上がり、私たちの目の前で勢いよく止まった。


先頭の男が片足でバイクを支え、立ち上がると、私が羽織っている男性用のジャケットと私自身を交互にじろじろと眺めて、口笛を吹いた。


「おいおい、知之、お前の女運は生まれつきか?真夜中の山奥で美人を拾ったなんて!」


私の隣にいた深沢知之は、特に感情を見せず、その男の前輪を軽く蹴った。


「目、悪いのか?」


その男は一瞬ぽかんとし、改めてライトの下で私をじっと見つめた。私の脚にこびりついた乾いた血と泥まみれの姿に気づいた瞬間、驚きで息を呑んだ。


「うわっ、これは…どうしたんだよ?」


その時、遠くから車のヘッドライトが近づいてきた。黒いセダンが器用にUターンして、私たちのすぐそばにぴたりと停まる。


運転席から降りてきたのは、三十代ほどのスーツ姿の男性だった。


知之は煙草をもみ消すと、無言で車の運転席に座り込んだ。先ほどから茶化していた男がようやく事態を理解し、声を荒げた。


「深沢!人間かよ、お前!一緒に自転車で帰るって言ったのに、こっそり車呼びやがって!」


知之は窓を下ろし、吸い終えた煙草を見事な手つきでごみ袋に投げ入れると、口元にかすかな笑みを浮かべて言った。


「疲れたから、もういいや。」

そして私の方をちらりと見て、

「まだ外で風に当たりたいのか?」


彼が本当に行ってしまいそうで、私は慌てて助手席のドアを開けた。しかし、乗り込もうとした瞬間、躊躇してしまう。


車内は隅々まで清潔で、ライトベージュの内装が汚れを吸い込みそうなほどだ。私の体は泥と血で汚れている…。


逡巡した末、私は覚悟を決めて座る。座席に深くは座らず、足を揃えて、できるだけ汚さないように神経を尖らせる。


車が急発進し、その反動で私は背もたれに勢いよく押し付けられた。


途端に顔が熱くなり、私は思わず彼に向かって言った。


「ご、ごめんなさい!クリーニング代、払います!」


彼は小さく笑い、その声は澄んだ泉のように心地よい。


「この車、洗車一回で二万円だよ。もしも…“しつこい汚れ”がついたら、追加だな。」


そう言って、わざとらしく私の足元に視線を落とす。


二万円!?たった一回の洗車で、バイト三日分の稼ぎが飛ぶなんて…。


でも、この車は確かに哲也のよりはるかに高級そうだ。洗車代に“命の恩人”料金も含めれば、むしろ安いのかもしれない。


とはいえ、私は今財布も持っていない。あるのは携帯だけ。


「…今はお金ないんです。信用してもらえるなら、番号を教えてください。後日、必ず払います。」


私は携帯を起動させようとするが、画面は真っ暗なまま。なんとか電源を入れて彼の名前を登録しようとした途端、メッセージが一気に届き始めた――全部、美紀からだ!


慌てて彼女にかけ直し、「美紀」と名を呼んだところで携帯の電源が落ちてしまう。


「番号、覚えてる?」


知之が自分のスマホをアンロックして差し出してくれる。


私はうなずいて受け取り、発信した。


「はい、どちら様ですか?」

美紀の声はまだ落ち着いている。


「美紀、私…」

私の声は震えていた。


「明里!?どこにいるの?まさか何かあったの?さっき電話切れて心配したんだよ!家にも行ったのにいないし、携帯も繋がらないし…もう心配で死にそうだった!」


その懐かしい優しさに、私は思わず涙があふれ、手で顔を拭いた。


「だ、大丈夫。今、月見町にいる。」


「哲也と一緒なの?」


「…うん。」


「信じられない!妊娠中なのに、何やってるのよ!もっと自分を大事にしなきゃ!」


「妊娠」という言葉が胸に突き刺さる。私は口を押さえ、慌てて通話を切った。


車内はしんと静まり返る。知之の視線が私のお腹と、血の付いた足元をじっと見つめ、眉間にしわを寄せていた。その鋭い目は、私の惨めな現実をすべて見透かしているようだったが、彼は何も聞かず、ただ黙って新しい煙草に火をつけた。煙が狭い車内に広がっていく。


車はマンションの前に止まった。下りる時、シートの上の濃い赤いシミが目に入り、私は恥ずかしさで顔を上げられなかった。


「ありがとう…洗車代、必ず払います。」


知之は数秒私を見つめ、曖昧に笑い返しただけで、肯定も否定もしなかった。


私は慌てて言った。


「待っててくれませんか?すぐに荷物とお金を取ってきます!」


彼は指でハンドルを軽く叩き、しばらく考え込んでから、静かに言った。


「送ったのは、別にお金のためじゃない。困ってる人から搾取する趣味はないんだ。」


彼は私のほうを向き、珍しく真剣な表情で続けた。


「それより、早く病院に行った方がいい。無理して傷を残したら、一生後悔するぞ。」


その瞬間、熱い涙がまたこみ上げてきた。


この毒舌だけど、ちゃんと距離感を守ってくれる人は、本当にいい人なんだ――そう思った。けれど、哲也は違う。彼が壊したのは、私の体と愛情だけじゃなく、世界への最後の信頼だった。


私は声を詰まらせながら「ありがとう」とだけ言い、知之の車が流れに消えていくのを見送った。


藤原家のドアを開けると、玄関の壁に掛けられた大きな結婚写真が、毒針のように目に突き刺さる。


写真の中で、哲也は私の腰に腕を回し、私は彼に寄り添っている。彼の笑顔は溺れそうなほど優しく、私は幸せそのものの顔をしていた。


今見ると、その甘い記憶がすべて皮肉に思える。彼の優しさは、毒を包んだ砂糖菓子のようなものだったのに、私はそれに気づかず、犬にも劣るほど愚かだった。


屈辱と憎しみが押し寄せる。立ち止まることもできず、急いで汚れた服を脱ぎ、濡れタオルで体を拭く。洗面器の水がすぐに血で赤く染まる。涙が冷たいタオルと一緒に流れ落ちていき、体の痛みは鋭いけれど、心が壊れた痛みには到底かなわない。


慌てて着替え、必要な物と印鑑、モバイルバッテリーをバッグに詰め込む。


もう出ようとした、その時――


「パタン」と小さな物音が書斎から聞こえた。


私は凍りつき、ドアをじっと見つめる。疑念だらけのこの書斎には、哲也の本性が隠されているのかもしれない。


近づく足音は鉛のように重い。ドアノブを握る手に、全身の力が入る。


書斎は真っ暗で、誰もいない。カーテンが夜風に揺れている。


電気をつけると、分厚い本が一冊、本棚の前の床に落ちていた。


さっきの音は、この本が落ちたのか?


そのとき、下から車のエンジン音が聞こえてきた――哲也が帰ってきた!


心臓が縮み上がり、バッグをつかんで部屋を飛び出す。エレベーターの表示が上に上がっている!絶対に鉢合わせしたくない!私は非常階段の影に身を隠した。


「チン――」


エレベーターが開く音。足音が近づき、鍵の回る音、そして玄関の扉が閉まる。


部屋に入ったのを確認して、私はようやく息をついた。しかし、どうしても気になって、もう一度ドアの方を見てしまう――まるでその中に、私の全ての不幸の答えが隠されているかのように。


気がつくと、私は息を殺してドアに近づいていた。


冷たいドア板に耳を押し当てると――


中から、はっきりと女性の声が聞こえてきた。



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