黒沢直樹の口元がわずかに緩み、再びエンジンをかけた。その時、早川奈美の携帯がふくっと震えた。
「奈美、急用が入って抜けられない。タクシーで来てくれ。黒沢邸に着いたら連絡して。門まで迎えに行くから。」
差出人は高橋翔太。そのメッセージを見て、早川奈美は首をかしげながら黒沢直樹を振り返った。
…ということは、彼は翔太に頼まれて乗せてくれたわけじゃない?
ふと窓の外を見ると、車は黒沢邸とは反対方向へ走っている。早川は慌てて口を開いた。
「高橋さんが、今夜は黒沢邸に連れて行くって言ってたんです」
黒沢直樹の表情が明らかに強張る。とたんにブレーキを強く踏み込み、わずかに浮いていた笑みは一瞬で消え、険しい面持ちになった。
車はUターンすると、一路黒沢邸へ向かった。車内は重い沈黙に包まれ、張り詰めた空気が漂う。
二十分後、黒沢邸に到着。二人は前後に分かれて車を降りた。
早川奈美は黒沢直樹との距離を意図的に置き、一緒には玄関に向かわなかった。邸宅の門前にある庭を二周ほどぶらつき、そろそろ時機だろうと見計らってから、ようやく正面の門へ歩き出した。
数歩進んだところで、庭の奥まった一角からかすかに、あやしい音が聞こえてきた。
早川は足を止めた。頬がほんのり熱くなる。誰だ、黒沢家の庭でそんなことをするなんて…
早く立ち去ろうとしたその時、快感に酔いしれているらしい男の声が、息を切らしながら響いた。
「麻衣…お前は本当に…たまらんぜ」
早川奈美の全身の血が一瞬で凍りついた――それは婚約者、高橋翔太の声だ!
高橋翔太の下で喘ぐ女性が、甘えた口調で言う。
「もう婚約してるのに、いつもこうなんだから…あの婚約者、一年も追いかけたんでしょ?欲しいなら、彼女を探せばいいじゃない」
高橋翔太は荒い息を吐きながら、軽薄な口調で返した。
「婚約者?あいつ、手すら握らせてくれねぇよ。お前みたいにオープンじゃないんだ。それに、俺があいつを探したら、お前が欲求不満になるだろ?」 彼は嘲るように低く笑った。「叔父様のあの禁欲的な様子じゃ、女に興味すらねぇかもしれねぇよ、なあ?…将来の叔母様」
「やだっ」
「将来の叔母様」という言葉が女性を刺激したらしく、声はますます艶めかしく蕩けていく。
二人はあまりに夢中で、すぐ近くに人が立っていることに全く気づいていない。
早川奈美は眉をひそめた。なるほど、翔太の不倫相手は、黒沢直樹の…見合い相手、藤原麻衣という女性だったのか。
黒沢家のような家柄にも、これほどの醜聞があるとは思わなかった。早川は踵を返してその場を離れようとした。ところが振り返った瞬間、固くて温かい胸板にぶつかった。
早川の顔色が変わり、思わず顔を上げた。
男は唇に煙草をくわえ、ちょうど火をつけようとしているところだった。
早川の視線を受けて、黒沢直樹は煙草を口から外した。深い瞳にほのかな戯れの笑みを浮かべ、ほんのりと身をかがめ、声を潜めて彼女の耳元で囁いた。
「中に入らないと思ったら、こんなところで壁の耳を立ててたのか?…そういう趣味があったとはな」
温かい息が耳朶を撫で、早川奈美の頬が熱くなる。彼がいつからそこにいたのか。
だが一つだけ確信した。さっきの二人の会話を、黒沢直樹も一言一句漏らさず聞いていたのだ。
心の中で驚きがよぎった。自分の見合い相手と甥が密通している現場を目撃しながら、彼はなぜそんなにも平静でいられるのか。まるで他人事のように。
早川は言葉を選んで口にした。
「…気に、ならないんですか?」
黒沢直樹は彼女を面白そうに見つめ、薄い唇がかすかに彼女の耳朶に触れんばかりに近づき、低い声で言った。
「見合い相手の一人に過ぎん。何を気にするというのだ?気にかけていない人間のことなど、当然気にも留めん」
あまりに近い距離。煙草の香りを含んだ彼の吐息が、早川奈美の耳の奥をじんわりと痺れさせた。息を詰まらせ、思わず後ずさりそうになった。
その瞬間、さっきまで情事に耽っていた二人が、どうやら終えたらしい。
「今日じいさまが呼んだのは、叔父様との話を決着させるつもりだろう。でも叔父様、お前に興味なさそうだぜ」 高橋翔太が服の乱れを直しながら言う。「俺から言わせりゃ、ターゲット変えたほうがいいんじゃねぇか?」
その言葉は明らかに藤原麻衣の逆鱗に触れた。
彼女は長い髪をかき上げ、鼻で笑った。口調には侮蔑がにじむ。
「庶子の分際で、本当に勘違いしてるわね?黒沢家で男らしいのがあの人ぐらいしかいないから、私がわざわざ見合いに出たんでしょ?」
高橋翔太の顔色が一変した。すぐに指で藤原麻衣の唇を押さえ、警告を含んだ声で言った。
「そんなこと、黒沢家の中で言うな!後で大変なことになるぞ!」
女の腰をぎゅっと掴み、口調をまた艶めかしく変えて続けた。
「それに、黒沢家に男はあの人だけって言うけど、俺は男じゃないのかよ?」
藤原麻衣は甘えるように彼の胸に寄りかかり、艶やかに笑った。
「あなたは高橋でしょう?黒沢じゃないわ。どうするの?私を娶る気?」 彼女の腕が高橋翔太の首に絡みつき、唇を軽く噛んだ。「やめときなよ、お父さんが認めないから」
高橋翔太は急所を突かれたように、顔をそらした。口調はやや硬い。
「高橋家が気に入らないなら、なんで俺を選んだ?まあ、俺にも婚約者がいるし、お前を嫁に迎えるつもりもないけどな」
二人の声は大きくはなかったが、静寂に包まれた庭の中では、その言葉がはっきりと早川奈美と黒沢直樹の耳に届いた。
早川奈美は内心驚いた――黒沢直樹は黒沢家の庶子だったのか?
思わず隣の男を見た。黒沢直樹の目は冷ややかで、表情には何の変わりもない。まるで他人の話を聞いているかのようだった。
彼は手首の時計を見て、口元に意味深長な笑みを浮かべると、早川奈美のほんのり赤らんだ耳たぶに視線を落とし、からかうように言った。
「…十分も経ってないな。…君の婚約者、どうやらたいしたことないね?」
早川奈美は息を詰まらせた。昨夜のあの時、黒沢直樹が疲れも見せずに、繰り返し繰り返し彼女を求めた光景が、抑えきれずに脳裏をよぎる。耳の根元の熱が一気に広がった。
ちょうどその時、身なりを整えた高橋翔太と藤原麻衣が、二人のいる方向へ歩き始めた。
早川奈美は我に返り、胸が締め付けられるのを感じた。思わず黒沢直樹の腕を掴むと、すぐそばの鬱蒼としたサルスベリの茂みへと、彼を引きずり込むように素早く潜り込ませた。