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チャプタ―3

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 2019年5月12日 深夜



 サラは自分でも不思議に思う。

 あんな経験をしたのだから、もっと恐怖を感じてもよさそうなものなのに、今感じているのは気だるい疲れの混ざった安心感だった。怖い夢から目覚めたら、すぐそばに母親がいて、そっと胸を撫でながら子守唄を歌ってくれている、そんな感覚だった。

 車の窓枠に肘を乗せ、頬杖をつきながら微睡んでいたが、ハンナの悲痛な叫びで目を覚ます。

「どうしたの、ハンナ?」サラは目を擦りながら言う。

「ああ、よかった……」ハンナの声は震えていた。「どうしたの、じゃないでしょ。脳の障害で意識を失ったかと思ったじゃない」

「大丈夫だよ、心配しなくても」サラは応じる。

「心配するに決まってるでしょ!」ハンナは怒る。「夜遅くに帰ってきて、転落したって言うんだから!」


 アユミに送ってもらって家にたどり着いたサラは、心配して待っていた家族に、用意していた作り話をした。

 つい出来心でパルクールをやったら、足を踏み外して、脇腹と頭を打った、と。

 話し終わった次の瞬間には、サラは車に乗せられていた。そして今、こうして病院に向かっているところだ。


 父は正面を向いて運転に集中している。母は助手席から何度も後部座席を振り返り、サラの容態に注意を払う。ハンナと一緒に怒ることはしない。もっとも、今怒られないからといって、この件についてサラがお咎めなしということにはならない。病院から帰宅すれば、大目玉が待っているだろう。

 それでも、本当に起こった出来事を告白するのに比べたら、反省文と無期懲役くらい差がある。


 本当に起こった出来事――超能力者に殺されかけたこと。そいつが殺されるのを目撃したこと。


 車の窓から外の景色を眺めながら、サラは思い出す。

 超能力を使いすぎて“バッテリー切れ”になったところを、別の超能力者に襲われる。考えられる中でも最悪の事態だった。

 反撃を試みるも、“力”が使えなければ当然話にならず、秒殺でノックアウトされた。

 失神して、無防備な肢体を男に晒した。

 恥ずかしさと、情けなさと、後悔で、内臓がむず痒くなる。

 アユミ先生の教えを無視して調子に乗った結果が、このざまだ。


 その時の光景を頭の中で思い浮かべてみる――自分の目の前で仁王立ちをするあの男。全ての臓器が破裂するようなミドルキック。気を失う直前に見た、勝ち誇った男の笑み。

 想起することはできる。でもそれらは――どれほど恐ろしい体験だったとしても――記憶の奥から勝手に私の心に這い上がってきて苛むようなことはしない。


 それ以上に鮮明に、自然と思い出されるのは、全部、アユミの姿だった。

 私は、半分消えかけた意識の中で――断片的にだが――アユミが私を守りながら戦っているところを見ていた。

 男の腕を折り、突き飛ばすアユミ。

 ビルから投げ落とされた私を、身を挺して救ってくれたアユミ。

 男の体を崩壊させ、消滅させるアユミ。

 次の瞬間には、白衣の天使、ナイチンゲールのように私を介抱するアユミ。

 私の元に駆け寄ったときには、人殺しから普段の世話焼きなお姉さんに戻っていた。

 そして私は、彼女の手に身を委ねた。数秒前に男を破壊したその手に。


 そうだ。アユミは、私の目の前であの男を殺した。

 それも、傷ひとつ負わずに。

 私と話すときは、お堅い先生みたいな口ぶりで、「超能力は使うべきじゃない」だとか、「自警団みたいな真似はするべきじゃない」とか言ってたのに――アユミはその圧倒的な“力”で、強大な巨漢をまるで子供のようにあしらい、一方的に嬲って、殺した。

 本当に、アユミは強かったんだ。あの凶暴な男を、余裕で上回る暴力性を秘めていたんだ。


 恐怖を感じてしかるべきだとは思う。

 私はあの場で命を落としかけた。

 そして、友達――そう呼んでもいいのなら――が人を殺す瞬間を目撃した。

 それでも、不思議なことに、怖いと感じなかった。

 私を抱きしめたアユミの胸の温もりが、全てを上書きしてしまった。



 救急外来を受診し、当直医の診察を受け、CT検査を受けている間も、サラはそんなことを考えていた。

 細長い台に横たわり、円筒状の機械がサラの頭部をスキャンしている最中に、想像する。

 もしこの機械で脳内イメージが検出されてしまうなら……きっとそこには、アユミの背中とか、胸とかが写っていたりして。



 検査結果が出揃ってから、再度医師の診察がある。

 医師は家族の姿を見て、何語で説明すべきか迷っているようだったが、「日本語で大丈夫ですよ」とサラが言うと、安心したような表情で日本語で話し始める。家族の中ではサラと父――若い頃、日本に駐在経験がある――が、日本語を使うことができる。

 検査の結果、頭蓋骨の骨折や頭蓋内の出血はなさそうとのことだ。肋骨も骨折はないらしい。ただ、今後吐き気や意識障害、神経障害が出てこないか注意するように、との指導を受けた。

 あんなに殴られて、骨の一つも折れていないのは、自分の中にわずかに残っていた“力”が守ってくれたのだろうか、とサラは考える。




 深夜に家に帰ると、想定通り、今度は両親からの説教が待っている。

 説教自体は長くない。父も母も、いつまでも喋り続けるタイプではない。

 すぐに結論を言い渡される。

 門限。夜7時。

 サラにとっては懲役刑も同然だった。

「それって厳しすぎるよ」サラは抵抗を試みる。「もう、変なところを走ったりしないって、約束するから」

「前にも約束しただろう? それを破ったから、病院に行く羽目になったんじゃないか」

 父にそう言われ、サラは言葉に窮する。普通に考えれば、父の言い分のほうが100対0で正しい。

「……いつまで?」サラは訊く。

「許可するまで」父が答える。

「いつ許可してくれるの?」

「こっちで考える。別に一生そうしておくつもりはない。だが、今のお前は反省が必要だ」

「反省なら、もうこれ以上ないくらいしてます」

 父はため息をつく。

「サラ。よく聞きなさい。……お前が今こうして生きているのは、当たり前のことじゃない。分かるな?」

「わかってる」サラは俯く。「私は、あそこで死んでてもおかしくなかった」

「その通りだ。お前はやらなくてもいい無謀なことをやって、命をリスクに晒した」

 父の口から発せられる言葉が胸に重く刺さり、サラは息が詰まるように感じる。

 実際――さすがに家族には打ち明けられないが――私のやったことは無謀だった。人を助けようとして、結局自分が助けられる羽目になった。自分がどれだけ無茶をしたかは、身に沁みて実感している。

 それに続く父の言葉が、サラに追い討ちをかける。

「これまでは危険な目に遭っても、幸運がお前の味方をしていた。だが、これからもそれが続くとは限らない」

 その言葉は、サラの心の一番脆弱な、未だ癒えきっていない箇所に食い込む。

「“これまで”?」サラは父の言葉に噛み付く。「それは……あの高校で起きたことを言ってるの?」

 心の防衛機制が、サラに“怒る”ことを選択させる。

「あれが、“幸運”だって言うの……!?」

「ああ、そうだ」父はその怒りを正面から受け止める。「……確かに、あれは忌まわしい事件だった。だがそれでも、お前は助かった。それが幸運じゃなくて何と呼べる?」

 そう言う父の表情の深奥に、サラは苦悩を見てとる。娘を傷つけた苦悩。共通の記憶から消し去りたかった過去を、不意に呼び起こしてしまったことへの苦悩。

「その話は、したくない」

 それだけ言うと、サラは顔を手で覆う。

「やめにするか」

 父はそう言う。父自身、その話題から少しでも離れたいようだった。

 サラには理解できる。父は、決して私を傷つけたくてその話をしたわけではない。心の底から私のことを心配してくれているんだ。

「うん」サラは頷く。「門限は、ちゃんと守るから。……心配かけて、ごめんなさい」




 サラは自分の部屋に戻ると、Tシャツとレギンスを脱ぎ捨てて、下着だけの姿でベッドに倒れ込む。心も身体も消耗し切っていて、起き上がることもできない。

 眠りに落ちるまでのわずかな時間に、運について考える。

 第三者的な視点から見たら、きっと私の人生には不幸な出来事が多かったように見えるだろう。でも、極力自分の不幸については考えないようにしてきた。それに幸運だって、不幸に負けないくらい経験してきた。

 でも、高校のときの“あれ”は、違う。幸運なんかじゃない。

 そのときの感覚をサラは思い出す。

 存在を捉えられない何者かが、何かを成し遂げようと意思を固める、その決意や覚悟が伝わってくるような感覚。

 その“何か”が実行に移されると、恐ろしい暴力が出現し、巻き込まれた人間は死ぬか、ひどく傷つくか、いずれにせよ元には戻れない状態になる。

 確かに私は、生き延びた。でも、生き延びるべきだった人は、他にもたくさんいた。

 私が、すべきことをしなかったせいだ。“できる”ことを“しなかった”ために、人が傷ついた。

 もう二度と、こんな苦しい思いをするのはごめんだ。




 次の朝、サラは普段通り学校に行く。

 一晩寝たら、脇腹の痛みはほとんど取れていた。頭も、押さえると少しズキズキするが、そうしない限りは何も感じない。

 やはり、もらった打撃よりも、“力”の使い過ぎによる低血糖発作の方が、ダメージが大きかったのだろうかとサラは考える。

 今度から出歩くときは、アユミみたいにブドウ糖を持ち歩いた方が良いかもしれないな。

 というか、超能力のスタミナも、鍛えることができるんだろうか。例えば、走り込みに相当するようなことをしたりして。

 そんなふうに、気づけば超能力に関係することばかり考えている。


 学校は充実してる。日常生活になんの不満もない。

 ただ――非日常が濃すぎて、日常が霞んでしまうのだ。

 身体を〈強化〉して跳躍する建物。

 〈テレキネシス〉で飛びながら見渡す夜空。

 私の命を狙う、邪悪な敵。

 超能力の達人で、私の先生でもある、アユミ。




 サラは家に帰ってから、ハンナに誘われてニンテンドースイッチのフィットボクシングをやってみる。

 インドア派のハンナにとっては、家にいながら運動ができるので大満足のようだが、当然サラには物足りない。それでも、ハンナなりにサラのことを気にかけているのが伝わるので、一緒に参加することにする。

 二人で騒ぎながらやっていると、それはそれで楽しくなってくる。


 ひとしきり遊んでから、ハンナはサラに訊く。

「サラ、最近悩んでることない?」

「私が?」サラは何となく落ち着かなくなる。

「うん。なんかそんな気がする」

「悩み……門限があることかな」

「それは自分のせいじゃん」

「そうだけど」

「私が言いたいのはそうじゃない」ハンナは両手を胸の前で揃える。“これから重要な話をするぞ”というときに、いつもやるジェスチャーだ。「そのもっと前から、何か心ここにあらずって感じだった」

「そんなことない、と思う」

 サラは言い返すが、内心動揺している。

 隠し通さなければならない秘密があるということが、余計に自分自身をぎこちなくさせる。

 しかも、こういうときのハンナは、妙に勘が鋭いところがある。

「強いて言えば」サラは苦し紛れに付け足す。「得意だと思ってた技をミスって怪我したのがショックだった」

「でもそれって」ハンナは言う。「頭の中で違うことを考えてたからじゃない?」

「そんなことない、しばらくパルクールをやってなかったからだよ。この話はもう終わり、話題を変えよう」


 サラは頭をフル回転させて、次に何の話をしようか考える。今読んでる本? ネットフリックスの新作? それか、一緒にエーペックスレジェンズでもやる?

 何でもいい。とにかく、私とアユミの“課外活動”を悟られないような、なるべく関係のない話題がいい。


「じゃあ話題を変えるけど」ハンナは言う。「最近アユミとは連絡取ってるの?」

 いや、その、話題が変わった感じが全くしないんだけど……?

 サラは自分の表情が強張るのを感じる。

 そして、表情の変化をハンナが観察していることに気づく。

「別に、取ってないかなあ」サラはついハンナから視線を逸らす。

「何かあったの?」ハンナが訊く。「旅行中とか、アユミから来たメッセージを見せてくれたりしてさ、嬉しそうだったじゃん。急に連絡取らなくなったの?」

「いや、そういう訳じゃ……」

「思い返したら、連休の初日、アユミと会った時から、サラは何か浮ついた感じがしてた」

「うーん……」

 サラは言葉に詰まってしまう自分自身を呪う。もっと息をするようにすらすらと嘘をつける人間になりたかった。


「サラ。悩んでたら抱え込まないで」

 ハンナが言う。

「アユミと何かあったんじゃないの?」

 サラは唾を飲み込む。

 いや、そりゃもう、色々ありましたよ。

 ついこの前も、超能力を使う暴漢から守ってもらったところですよ。

 ――さすがに、そんなこと、言えるわけない。

 でも、「アユミとは何もなかった」と言って、ハンナを納得させる自信はなかった。

 すでに動揺を見せすぎているのは、自分でもわかる。嘘発見器にかけるまでもない。

「アユミと何があったの?」

 ハンナに訊かれ、サラはため息をつく。

 アユミ。ごめんなさい。

「ハンナ。実はね……」

 サラは語り始める。

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