早川奈美が診察室を出たところで、入ってくる鈴木雅子とばったり出くわした。
鈴木雅子の視線が、早川が持つ牛乳パックの上を一瞬掠め、足が止まった。それからようやく職員室へと入っていく。
「いつ帰国したの?」鈴木は白衣を手に取り、羽織りながら聞いた。
「昨日だ」黒沢直樹の口調はよそよそしい。「頼んでおいたものは?」
鈴木雅子はポケットから一枚の名刺を取り出した。「このブランド、十数年前はまあまあだったけど、今じゃほとんど見かけないわね。製造元の住所を調べてどうするの?」
黒沢直樹が名刺を受け取り、連絡先の文字を指でなぞった。その瞳にかすかに、捉えがたい柔らかさが走る。「…誰かが好きらしい」
鈴木雅子は深く彼を見つめた。言葉には出さなかったが、その視線は突然、彼の喉仏にある淡いピンク色の歯形へと釘付けになった。驚きを隠せない。「直樹…あなた、女の人できたの?」
黒沢直樹の脳裏に、一瞬、紅潮した顔がよぎった。昨夜、彼の腕の中で、目尻を赤く染め、瞳が潤んで崩れていく彼女の姿が鮮明に浮かんだ。
彼は無意識に喉仏を動かした。「ああ」
鈴木がさらに詰め寄ろうとした時、黒沢直樹はもう背を向けて去っていた。
午前の業務が終わり、早川奈美が職員室を出ると、廊下からかすかに看護師たちの噂話が聞こえてきた。
「確かに外科?でも朝、黒沢先生が婦人科の方から出てきたような…?」
「婦人科の鈴木部長は黒沢先生の同窓よ。帰国したばかりだし、挨拶に行ったんじゃない?」
「黒沢先生、めっちゃイケメン!あの腹筋触ってみたい…」
「諦めなよ!首のアザ、見なかった?明らかに女に噛まれた痕だわ」
「まさか鈴木部長?彼女、黒沢先生より少し年上だよね…」
噂話の声は次第に遠ざかっていった。早川奈美の視線は、思わず自分のデスクに置かれたあの「明治おいしい牛乳」のパックへ戻る。
朝、黒沢直樹が渡したものだ。
彼女は牛乳を取り上げ、ストローを刺した。冷めていたが、青みかんの風味はまだ濃厚で、パックには彼の持つ冷たい香りがほのかに残っているようだった。
一口吸い込んだ瞬間、昨夜、彼が自分の唇を噛んだ光景が突然、脳裏に閃いた。
頬が熱くなり、慌てて牛乳を置く。
ノックの音がした。
親友の小林優衣が二人分の弁当を持って入ってきて、ぐったりした様子だった。「疲れた…今日は患者が半端なく多くて、水も飲む暇なかったよ」外科の看護師である彼女は、弁当を開けながら興奮気味に続けた。「でもね、私たちの科に超絶イケメンの先生が新しく来たの!病中中が騒然って感じ!」
「黒沢直樹?」
「なんで知ってるの?」小林優衣が顔を上げ、早川奈美の目に一瞬よぎった動揺を捉えた。「知り合いなの?」
次の瞬間、優衣の視線は、早川奈美の白い首筋に浮かぶ、あいまいな赤い痕へと鋭く落ちた。
「マジかよ!婚約したばかりなのに、もう高橋翔太と寝たの!?」小林優衣はまるで自分の白菜を豚に食われたような痛々しい表情を浮かべた。彼女は以前から高橋翔太を信用していなかった。
早川奈美は首を振った。「寝てない」
小林優衣はますます混乱した。その痕は明らかに男の仕業だ。「じゃあこれは…?」
「高橋翔太が浮気したの」早川奈美の声は平静だった。「だから昨日の夜、私も浮気し返した」
小林優衣は驚いて目を見開いた。好奇心がむくむくと湧き上がろうとしたその時、早川奈美の携帯電話が鳴った。
「奈美、嘘ついたな!君んちの管理人に聞いたぞ、昨夜、君は家にいなかった!俺は知ってたよ、君が俺を裏切るはずがないって。何時に終わる?迎えに行く」
早川奈美の表情は冷たかった。「高橋翔太、別れよう」
電話の向こうが二秒沈黙した後、高橋翔太の軽い笑い声が聞こえた。「別れる?本気か?昨日婚約したばかりだぞ。理由もなく別れる?俺なしで、お前、どこで養父のための三千万円を工面するつもりだ?」
彼は脅していた。早川奈美は唇を強く結んだ。
「奈美、何か根も葉もない噂を聞いたんじゃないか?」高橋翔太の口調が柔らかくなった。「あれはみんな社交辞令の付き合いだよ。俺は一年もかけてお前を追いかけた。世界中が知ってるだろ、俺はお前だけを愛しているって。だから婚約したんだ。そんな噂だけで俺を断罪するなんてありえないだろ?終わったら会おう?今夜、一緒に祖父の家で食事しないか?」
早川奈美は直接、電話を切った。
高橋翔太からは折り返しの電話はなかったが、二分と経たないうちに、養父の早川健一から電話がかかってきた。
「奈美、翔太から別れるって聞いたけど?昨日婚約したばかりじゃないか!」
「翔太は黒沢財閥のマネージャーだ。付き合いも多いから、表面上の付き合いもあるさ。君、何か誤解してないか?彼が会社に三千万出すって言ってくれてるんだ、君を大事に思っている証拠だ。大金だぞ。昔、君の実の父親も資金繰りが悪化して…」
「彼からわざわざ説明に来たんだ、君のことを気にかけているからだ。父の言うことを聞け。今夜は彼と一緒に本宅で食事して、ちゃんと話し合え。誤解を残さないでくれ、頼む」
電話越しに、早川健一の切なる説得が聞こえた。早川家に引き取られて十年、彼らは奈美を大切に育ててくれた。高橋翔太は明らかにその弱みを突いて、早川健一を説得役に立てていたのだ。
早川奈美が電話を切ると、小林優衣が詰め寄って毒づいた。「このクソ野郎!自分が浮気しておいて、知らんぷりして養父を盾に圧力かけるなんて?厚かましいにもほどがある!」
早川奈美は黙った。早川健一の顔を立てることは、確かに考慮すべきことだった。
「黒沢邸での食事でしょ?」小林優衣が策を授けた。「行っちゃいなよ!あのクズ男が他にどんな手を使うか見てやろうよ!」
仕事が終わり、早川奈美は着替えて病院を出た。夕暮れの風は冷たさを帯び、彼女の長い髪を乱した。彼女が道端で車を待っていると、一台のランドローバーがゆっくりと彼女の前に停まった。
窓が下り、黒沢直樹の精悍で気品ある顔が現れた。彼はネクタイを緩め、口元をわずかに上げた。「奇遇だな」
一日に二度も「偶然」出くわすとは、確かに奇遇だった。早川奈美の視線は思わず、上下に動く彼の喉仏を掠め、少し居心地悪そうに顔をそらした。
「乗らないのか?」彼の澄んだ声が風に乗って耳に届く。
黒沢家での夕食のことを考え、早川奈美は推測した。もしかすると、高橋翔太がこの叔父(小父)に頼んで、ついでに送ってもらうよう手配したのか?一瞬躊躇い、彼女はドアを開けて後部座席に乗り込んだ。
車内で、早川奈美の視線はつい、運転席の男へと向いてしまう。突然、黒沢直樹がブレーキを踏み、車を路肩に停めた。
彼が振り返り、端整な顔を予告なく近づけてきた。その深い双眸は、まるで鉤のような力で人の魂を奪い去りそうだった。
早川奈美の心臓が一拍飛んだ。
「で?」彼の低い声には少しからかいが混じっている。「見ごたえあるか?」
「え?」早川奈美は呆気に取られた。
彼の目に浮かぶ「見抜いた」という笑みと向き合い、彼女はようやく気づいた。
もしかして…この男に、ナンパされてる?