2019年5月19日
亜由美は洗面台の鏡に映った自分の顔を見る。
表情筋を動かし、笑顔を作ってみる。
一週間前のあの夜から、亜由美はまとまった睡眠が取れていなかった。昨日になってようやく、4時間ほど通して眠れるようになったくらいだ。そのせいで下瞼は充血して腫れているが、なんとか化粧で誤魔化せている。
うん。別に変じゃない。
少なくとも、人殺しの顔には見えないはずだ。
集中力も、少しずつ戻ってきていた。これから小一時間、ピアノを演奏するくらいなら余裕だ。
亜由美は手を洗ってから、軽く指のストレッチをする。
呼吸を整えると、化粧室を出る。
亜由美の所属するジャズ研は、毎年五月に行われる学園祭で生演奏ジャズ喫茶を企画している。
その日は大学の講義室を一つ貸し切り、即席のライブハウスに模様替えする。そして部員で組んだバンドが一組ずつ演奏を披露していくことになっている。
控えのスペースには、一緒に演奏するメンバーが揃っていた。ドラムに、ベースに、ギター、そしてテナーサックス。全員亜由美と同じ二年生だ。
セットリストやソロの順番などを確認しているうちに、出番が回ってくる。
ステージに立ち、客席を見渡す。観客はまばらで、ほとんどは奏者の友人だろう。
「あの女の子、モデルみたいじゃない?」
誰かが呟く。
亜由美はその子と目が合う。
サラ・アーヴィン。
私を除いて、あの日の出来事を知っている、ただ一人の生き残り。
サラはステージ上のアユミを見つめる。
アユミは穏やかな表情で、背筋を伸ばして椅子に腰掛ける。口元に微笑みを浮かべて、他のメンバーとアイコンタクトを取り、演奏を始める。サラはその曲を聴いたことがあった。アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの『ウゲツ』という曲だ。
サラ自身は楽器を演奏することはないが、小さい頃から合唱団で歌っていたし、バンドでボーカルをしていた時期もあった。母が教会でピアノを弾いていたというのもあり、音楽に触れる機会には恵まれていた。
上手なピアニストの演奏もたくさん聴いてきたが、それらと比べても、アユミのピアノは決して負けていないと思う。テクニックもタイムも安定しているし、他のメンバーの音を聴いて合わせるのも上手い。無駄な装飾音は使わないし、ペダルも必要なところでしか踏まない。“何をすべきか”だけじゃなくて、“何をしないでおくべきか”も理解してやってる、そんな演奏だ。
何となく、バーテンダーとして客の応対をしていたときのアユミに似てるなとサラは思う。そつがなくて、穏やかで、受容的なアユミ。これが、いつも彼女が他者に見せている面なのだろう。
私は、アユミの“別の面”を知っている。その面には、勇猛で無慈悲な武人が映っている。
どちらが本当の姿だろうかという疑問が脳裏に浮かぶが、すぐにそれをかき消す。それは無意味な問いだ。どちらも本当のアユミだから。
テナーサックスがソロを終え、ピアノの順番が回ってくる。アユミはここまでの演奏で作り上げてきた曲の雰囲気を壊さないような、抑制の効いた調子でソロに入る。主題の雰囲気を残しつつ、少しずつアドリブを発展させていく。ギタリストと目配せをして、コール&レスポンスに興じる。そして気づけばアユミの空間が完成している。
二コーラス目に入り、ソロが徐々に複雑になっていく。アユミは楽しそうにノリながら鍵盤を叩く。どんなに難しいことをしていても、それをひけらかさずに、さりげなく弾ききってしまう。
ソロの終わりが近づくと、少しずつ緊張を高めていって、バンド全体で盛り上がる瞬間を作ってから、ベースのソロに繋げる。客席から拍手が起こる。
サラも他の観客と一緒にステージに拍手を送る。そうしながら、少し想像してみる。“別の面”のアユミなら、どんなふうにピアノを弾くのだろうか。内に秘めた熱や激情、闘争心が、どんな音になって放たれるのだろうか。
アユミ達のバンドの演奏が終わりに近づくにつれて、サラは落ち着かない気持ちになってくる。
そうだ、今日はただライブを見にきたわけじゃない。
この後アユミと、とっても、とっても重要な話をしなければならない。
出番を終えて片づけを済ませてから、亜由美はサラと合流する。
「アユミ、格好良かった」サラはそう言って笑顔を見せる。
「そう?」亜由美は素気なく答える。が、内心悪い気はしない。
「本当だよ。一番上手だったし」
「お世辞はいいって。さ、行こう」
なるべく知り合いに見られたくないので、すぐにキャンパスの外に移動する。
「あれから大丈夫だった?」
歩きながら亜由美が訊く。サラと会うのは、あの夜以来だった。
「うん」サラが頷く。
「ちゃんと病院行ったよね?」
「行ったよ。CTも撮った。何もないって」
それを聞いて亜由美は安堵する。良かった。
「家族はあなたの説明を信じた?」
「え?」
「ほら、パルクールで怪我したことにしたじゃない」
「ああ」
「さすがに“力”のことはバレてないよね?」
サラの返事がワンテンポ遅れる。
「まあ……うん」
亜由美はサラの口調に一抹の不安を覚える。
二人は上野恩賜公園まで歩き、園内のカフェに入る。
「あのさ、アユミ」
席につくと、サラが口を開く。真剣な表情だ。
「あの時、助けてくれてありがとう。……ちゃんと、お礼を言えてなかったから」
「いいよ、そんなの」亜由美は首を振る。「あなたが無事なら、それでいい」
「アユミは……大丈夫?」
「うん、無傷。ノーダメージ。ほら」
亜由美は両手を広げてみせるが、サラは気まずそうに俯いている。
「それだけじゃなくて……あなたは、私を守るために、あいつを……」
そういうことか――亜由美は軽く息をつく。
「そうするしかなかった。友達の命と暴漢の命、どっちかを選ばなくちゃいけなかった。それで私は友達の命を選んだ。あいつは気の毒だけど……仕方がなかった。受け入れるしかない」
「アユミ……ごめんなさい」
「謝らなくていい。どうせあいつだって超能力で好き放題やってたんでしょ。殺されても文句言えないよ。恨みっこなし。ただ……」
亜由美は一呼吸置いて続ける。
「ルールが通用しない、警察にも弁護士にも守ってもらえない世界、自分の身は自分で守るしかない世界――超能力を使う人間が生きていくのは、そういう世界だと思う。責任だって全部自分にかかる。あいつみたいな、弱い奴が負けて死ぬのも、自己責任。そんな世界に足を踏み入れるのには、それ相応の覚悟が要る。今回の件で、あなたもそのことを学んでくれたらいいと思う」
サラは俯いて聞いている。
「ま、この件はもう終わり」亜由美は声のトーンを明るくして、ぽん、と手を叩く。「まだ今仲を殺した奴がいるかもしれないけど、“気配”は感じない。こっちが超能力を使わなければ、多分大丈夫。でも念のため、あの辺には近寄らないようにしてね」
「わかった」サラは視線を落としたまま頷く。
それから二人は話題を変え、しばし雑談に花を咲かせる。亜由美は日本の大学生活の話をして、サラはアメリカの高校生活の思い出を語る。それから音楽の話、映画の話に、友人の話、ボーイフレンドの話。
その間ずっと、亜由美はサラの様子が気になっていた。言いたいことがあるのに、言うのをためらっているようだった。
亜由美は話を振ることにする。
「サラ、何か話したいことがあるんじゃない?」
「……わかる?」
「わかるよ。サラは顔に出るから」
サラはため息をつく。それから大きく深呼吸をする。
「アユミ。私はあなたに、返せないくらいの借りがある。その上でなんだけど……頼みがあるんだ」
「どしたの、そんなにかしこまって」亜由美は首を傾げる。
「順を追って話すね」
サラはもう一度深呼吸をして、話し始める。
「あの日の夜、私はパルクールで怪我をしたことにして、家族に説明した。めちゃくちゃ怒られたけど、みんな私の話は信じた。その日はそれでよかった」
「うん。それから?」
「でも、ハンナが疑い始めたんだ。ただ怪我をしただけじゃない、私に何か、別の悩み事があるんじゃないかって。ハンナはそういうところがあるんだ、勘が鋭いというか……」
それだけとちゃうやろ、と亜由美はツッコみたくなるのを堪える。サラ、思ってること大体顔に出るもん。
「それで……」サラは唾を飲み込んでから続ける。「私とアユミの関係を疑い始めたんだ」
「ちょっと待って」亜由美は声を上げる。「なんで私が出てくるの?」
「旅行のときとかに、あなたとメッセージのやり取りしてたのを、ハンナも知ってるから。それで、問い詰められて、つい……」
「ちょっと待って、ちょっと待って」亜由美は椅子から腰を浮かせる。「まさか……話したの?」
「いや、“力”のことは話してない」サラはぶんぶん首を横に振る。「嘘をついて、納得させた」
亜由美はため息をついて、椅子に座り直す。
「ちょっと……ビビらせんといてよ」安堵からか、笑ってしまう。「マジで焦ったわ」
サラの顔を見る。怒られるのを待っている子供のような表情になっている。
「どないしたん?」
サラは固まったままだ。
亜由美は嫌な予感を覚える。
「嘘って……どんな嘘ついたん?」
サラが意を決して言う。
「ハンナに言ったんだ……アユミと付き合い始めたって」
一瞬、二人の間に流れる時間が止まる。
「……ん?」亜由美はすぐに理解が追いつかなかった。「……どうなったらそうなる?」
サラは申し訳なさそうな顔で、上目遣いに亜由美を見る。
「たまたまお店で出会ったバーテンダーに一目惚れして、その後も一人で会いに行って、連絡先を教えてもらって、それで付き合うことになった。でも女の子同士で付き合うって、実際やっぱり変なのかなって一人で悩んでた。そうハンナに説明したんだ」
「……なるほど~」亜由美はそう呟いて、ゆっくり頷く。咄嗟にそんなリアクションしかとれない自分が少し情けない。
「……大丈夫?」サラが心配そうに尋ねる。
「うん。わかった、何となく」亜由美は頭の中で話を整理し、納得する。「で、ハンナさんは信じたの?」
「信じてくれた。すごく理解してくれて、協力的だった」
「それは、よかった」亜由美はふう、と息を吐いて微笑む。一瞬面食らったが、落ち着いて考えたら、かわいらしい嘘じゃないか。
「家族全員、協力的だった」サラが続ける。「どれくらい協力的かっていうと、家に招待したいって言うくらい」
「……ん?」
「アユミ、頼みがあるの」
サラは祈るようなポーズをとる。
「恋人のフリをして、私の家に来て欲しいんだ」