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3.抑制剤なしの生活

 バスルームは猫足のバスタブが置いてあって、シャワーからはちゃんとお湯が出た。

 シャワーを浴びて着替えをしようとして、おれは困り果てる。この世界の服の着方がよく分からないのだ。

 先ほどは全裸でファウスト様に抱きかかえられるというものすごい恥ずかしい事態だったので、どうしようもなくその場で修道士のような女性たちの手を借りて服を着たが、今はその女性たちはバスルームの近くにいない。なぜなら、おれが遠ざけたのだ。


「神子様、お風呂のお手伝いをいたします」

「お体を洗い、髪を洗いましょう」


 そんなことを妙齢の女性たちにされたら、おれは恥ずかしくて死んでしまう。

 必死に断って、バスルームから出て行ってもらったので、修道士のような女性たちは今はそばにいない。

 どうしようかと迷っていると、バスルームのドアが乱暴に開けられた。


「ぎゃー!?」

「神官たちから、神子がいつまでも風呂場から出てこないので、溺れたのではないかと言われて助けに来ました。男同士ですし、一度裸は見ているのでお気になさらず」


 汚い悲鳴を上げてバスタオルで体を隠してしまったが、入ってきた人物、ファウスト様は気にせずに近寄ってくる。確かに男性という同性同士なのだが、おれはオメガでファウスト様はアルファである。オメガとアルファは惹かれ合い、フェロモンが作用しあうのだ。それをファウスト様は全く理解していない。


「服の着方が分からないのですか? 先ほども戸惑われていたようですが」


 言葉遣いは丁寧だが、どことなく棘を感じるファウスト様だが、褐色の手を伸ばしておれの着替えを手伝ってくれた。

 妙齢の女性に手伝わせるよりも、同性のファウスト様に手伝わせた方が罪悪感はない。オメガとは言えども、おれにはちゃんと男性の象徴もついているし、野球の合宿で一緒に風呂に入ったアルファに疑われなかったくらい、それの大きさも普通だった。


「ファウスト様は、自分で身支度ができるのですね」

「軍人なので、自分のことは自分でできるように訓練されています。何もかもひとの手を借りる貴族と同じにしないでいただきたい」


 場を和ませようと話しかけてみたら、ぴしゃりと言い返されてしまった。

 やはりおれは歓迎されていないのか。

 気落ちしそうになったところで、ファウスト様がおれの顔をじっと見つめる。


「二十八歳と伺ったが、わたしよりも年下に見えますね」

「そうですか? 体格がいい方なので若く見られたことはありません」


 答えてから、彼らがヨーロッパ風の顔立ちと体躯で、おれが日本人なので、アジア系は童顔に見えるということなのだろうと納得してしまった。

 ファウスト様に服を着せられて手を取って連れて行かれる。


 連れて行かれた先は、広いテーブルのある食堂のような場所だった。

 そこでジェラルド殿下、オルランド閣下、カルロ大公閣下、アンドレーア様が着席しておれを待っていたが、おれが来るとみんな席から立ち上がって頭を下げた。


「神子と食事を一緒にしたいとぼくがお願いしました」

「神官たちが神子が風呂場から出てこないので心配していると言われて、ファウスト殿が見に行ってくれたのです」


 ジェラルド殿下とオルランド閣下の言葉に、おれはファウスト様を見る。ファウスト様はおれを心配して自ら名乗り出てバスルームまで見に来てくれたのだろうか。

 手を取られたファウスト様の手は、剣を握っていたのか硬く、力強かった。


「神子がお相手を選ぶまでの間、わたしたちも神殿で過ごすように命じられています」

「どうしても執務があるときには神殿を出ますが、それ以外は神子とご一緒します」


 カルロ大公閣下とアンドレーア様に言われて、おれは困ってしまう。

 四六時中アルファと一緒で抑制剤もないのだ。日本では抑制剤で制御していたが、アルファと濃厚に接触すると、軽いヒート状態に入ることもあるし、フェロモンが漏れ出してしまうこともある。

 何より、アルファの自覚がないということは抑制剤もないので、全員フェロモンが駄々漏れなのだ。

 絶対にあてられる。


「できれば、皆様お帰りになって、用があるときだけ来ていただければ……」

「そういうわけにはいかないのです。神子に選ばれることがこの世界を救うこと。これ以上に大切なことはありません」


 純粋なジェラルド殿下の目に見つめられて、おれは背筋がぞくぞくするのを感じた。アルファとしてジェラルド殿下の本能がオメガを求めているような気がするのだ。


「ジェラルド殿下、神子はまだ来られたばかりなのです。混乱しておいででしょう。落ち着かれるまで、そっとしておくのも必要です」

「分かっている。だが、あの方を見ると、ぼくはどうしても胸がざわつくのだ」


 オルランド閣下とジェラルド殿下とのやり取りにおれがどうしようかと迷っていると、ファウスト様がおれの座る椅子の背を引いてくれた。エスコートされるのなんて初めてなので、落ち着かないまま、椅子に座ると、座りやすいように椅子の背を押して調整してくれる。


「辺境伯様、そういうことはわたくしたちがやります」

「神子に関することはわたしたちに任せてもらおう」


 申し出た修道士のような女性たち……神官と呼ばれているから、神官さんと呼ぼう……にファウスト様は厳格に答えていた。

 この方、おれだけじゃなくて、全員に厳しいのだろうか。軍人によくいる、自分にも他人にも厳しいタイプなのかもしれない。


 おれが席に着くと、ファウスト様含め全員が椅子に座って、夕食が始まった。

 カトラリーがずらりと並んでいて、どれから使えばいいのか迷ってしまうが、こういう場合確か外側から使うのがマナーだった気がする。

 前菜から副菜、主菜、デザートまで食べると、お腹はいっぱいになった。

 よく見れば全部食べているのはおれだけのようで、他の方々は好きなものだけ食べて、残しているようだ。

 日本人の庶民の卑しさが出てしまったかもしれない。

 特に野球部時代はどれだけ食べても足りなかったし、食べられるときに食べておくのが基本だったから、ついつい残さず食べてしまう。

 よく見ればファウスト様も全部残さず食べていた。

 軍人だからおれと同じ体育会系なのかもしれない。


「神子はアルコールはたしなまれますか?」

「い、いえ、あまり」

「ぼくのお気に入りの葡萄酒があるのですよ。飲まれませんか?」

「では、少しだけ」


 王太子殿下に勧められてむげに断ることはできなかった。グラスに少し注いでもらうと、フルーティーな葡萄の香りがしてくる。一口飲むと、口の中に程よい酸味と渋みが広がった。


「辺境伯領が交易で手に入れている特別な材料から作られたお菓子もありますよ」


 オルランド閣下に勧められて手に取ると、それはチョコレートのようだった。

 この世界、チョコレートがあるのか!

 チョコレートは大好物だったので食べてみると、甘みが強いがとても美味しい。


「辺境伯領は交易が盛んな土地なのですね」

「南の海に面していて、他国からの輸入品がよく入ってくるのです」


 昼間におれにこの世界のことを教えてくれたようにオルランド閣下が優しく教えてくれる。年上の相手だということもあって、おれはオルランド閣下の言葉に素直に耳を傾けることができる。


「辺境伯なのだから、ファウストが教えて差し上げればいいのに」

「わたしは話が得意ではないので。神子を怖がらせているようでしょう」

「それはファウストの態度が悪いんじゃないかな?」


 ジェラルド殿下の指摘にファウスト様は何も言わなかった。

 夕食が終わって自分の部屋に帰るときには、ジェラルド殿下が部屋まで送ってくれた。もちろんお一人ではなくて、お目付け役のようにファウスト様が距離を置いてついてきていたが。


「神子は本当にいい香りがします。これがフェロモンの香りなのでしょうか?」

「本当は漏れていてはいけないんですけど……」

「いけない? そんなことを誰が言うのですか? 確かに、誰にでも香るのは嫌かもしれませんが、ぼくにだったらいいでしょう?」


 ジェラルド殿下のおれの手を握る手が熱い。

 アルファのフェロモンが強くなった気がして、おれは胎がぞわぞわとする。

 抑制剤を飲んでいないとこんなにもなってしまうのか。


 これからの日々を思うと、おれは恐ろしくなってしまった。


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