あの膨らんだ黒いビニール袋が、冷たい呪いのように私の心臓を鷲掴みにする。
胸をえぐられるような痛みと絶望が、一瞬で呼吸を奪った——もしかしたら、あそこに私の赤ちゃんが…。
恐怖が毒の蔦のように体を締め付ける。哲也の姿が闇に完全に消えるのを確かめると、産後の虚脱と下半身から流れる鮮血もかまわず、私は携帯を手に温泉旅館を飛び出した。
逃げなきゃ——あの悪魔から、できるだけ遠くへ!
真っ暗な田んぼ道を、裸足のまま必死に駆け抜ける。泥で足元は滑り、慌てて一歩踏み外し、そのまま冷たい水田に転げ落ちた。必死に這い上がるが、泥に靴が取られ、携帯も完全に電源が落ちる。温かい血が泥と混じって太ももを伝い落ちていく。
そんなことも気にせず、裸足のまま駆け続けた。やっと昼間食事をした旅館まで辿り着き、そこでやっと道を思い出す。
観光地を抜け、山道へと駆け込む。止まることが怖くて、痺れた足を無理やり動かし続ける。振り返れば、血と泥が混じった足跡が、地獄の夜を無言で物語っていた。
夏の風は熱いのに、私は骨の髄まで冷え切っていた。
山の中腹に立ち尽くし、見下ろせば果てしない闇の渓谷。絶望が波のように押し寄せ、私を呑み込む。
二年の結婚生活で、隣に眠る悪魔に気づかなかったなんて——なんて愚かなんだろう。一晩で、子どもも、結婚も、信頼も、全てが崩壊した…。
いっそここから飛び降りて、全て終わらせてしまいたい。
でも、母の青白い顔が脳裏に浮かぶ——父が事故で亡くなってから、母は植物状態のまま、娘の私しかいない。 それに、まだ会ったこともないけれど、私の学業を支えてくれた「白鷲」さんへの恩も返せていない。
果たせぬ恩、晴らせぬ恨み。哲也はなぜあそこまで狂ってしまったのか。この血の借り、必ず清算しなければ。
最後の理性が、絶望で止まりかけた足を引き戻す。死ねないなら、生きるしかない。
だが、真夜中の山道で車を止めるなんて、まるで夢物語だ。たまに観光地から車が出てくるが、ヘッドライトの下、全身血と泥にまみれ、裸足で髪も乱れた私の姿は隠しようがない。恥も外聞も捨てて手を振るが、返ってくるのは驚きや嘲りの視線だけ。車内にはロックが鳴り響き、私を置き去りに走り去っていく。
物乞い?難民?それとも狂人?通りすがりの人たちには、私がそんなふうに見えているんだろう。
何度も拒絶され、絶望が私を無謀な行動へと駆り立てる。
山肌に体を寄せ、カーブの先で待ち構える。ヘッドライトが闇を裂いた瞬間、私は目を閉じ、全身の力を振り絞って飛び出した!
轢かれて死ねばそれでいい。死ななければ、誰かに助けてもらえるかもしれない——。
鋭いブレーキ音が静寂を切り裂く!
ぶつかった衝撃は大きくなかった。飛び出した勢いで私は地面に転がった。
「パタン」と小さな音がした。私は泥だらけのまま顔を上げる。
暗闇で相手の顔はよく見えない。ただ、ゆっくりとタバコに火をつける仕草だけが目に入った。ライターの小さな炎が、彼の深い瞳を照らし出す。どこか整った顔立ちだ。
彼は煙をふっと吐き、面白そうに私の惨めな姿を見渡し、やがてゆっくりと口を開いた。
「お嬢さん、脅す相手くらい選んだらどう?俺のボロいバイクでいいのか?」
低く響く声は、皮肉のように私の耳を打つ。
そう、彼が乗っていたのはマウンテンバイク。ヘッドライトが私を照らしている。さっき私が車だと思った光は、実は彼の自転車のライトだった。
彼の目には、私のこの惨状も、よくある詐欺の一種に見えただろう。
一瞬、目が合ったとき、彼は少し驚いたように表情をこわばらせた。でも私はすぐに顔を伏せ、膝を抱えて黙り込む。
私が金銭を要求する気がないと分かると、彼は半分残ったタバコを手に、自転車でそのまま私の前を通り過ぎ、カーブの向こうに消えていった。
見捨てられた絶望が、再び私を飲み込む。声をあげて泣いた。こんなにも誰かにそばにいてほしいと、狂おしいほど願ったのは初めてだった。たとえまた嘲笑されても、せめて私は、ひとりきりの幽霊じゃないと知りたかった。
泣き声が、静まり返った山道に響き渡る。
しばらくして、またあのブレーキ音が近づいてきた。ライトに照らされて顔を上げると——さっきのマウンテンバイクが戻ってきて、道端に停まった。
男は石の上に腰掛け、タバコをくわえながら言った。
「そんなに大声で泣いてたら、幽霊でも寄ってくるぞ?」
涙を浮かべたまま、私は呆然と彼を見つめる。ヘッドライトの光が、薄い煙越しに彼の顔をはっきり映し出す。
整った顔立ちに、男らしい輪郭。どこか落ち着いた雰囲気を漂わせている。汗で濡れたスポーツウェアでも、その余裕は隠せない。額に張り付いた髪の下から、じっと私を見つめる目は、警戒と戸惑いを映していた。
「ひどい怪我だな」
彼の視線が、血まみれの私の足元に落ちる。
私は思わず腕を抱きしめ、震える声で答えた。
「……寒いだけです」
彼はうなずき、タバコをもみ消して立ち上がると、自転車のバックパックから上着を取り出し、自然に私の泥まみれの体にかけてくれた。
清潔な石鹸の香りに包まれて、思わず「ありがとう…」と呟く。嬉しさと恥ずかしさが混じる。
「病院に行ったほうがいい」
病院?哲也は聖和病院の医者だ。でも、その手で私を地獄に突き落とした。
私は首を振った。
「家に帰りたいだけです」
「家」と口にした瞬間、胸が締め付けられる——あそこはもう、魔窟でしかない。
彼はしばらく黙って私を見つめ、目の奥に複雑な感情が一瞬だけ浮かんだ。
「送っていくよ」
私は思わず彼のマウンテンバイクに目をやる。どう考えても無理だ。
彼は苦笑し、私の気持ちを見透かしたように携帯を取り出して電話をかける。
「松本、車を出してくれ」
場所を伝えて、あっさり通話を切る。
沈黙が流れる。ライターの音と共に、もう一本タバコに火をつける。彼はかなりのヘビースモーカーのようだ。
「俺を信用していいのか?」
静かな声が再び沈黙を破る。
私は肩をすくめ、骨の髄まで染み込んだ寒さと孤独に震えながら答える。
「もう……何も失うものなんてないんです」