田中拓真がワイングラスを傾けながら、愚痴をこぼした。「俺ってツイてないよな? わざわざ千葉まで行ったのに、向こうはすぐに東京に戻っちまってさ。完全にムダ足だったよ」
思い出すだけで腹が立つ。あの日、彼はわざわざ千葉県で開催された『声優オーディション』の会場まで足を運んだ。しかし、開始早々、Twitterで「銀座ナイチンゲール」の投稿を目にしたのだ。「東京に戻りました」と。
まさか、遠路はるばる千葉まで人を探しに行って、すっぽかされるとは。時間を浪費した上に、ガソリン代まで無駄になった。
黒沢直樹は涼しい顔をしている。「お前、手下は大勢いるだろ。人探しなんて誰にでも頼めるじゃないか。自分で車を飛ばすからそうなるんだよ」
「だって、あの『銀座ナイチンゲール』って、なかなか口説き落とせないって噂だからさ。劉備の三顧の礼みたいに、俺が直接行けば誠意が伝わるかと思ってな」
田中はワインを一口含みながら言った。「ところが、影すら見えなかったんだよ。向こうは千葉にオーディションを受けに行ったわけじゃなかったんだ」
田中がまだぶつぶつ愚痴をこぼしていると、黒沢はTwitterからLINEにアプリを切り替え、早川奈美のアイコンをタップして、位置情報を送信した。
田中はそれに気づかず、続けた。「あの子って、世間ずれしてるんじゃないか? 俺が『声優を引き受けてもらえれば、ギャラはいくらでも出す』って言ってるのに、DMすらまともに返してこないんだぜ」
眉をさらにひそめて、彼は言った。「聞いた話だと、声優やってる連中って趣味でやってるんだろ? 俺の映画のキャラクターが気に入らないから、引き受けたくないのか?」
早川奈美からの返信を待つ間、黒沢は何度もトーク画面を開いては閉じた。しかし、スマホは相変わらず無反応だった。彼の心に理由もなくイライラが湧き上がり、口調も冷たくなった。「もしかしたら、DMなんて見てないんだろうな」
「え? DM見てない?」 田中の目が丸くなった。
「ああ。」 黒沢自身、DMはほとんど見ない。彼にメッセージを送る人間は多すぎて、Twitterを投稿する時しかアカウントにはログインしない。最初に登録した時は、ただ何かを書き留めておく場所が欲しいだけだったのに、思いがけず柳の下に泥鰍。数年でフォロワーが百万にまで膨れ上がってしまった。
その話になると、黒沢は数日前の朝に投稿したツイートを思い出し、何気なく開いてみた。
R:彼女との最初の朝
案の定、たった数日でコメントは数千件。好奇心から尋ねるものもあれば、彼の「片思いが実った」ことを祝福するものもある。黒沢は一つも返信しなかった。
彼にとって、こうしたネット上の人々は赤の他人だ。彼らに何かを説明する必要はない。このアカウントは、自分自身のために記録を残すためだけに開設したのだ。
コメントを流し読みし、終わろうとしたその時、彼の動きがぴたりと止まった。
一つのコメントがひときわ目を引いたのだ。
銀座ナイチンゲール:ハート
黒沢が長く黙り込んだ様子に、田中が怪しんだ。「どうした?」
黒沢は眉をひそめて尋ねた。「さっきお前が探してるって言ってた声優さん、名前は何だっけ?」
「銀座ナイチンゲールだよ! どうした?」
黒沢はそのIDをタップした。「これか? どうやらこいつ、俺をフォローしてるみたいだ」
田中はたちまち目を輝かせた。「じゃあ、早く連絡してくれ! 俺の映画の声優を頼んでくれって! ほらほら、スマホ貸せ、俺が直接言うから!」
黒沢がスマホを奪おうとする田中を見て、眉間がぴくっと動いた。素早くTwitterを閉じ、スマホをポケットにしまい、ロックをかけた。
このアカウントは彼の心のよりどころ。そこには十年にもわたる片思いの想いや、いくつかの……若気の至り、いわゆる「中二」な発言も書き残してある。ネット上ならともかく、現実で田中拓真という男に、ネット上で片思いごっこをしていることを知られたら、一生笑いものにされるに違いない。
取り損なった田中は驚きを隠せなかった。「おい、黒沢、それくらいの小さな頼みも聞いてくれないのか?」
「小さな頼み?」 黒沢はまぶたを上げ、淡々と言った。「そうだな、そんな小さな頼みすら満足に果たせない奴が、よくもまあ映画なんて撮ろうと思ったもんだな」
その言葉に田中の顔が曇った。「それは別の話だろ? 幼なじみの俺たちの仲じゃないか。DM一本送るくらいで、肉が落ちるわけでもあるまい?」
黒沢は黙ったまま、水の入ったグラスを手に取り、一口含んだ。
田中の目には、今日の黒沢はいつもよりずっと「よそよそしい」と映った。普段は兄弟分には結構義理堅いはずなのに。彼は話の矛先を変えた。「ところで、お前と早川奈美っていつ知り合ったんだ? お前が彼女のために帰国したってこと、彼女は知ってるのか?」
黒沢は依然として黙りを貫いた。
「言わなくてもわかるさ」 田中はからかうように言った。「お前が海外に行って十年、彼女はずっと国内にいた。きっと十年前に知り合ったんだろ」 彼はソファにもたれかかり、思い出しながら言った。「十年前……ちょうどお前の兄貴が脚を折って、お前が神奈川の中学校にやられた頃か?」
黒沢が否定しないのを見て、田中はますます調子に乗った。「まさかよ、黒沢? お前、ずっと片思いしてたんじゃないだろうな?」
黒沢はソファから立ち上がり、片手をポケットに突っ込みながら、低くかすれた冷たい声で言った。「ちょっとタバコを吸いに行く」
……
早川奈美の同僚たちの多くはすでに家庭を持ち、話題は子どもや教育、日常の些細な悩みばかり。彼女にはまるで話に入れなかった。とはいえ、そうした雑談を聞いていると、結婚しないのも悪くないと思えた。
ワインの後が回ってきたのか、早川奈美は途中でトイレに立った。
出てきた時、廊下の奥に黒沢直樹が立っているのが遠くに見えた。
白いシャツに黒のスラックス。片手を気ままにポケットに突っ込み、口元にくわえたタバコ。その横顔のラインは鋭く、禁欲的な雰囲気を漂わせていた。早川はこれまで数多くのイケメンを見てきたが、黒沢直樹の姿を見るたび、なぜか目がしばらく離せなくなった。その上品な気品は生まれつきのもののように思え、ひときわ目を引いた。
その時、背が高く、メイクも完璧な女性が黒沢に話しかけに来た。何を言ったのか、黒沢が突然笑った。女性はチャンスと見るや、さらに熱心にアピールし、指でそっと外を指さした。
早川は我に返り、すぐに視線をそらし、個室に戻ろうと足を進めた。
しかし、ちょうど黒沢のそばを通り過ぎようとしたその瞬間、彼女の手首が突然、強力な力で掴まれた。
黒沢が彼女の指を絡めながら、からかうような笑みを浮かべている。
ナンパしてきた女性は事情がわからず、首をかしげながら黒沢を見つめ、次に早川を見た。
黒沢は無邪気に肩をすくめ、少しだるそうでよそよそしい口調で言った。
「俺、そういうの好きじゃない。安易に付き合わないよ」
女性は諦めきれず、早川の顔を見つめて問い返した。
「じゃあ、彼女は?」
黒沢は指の力を強め、早川を自分のそばにぐっと引き寄せると、一語一語、はっきりと、そして疑いの余地もなく言い放った。
「俺の女だ」