2019年5月14日
杏子は午前8時に起床する。
顔を洗い、服を着替える。オートミールに牛乳を注いで電子レンジにかけ、その間にハムと卵を焼く。インターネットラジオでニュースを聞きながら、オートミールのミルク粥とハムエッグを食べる。食器を洗い、歯を磨き、軽く化粧をして家を出る。
これが朝の日課だった。もっとも、生活のリズムは不規則になりやすく、日課通りにいかないことも多い。特に仕事の性質上、夜遅くまで、ときには夜通し働かなければならないことだってある。
例えば、12日の夜のように。
武政瞳を殺した後、すぐに杏子は亡骸を抱えて人目につかないビルの屋上に移動した。
そこで武政が身につけていた携帯電話と財布、キーチェーンを回収すると、ビルの屋上から死体を投げ落とした。
そして、瀬崎と石井の待つ探偵事務所に戻ると、武政の所持品を確認し、彼女から得た情報を共有した。
それから先は、石井の役割だ。
この後、地面に叩きつけられた武政を誰かが発見し、警察を呼ぶだろう。そして、石井がその件の担当を引き受ける。死体を検分し、現場検証を行った石井は自殺と判断し、報告書を作成する。
これでこの件は終了になる。そういう計画だ。
それから残務処理を行い、結局家に帰ったのは13日の朝だった。
その日は休暇を取っていた。杏子としては、何か仕事をしている方が気が紛れるように思えたのだが、瀬崎から休むように言われたのだ。
休める時に休め、と瀬崎は言った。体調管理もプロの仕事の一部だ、と。
そう言われると、杏子としても反論し難かった。なので、何かあったらすぐに連絡するようにお願いした上で、休むことにした。
昼過ぎまで睡眠をとってから、皇居のまわりを何周か走り、ストレッチと筋トレをした。それから長めに湯船に浸かり、一人で水炊き鍋を作って食べ、しばらくオーディオブックやポッドキャストを聴いてから就寝した。
そして、14日の朝を迎える。
自宅を出た杏子は、歩くのに合わせて呼吸をしながら、全身をスキャンするように感覚を行き渡らせる。不必要な力みのない、快適な全身状態だった。やはり一日休んで正解だったのかもしれないな、と思う。
探偵事務所に着くと、瀬崎が杏子に声をかける。
「昨日は、ちゃんと眠れたか?」
「はい、おかげ様で」杏子は頭を下げる。
「大丈夫か?」
瀬崎が聞いているのは、体調についてだけではないということは、杏子にもわかっていた。
他人の命を奪ったという事実が、私の心に残した影響について気にしているのだろう。
「大丈夫です」杏子はそう答え、もう一度頭を下げる。
実際、大丈夫なのだ。人を殺めたことで心が掻き乱されたり、殺した相手が夢に出たりするようなこともない。罪悪感を感じないわけではないが、それに心が支配されることはない。それが自分にしかできない仕事なら、自分がやるしかない、と諦めている。自らの手が汚れていることもわかっているが、今更、という感じだ。
武政瞳と交わした、色についての会話を思い出す。
黒のままでいいと言った武政に対して、少しでも明るいグレーを目指すべきだ、と私は言った。
それは私の、嘘偽りない本心だった。
でも一方で、武政の言うことも理解できた。
一度手を汚してしまえば、追加で汚れる分はあまり気にならない。
そして――“力”に気づいたそのときから、私の手は汚れている。
……こんな話は、他人には理解してもらえないだろうし、あえて説明するつもりもないが。
瀬崎は杏子の顔を見て、そうか、と呟く。
「新しい仕事の依頼はありますか?」杏子が訊く。
「浮気調査が一件、いじめ調査が一件」瀬崎が言う。「でもいいのか? まだいるんだろ、相手しなきゃならない奴が」
確かに、まだ対処すべき超能力者がいる。
今仲を含めた6人を意識不明にし、武政の兄を殺害した超能力者。
「伊関、そっちに専念したらどうだ。他の仕事は俺でもできるけど、そっちはお前にしかできないだろ」
杏子は瀬崎を見る。
「そうさせて頂きます。ありがとうございます」
少し残っていた書類業務を片付けてから、杏子は事務所を出る。
新宿区役所通りに沿って、雑居ビルやビジネスホテルが立ち並ぶのを抜けて歩いていると、やがてコンビニが見えてくる。
そこに黒のランドローバー・ディスカバリーが停まっている。
杏子が助手席に乗りこむと、ディスカバリーはゆっくりと発進する。
「どうだった?」運転しながら颯介が訊く。
「武政瞳は、やった」杏子は正面をみたまま答える。
「そう」颯介も前を見たまま呟く。
エンジン音が、車内の沈黙を埋める。
「今仲は武政の部下だった」杏子は話を続ける。「ヘマをして病院送りになったから、そこで余計なことを喋る前に口を封じた、ということらしい」
「大丈夫か?」颯介は会話の流れを切る。
「何が?」杏子は颯介に視線を向ける。瀬崎にも同じ質問をされていた。杏子は気を使われることに居心地の悪さを感じてしまう。
「大丈夫ならいい」
「続けていい?」
「いいよ」
颯介が頷くと、杏子は話を続ける。
「武政のグループの残党は、警察に任せる。関わってる超能力者は、多分全員無力化されたと思うから」
「兄貴の方は、超能力者じゃなかったのか?」颯介が訊く。
「武政陸斗も超能力者だった」杏子は一呼吸置く。「でも“痕跡”を残して、消えた。きっと殺されてる」
颯介の目が険しくなる。
「お前以外の誰かがやったのか」
「やったのは、最初に今仲たちを襲ったのと同じ奴だよ」
「……そこに繋がってくるのか」
杏子は頷く。
パズルは完成に近づいている。あと一つ、最大のピースが揃えば、全体の絵が浮かび上がる。
「颯介くん、《|裂羅卍蛇《サラマンダー》》って知ってる?」
杏子はその組織の名を瞳から聞いていた。武政兄妹の弟を殺害した組織。そして兄妹の復讐により、多数の死者を出している。最近は派手な抗争はないが、敵対関係は続いているという話だ。
「知らない奴の方が少ないよ」颯介はふっと笑う。
「武政のグループとも抗争があったとか」
「ああ。ただ武政の弟を殺したのは、《|裂羅卍蛇《サラマンダー》》の下部組織みたいな連中だ」
「弟が殺されたこと、知ってたの?」
「調べたよ。それで、殺した連中自体はちっぽけなグループで、本部とも関係はほとんどなかった。《裂羅卍蛇》の名前を出して、粋がってただけの小物だ」
「だから、そいつらが皆殺しにされるのを本部は見殺しにした?」
「いや、見殺しにしたわけではないだろ。どんなショボい奴らだったとしても、自分達の子分にあたる連中が皆殺しにされて、何もしないとなると、面子に関わるからな」
「じゃあ、やはり報復の機会を窺ってた?」
「攻めあぐねてたんだと思うぞ。一歩間違えたら一瞬で返り討ちだからな」
「《|裂羅卍蛇《サラマンダー》》側には、超能力者はいないの?」
「噂レベルだが、いるらしい。それ以上は、俺も知らないな」
「……今回の武政殺しに、《|裂羅卍蛇《サラマンダー》》が関わってる可能性は?」
「限りなく低いと思う。あいつらの主な拠点は新宿や六本木で、渋谷に進出するという話は聞かない。……それに、トップは今日本にいないからな」
「いないって、どういうこと?」
「海外に渡航してるらしい。理由は知らないけどな。とにかく、《|裂羅卍蛇《サラマンダー》》側としても、トップ不在の状況で抗争を起こそうとは思わないはずだ」
「そうか……」
杏子は軽く溜息をつく。有力な情報かと思ったのだが。また別の線を考えなければならない。
「なあ杏子」颯介が言う。「別の可能性はないか?」
「別の可能性?」杏子が聞き返す。
「そいつもお前みたいに、悪党退治をしてるだけ、とか」
「流石にそれはない」
杏子はそう言って首を振る。しかし、その次の言葉に詰まる。
そこで、颯介の仮説を否定できる確実な根拠を持ち合わせていないことに気づく。
「何でそう言い切れる?」颯介は首を傾げる。
「いや、断言はできないけど……」杏子は言葉を探す。「それでも、根拠の乏しい楽観は危険だよ」
「それはそうだけどな」颯介は肩をすくめる。
杏子は思い出す。渋谷の路地で、ビルの隙間で感じた“痕跡”の感覚を。そして、その持ち主がどんな人物か想像してみる。
姿形は浮かび上がってこない。それでも、その存在は杏子の心をざわめかせる。
「現場に残された“痕跡”から、犯人について推測できることがある」
杏子は言う。
「どちらの現場でも、やった側の超能力の出力に全然乱れがなかった。やられた側の“痕跡”は、まるで断末魔みたいに、暴走状態だったのに。直接見たわけじゃないけど、一方的な戦いだったと思う……戦いと呼べるかわからないくらいに。犯人は、並の超能力者では相手にならないくらい、桁違いに強い」
颯介は杏子の話に耳を傾けながら、車のハンドルを操作する。
「それに、超能力の出力が乱れないということは、精神的な緊張の少なさを表してる。犯人は、人を殺したり傷つけたりすることに躊躇してない。きっと、そういうことに慣れてるんだ」
颯介は前を向いたまま頷く。表情は変わらない。ただ、内心の緊張は杏子にも伝わる。
「お前、そいつとも戦うのか?」颯介が訊く。
一瞬、武政瞳の声が杏子の脳裏に蘇る。
――もし兄を殺した奴を見つけたら、私の代わりにそいつを殺して下さい。
「そいつがどんな奴かによる」杏子は答える。「でも、その覚悟はしてる」
颯介と別れた後、杏子は自分自身に問いかける。
彼が提示した可能性――今仲を傷つけ武政を殺した犯人も、悪党退治をしていただけだという可能性。私は、どうしてそれを条件反射的に拒絶したのだろう。
もしそれが当たっていたら、歓迎すべきことだ――治安を守る人間は、多い方が良い――なのに、咄嗟に受け入れられなかった。
そもそも、同じようなことをしている超能力者が他にもいることを、想像すらしたことがなかった。こんな活動をしているのは自分一人だと、ずっと思っていた。
杏子は深く呼吸しながら、全身の感覚をスキャンする。
胸の奥に、しこりのような感覚がある。
そこに手を当てて、しこりの中に空気を浸透させるように、ゆっくり息を吸い、吐く。
それを繰り返す中で、本来のコンディションを取り戻していく。
杏子は再度、犯人の“痕跡”を思い出す。
まだ、相手が何者かはわからない。わからないものに対して、憶測や推量をしても仕方がない。でも、すぐに正体を突き止めてやる。
犯人と対峙する瞬間を脳裏に描く。
もし相手が襲ってきたら?
――望むところだ。私は決して遅れを取らない。返り討ちだ。
もし相手が、街の平和を守る“正義の味方”を名乗ったら?
――飼い主のいない番犬は、ただの野犬だ。私がそいつに首輪をつける。
今日のあいつ、なんか少し違ったな。
運転しながら颯介は思い返す。捜査の対象に、あんなふうに執着する杏子は初めて見たような気がする。いつもは淡々と、それこそウーバーの配達くらい淡々と、仕事をこなしていくのに。
ただ、心配しているかと言われれば、別に心配はしていない。
あいつはあの犯人をえらく買っているようだが、俺に言わせれば、杏子こそが化け物だ。あいつが他の超能力者に負ける姿は、ちょっと想像できない。
なぜか。一度体験したらわかる。
——あいつには、超能力そのものが通用しないからだ。
なので、戦闘は杏子に任せて、颯介は自分の仕事である情報収集に専念することにする。これがギブアンドテイク、持ちつ持たれつ、だ。
颯介が駆るランドローバー・ディスカバリーは角を曲がり、人気のない細い道路に入る。
その先、車道の中央に、スーツ姿の男が一人立っている。
そいつがただの通行人ではないのは一瞬でわかった。首から上、頭部全体を、ゴム製のリアルな雄鶏のマスクで覆っているからだ。
颯介はそのマスクを観察する。表情のない、焦点の合わない雄鶏の目に開けられた穴の内側から、蛇のような視線を感じる。
雄鶏マスクの男は“止まれ”とジェスチャーをするかのように、ゆっくりと両手を前にかざす。
その瞬間、颯介は“気配”を察知する。自分に向けられた、攻撃的な“気配”を。
「くそっ…!」
車を止めれば逃げられない。こいつを跳ね飛ばすしかない。
咄嗟にアクセルを踏み込み、スーツ男に突進する。
車は男には当たらない。
男が手を振り上げた瞬間、ディスカバリーは離陸し、男の頭上を飛び越えていく。
車の上下が逆になる。
宙を舞いながら、颯介は悔やむ。
あいつのことより自分の心配をもっとすべきだった。
ディスカバリーはルーフから道路に叩きつけられ、動かなくなる。マスク男は駆け足で上下逆になった車に近づく。
運転席に、頭から血を流して動かない青年の姿を見る。
顔を確認し、庵原颯介であることを確かめる。
標的確保だ。こいつからは、色々と聞かなければならないことがある。
一度周囲を見回し、目撃者がいないことを確認してから、〈念動力〉で車のドアを開ける。
そこにはもう、青年の姿はない。
男は首を傾げる。
周囲には人間の姿はない。“気配”もない。
車から漏れたオイルの臭いが周囲に満ちる。
帰宅した杏子のスマートフォンが鳴る。
「襲われた」通話に出ると同時に颯介が言う。
杏子は息を呑む。「大丈夫なの……?!」
「何とか。車は駄目になったけどな」
「襲ったやつに心あたりは?」
「ない。すまないが俺は降りる。ほとぼりが冷めるまで身を隠す。じゃあな」
「わかった。ここまでありがとう。……最後に、襲われた場所だけ教えて」
颯介は車を破壊された場所を伝えて、電話を切る。
杏子は家を飛び出し、その場所に向かう。