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第5話 歯形に刻まれた駆け引き


そよ風が花の香りを運んでくる。


早川奈美の指先はひんやりとし、黒沢直樹の熱を持った手首をぎゅっと握っていた。彼が口を開けそうになったのを感じて、奈美は内心で固くなり、もう一方の手を素早く上げて、温かい彼の唇に指先を当てた。


高橋翔太と藤原麻衣の姿が遠ざかるまで、彼女はようやく手を引っ込めようとした。しかし、直樹の瞳が一瞬暗く沈み、口元に危険な笑みを浮かべた。彼は片手で奈美の腰を押さえ、もう片方の手で彼女の手首を逆に掴んだ。


見つめ合い、奈美の息が詰まった。次の瞬間、直樹は何の前触れもなく、頭を下げて口づけを求めてきた。


そのキスは強引で突然、拒絶を許さない略奪的なものだった。


馴染みのある男の匂いが奈美を一瞬で包み込み、唇を奪われたその瞬間、昨夜の密室での灼熱感、もつれ合い、あえぎ声が、脳裏を激しく襲った。彼女の耳元がすぐに熱くなった。


冷たい木の幹に背中が押し付けられた時、奈美ははっと我に返り、必死に顔をそらして彼の唇をかわした。


彼女は息を弾ませ、心臓は乱れていたが、無理に平静を装い、声を潜めて言った。「…直樹さん、こんなこと…ふさわしくないわ」


昨夜は事故だった。でも今は正気だ。ここは黒沢邸、彼女は客に過ぎない。彼が翔太への復讐の道具にされるのはごめんだ。翔太のように身を任せるのも嫌だった。


「直樹さん?」


直樹の動きが止まり、彼の目つきが急に冷たくなった。夜風が彼の前髪を乱した。彼は低く笑うと立ち上がり、いつの間にか指の間に煙草を一本挟んでいた。


煙がゆらゆらと立ち上り、彼の深い輪郭をぼやけさせた。投げやりな探るような口調で、彼は言った。「だから? あの甥っ子が浮気しても、お前はやっぱりアイツと結婚するつもりか?」


奈美は唇をきつく結び、黙り込んだ。彼女と直樹の関係は、そんなことを率直に話し合えるほど親しくはなかった。何より、二人は親戚同士なのだ。


直樹は深く煙草を吸い込み、重い眼差しで奈美を捉えた。「言ってみろよ。翔太のどこが好きなんだ?」


奈美が顔を上げた。刺のある言葉「もしあなたが私に三千万くれたら、あなたとだって結婚するわ」が、喉まで出かかっていた。その時、遠くから使用人の声がした。「三少? お帰りになられましたか?」


黒沢泰三には四人の子供がおり、黒沢直樹は三男である。彼は煙草を消すと、まっすぐ玄関へ向かい、奈美のそばを通り過ぎる時も一瞥もくれず、袖がかすかに触れただけで、まるで他人のように無言で過ぎ去った。


奈美はしばらくその場に立った後、明るく灯された大広間へ入っていった。家族の宴は始まっており、呼ばれた面々はほぼ揃っていた。


翔太は奈美の姿を見るなり、すぐに熱心に迎えにきた。「奈美! さっき祖父が君のことを尋ねてたよ。悪い、会社の急用で遅れちゃって、俺もついさっき着いたばかりさ。気にしないだろ?」


奈美はさりげなく彼の差し出した手をかわした。胃がむかむかとし、目の前には庭園でのあの醜い光景がよみがえった。


席に着くやいなや、翔太が上座の泰三に言うのが聞こえた。「祖父、僕と奈美が結婚式を済ませたら、僕も家庭を持つ身です。あのリゾートの土地、ずっと遊んでいますよね? 僕に管理させてもらえませんか?」


泰三の目が奈美を掠め、再び翔太に向いた。「奈美はいい娘だ。プロジェクトを任せた後は、なおさら大事にしろ、分かっているな?」


翔太は満面の笑みを浮かべた。「ご安心ください、祖父! 必ず期待に応えてみせます!」


奈美の心は凍りついた。一年前、彼女は偶然泰三を助けたことがあり、それ以来老人は彼女をかわいがってくれていた。しかし、翔太が彼女を利用して、黒沢家から利益を引き出そうとしているとは思いもよらなかった!


この一年のアプローチは、周到に仕組まれた騙しだったのだ! 彼女は心底の嫌悪感と吐き気を必死に抑えた。今ここで喧嘩しても、自分がさらに不利になるだけだ。それに何より、彼女と直樹の間のことも…言いようのない後ろめたさを感じさせた。


その時、泰三がようやく席についた直樹を見た。「帰国してからは、本宅に戻る気はないのかと思っていたぞ。」


直樹は椅子の背にもたれ、一言も発しなかった。


彼の隣、車椅子の男——次兄の慎一郎が、嫌みたっぷりに口を挟んだ。「三弟は大忙人なんだよ、父さん。もっと理解してやらないと、さもないと彼が腹を立ててまた何年も海外に行っちゃったら、もっと会えなくなっちまうぜ。」


泰三の顔色が曇った。視線が藤原麻衣に向く。「ちょうど藤原さんもいらっしゃっていることだし、折を見てお前たちの結婚の話を決めてしまえ。そうすれば、三男も一日中家を空けるようなことはなくなるだろう。」


翔太がすぐに同調した。「そうだよ、叔父上! 俺たち同い年なのに、見てよ、俺と奈美はもう婚約したんだ。このままだと、将来俺たちの子供が…」


言葉を終えないうちに、直樹の冷たい警告の眼差しにぶつかり、翔太は後半の言葉を喉に詰まらせた。


この同い年の叔父は、黒沢家で誰も手を出せない存在だった。黙って座っているだけでも、人を圧倒する威圧感を放っていた。


直樹は聞こえないふりをし、長い指で何気なくワイシャツの上から二つ目のボタンを外し、水の入ったグラスを手に取ると頭を仰いで一口飲んだ。


飲み込む動作と共に、色気を帯びた喉仏が上下に動いた——そこに浮かぶピンク色の歯形は深紅に変わり、明かりの下で異様に目立っていた!


泰三は激怒し、テーブルをバンと叩いた。「ふざけるな! 帰国した途端にふらふらしやがって! 昨夜はどこで何をしていたんだ!」


直樹がボタンを外したその瞬間から、奈美の心臓の鼓動は乱れていた。彼女は後ろめたそうにうつむき、頬が火照った。こんなことになるなら、昨夜、情熱に駆られて…あんなことをするんじゃなかった。


食卓の空気が一瞬で凍りついた。直樹だけが、まるで他人事のように振る舞っている。彼は椅子の背にもたれ、深い瞳を上げると、だらりとした、しかしはっきりとした口調で言った。「昨夜? もちろん、女を探しに行ってたさ。」


「お前は…」泰三は体面を気にして、怒りを必死に抑えた。


直樹は嘲笑した。「どうして皆、俺の結婚をそんなに気にするんだ? この飯、まだ食うのか?」


泰三は険しい表情で言った。「藤原さんが嫁に来たら、本宅に戻れ。家庭を持ったら、家業を継ぐ準備を始めろ。」


直樹の目には嘲笑が浮かんだ。青ざめた麻衣の顔を一瞥し、薄い唇を開いて、氷のような言葉を吐き出した。


「俺と結婚? あいつがふさわしいと思うか? 黒沢の家業にも興味はない。どうしても嫁が欲しいなら、お前が自分で取ればいい。」


泰三は怒りに震えてテーブルを叩いた。


「黒沢直樹!」



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