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 2019年5月22日



 横野には、上司の死を悼む余裕は与えられていなかった。

 公式には、武政瞳は飛び降り自殺をしたことになっていた。もちろん、彼女を知る人間は誰一人それを信じてはいない。

 しかもその日から、武政陸斗“社長”とも連絡が取れなくなった。誰にも行き先を告げず、忽然と消えたのだ。“社長”と最後に会ったとされるホスト崩れは、4階から転落して意識不明のままだ。


 兄の失踪に、妹の死。

 それは《LPグループ》の終焉を意味していた。

 瞳は部下である横野に言った――何かあれば、後のビジネスは任せる、と。

 無理な話だ。この組織は、武政兄妹の能力――頭脳、カリスマ性、そして何よりも、圧倒的な暴力――に依存していた。二人のいない《LPグループ》は、信長が死んだ後の織田家のようなものだ。崩壊することが運命づけられている。今まで築き上げてきたシマは、すぐに他のヤクザや半グレによって奪い合いになるだろう。川に落ちた仔牛がピラニアに喰われるように。


 横野は自分が生き延びる道を考える。

 これまで通り裏風俗ビジネスを続けていくのは、不可能だ。確かに武政瞳の元で店の経営を任されていたし、金庫番の仕事も引き受けていた。でもそれを続けられたのは、バックにある武政兄妹の評判――“あいつらを怒らせるとヤバい”という評判が後ろ盾にあったからだ。それがなければ、暴力をバックにやってくる連中には歯が立たない。

 じゃあ、どこか他の組織に頭を下げてケツを持ってもらうか。それも難しい。武政陸斗の部下は、忠誠心が強くて血の気の多い奴が多い。武政以外の人間の下につくくらいなら戦って討死する方を選ぶような連中だ。そいつらを説得するのは骨が折れるし、下手すれば自分の命が危ない。


 結局、最善の策は、一抜けしてどこか別の土地でやり直すことだ。

 必要な金ならある。グループの金庫番の役得として、頂いていけばいい。

 頭の中で、どうするかは決まっていた。あとは、いつ実行するかだ。




 そんなことを考えながら、横野は普段と変わらない様子で傘下のクラブに行く。

 その日はオールジャンルのイベントで、若い客がフロアで騒いでいる。プロ顔負けのダンスを披露する奴。片っ端からナンパしまくる奴。ショート丈のTシャツを着て、ヘソを出して踊る女子。その右腰に、薔薇のタトゥーがちらりと顔を見せる。

 普段なら一緒になって盛り上がるところだが、今はそんな気分になれない。


 奥の事務スペースに入ると、支配人の長倉が現れる。仕立てのいい白シャツに光沢のあるシルバーのベストという服装で、髪はがっちりジェルで固めている。

 長倉は横野の後輩で、以前は同じ店で働いていたこともあった。仕事以外でもときどき食事をする仲だ。表向きはクラブのオーナーとして働いているが、裏稼業もいろいろと請け負っていて、武政兄妹ともよく密会をしていた。長倉の裏の業務については、横野も断片的にしか把握していなかった。


「店の方は大丈夫か?」横野は挨拶がわりに尋ねる。

「今のところは」長倉は答える。「“社長”のこと、何か聞いてますか?」

「いや」横野は首を横に振る。「今部下たちが血眼になって探してるところだ」

「もう一週間経ちますよね」

「そうだな」

「つまり……最悪の状況も考えないとですよね」

「それは上が考える。お前は店を回すことを考えろ」


 横野は平静を装い、仕事の話を続ける。

 怪しまれないようにするためには、普段のように仕事をする必要があった。

 いや、武政瞳が死んだ分、普段の倍働く必要があった。

 そのせいでだいぶ時間がかかったが、逃亡計画の方も完成した。

 決行は今晩だ。

 明日の朝には、俺は全ての痕跡とともにこの街から消えている。




 横野はふとフロアの方向に目をやる。

 聞こえる叫び声が、歓声から別のものに変わった気がしたからだ。

 その直後に、クラブのセキュリティの一人が顔色を変えて入ってくる。

「すいません、応援をお願いできませんか」

「どうした」横野はその男を見る。「何があった」

「催涙スプレーを撒いた奴がいまして……」

「誰がやった?」

「すいません、よく見えなくて」

 次の瞬間、ガラスの割れる鋭い音と悲鳴が響く。

「応援はなんとかするから、お前も行ってこい!」

 横野はセキュリティの男を叱咤し、フロアに追い返す。

「横野さん、逃げましょう」長倉が立ち上がる。「瞳さんや“社長”を襲った奴らだったらまずいですよ」

 横野はどきりとする。

 トップ二人の次に、金庫番である自分が狙われるのはあり得る話だ。

 襲われる可能性を想定していなかったわけではない。だが、危機が現実のものとして迫ってくる感覚は、想像以上の恐怖をもたらす。

「くそっ」横野は口の中で呟く。こんな事態になる前に、逃げるべきだったんだ。

「こっちに来てください」長倉は横野に手で合図をする。「誘導するんで、裏口から逃げましょう」


 横野が事務スペースから出る瞬間、フロアが視界に入る。

 ピエロの面を被った男が、バーカウンターの上に立っている。

 客は混乱状態で、我れ先にと出口に押し寄せている。

 携帯のスクリーンがちらちらと光る。動画を撮っている奴がいるらしい。

 さっきのセキュリティが、金属バットで頭を割られる瞬間が目に入る。

 今まさに、武政の帝国の終焉を目撃しているのだと、横野は思う。

 長倉が横野の腕を掴み、出口に引っ張っていく。


 裏口の扉から出たところで、横野は頭に強い衝撃を受ける。

 地面に倒れ、転がりながら、涙で霞む目で周囲を見回す。

 思い思いの仮面を被った男たちが取り囲んでいる。

 しまった。挟み撃ちか。

 そう思った直後、長倉が男たちと共に自分を見下ろしているのに気づく。

 横野は悟る——俺は、嵌められたんだ。

「お前、何のつもりだ!?」

「最悪の状況を考えたんですよ」長倉は表情を変えない。「社長も瞳さんもいなくなれば、このグループはお終いだ。それなら、他所の連中より先に金庫番であるあんたから金を奪ってしまえばいいと思いましてね」

「そんなことしてタダで済むと思ってんのか」

「金を奪ったら、俺も姿を消しますよ。クラブが襲われ、支配人と組織の金庫番が行方不明。周りはみんな、俺も被害者側だと考えるでしょう」


 クラブの襲撃も、全部長倉の自作自演だった。

 横野は自分の愚かさに笑いそうになる。身内に狙われる可能性を、どうして第一に考えなかったのか。織田家だって、秀吉に潰されたようなものだったじゃないか。

「ま……ちょっと、待ってくれよ」

 生き延びるために何を話すべきか、痛む頭をフル回転させて考えるが、一言も思いつかない。

「これから金の在処を喋ってもらうために、あんたを拷問にかける。すぐに死にたくなるだろうが、洗いざらい話すまでは死ぬことも許さない」

 長倉が告げる。

 黒い布袋が、横野の頭に被せられる。






 2019年5月23日 朝



 石井が渋谷駅で待っていると、伊関杏子が現れる。

 あの一件以降、石井は瀬崎を介さずに伊関と会うようになっていた。瀬崎はどうやら最初からそういう形に持っていくつもりだったようだ。曰く、「現場にいたところで超能力者相手にできることはないし、警察の人間と伊関をつなぐまでが俺の仕事ってことにする」らしい。


 そんなわけで、石井と伊関は二人でクラブに向かう。前日の深夜に暴行事件が起きた現場だ。

 セキュリティは催涙スプレーを浴びせられ、特殊警棒や金属バットで殴られ、スタンガンで無力化されていた。全員が重症で、半分はまだ意識不明だ。支配人の長倉は行方不明で、誘拐されたものと推測されている。

 手際の良い、組織的な犯行だった。

 だが、石井にとって何より重要なのは、そのクラブの支配人が《LPグループ》――武政が率いていた半グレのメンバーだったということだ。

 武政瞳は伊関によって殺された。それは知っている。だが、武政陸斗を殺した人間は、まだ見つかっていない。もしそいつが武政たちと敵対する組織の人間だとしたら、今回の件にも何らかの形で関わっているのではないか。何らかの手がかりを残している可能性はないか。

 石井はそう考えて、伊関を呼んだのだ。


 伊関はクラブの入っているビルの入口正面に立つと、そのまま瞑想状態に入ったかのように、じっと動かなくなる。目は開いているが、どこか別世界を眺めているようだった。

 しばらくそうした後、伊関は石井の方に向き直り、首を横に振る。

「“痕跡”は感じません。この件には超能力者は関わっていません」

 石井はため息をつく。

 少し複雑な気持ちだ。超能力者の犯行でないことに安堵する気持ちがある一方で、伊関の活躍をもっと見てみたいと思ってしまう自分もいるのだ。

「残念ですが」伊関は視線を落とす。「この件では力になれません」

「いや、いいんだ」石井は肩をすくめる。「超能力者が噛んでいる可能性を否定してもらえるだけでも、こっちは部下を動かしやすくなるからな」

 伊関はすまなそうに頭を下げる。


「自分で定めたルールがあるんだろう、伊関さん。瀬崎から聞いたよ」

 石井が言うと、伊関は頷く。

 そのルールはこうだ。

 ——事件に超能力が関係しているとき、かつそのときに限り、自身も超能力を使って協力する。

 以上。シンプルなものだ。

「私の行為には、法律の裏付けがない」伊関は呟く。「いくら悪人を対象にしていたとしても、私刑であることには変わりありません。いくら必要とされていても、せめて最小限にしなければならない」

 石井はそれを聞いて頷く。


 伊関の基準は保守的かもしれないが、正しいと思う。

 仮に彼女が、親切心から通常の事件に協力して解決したらどうなるか、考えればわかる。一般人の警察からすれば、超人に面子を潰されることになる。あるいは、心のどこかで“次もやってくれるもの”と思い、そうしなければ“不親切”だと捉えるようになるだろう。いずれにせよ、彼女と警察の関係は損なわれる。

 良かれと思ってやった行動が、長期的に悪い結果をもたらすこともある。彼女はそのことを知っている。


「今回こうして呼んで頂けたことは良かったと思っています。たとえ結果が空振りでも。これからも、気になるケースがあれば、躊躇わずに私を呼んでください」

 伊関はそう言うと石井に礼をして、現場を後にする。




 石井は自分のデスクに戻ると、散らかっている捜査資料の整理を始める。

 その中に一つのファイルがある。

 武政瞳についての捜査資料だ。

 それから目を背けたくなるのを抑えて、ファイルを手にとってページをめくり、自分自身が作成した報告書を読み返す。

 石井はその中で、本件は自殺であると結論づけていた。

 殺人事件を、揉み消したのだ。


 一ヶ月前の俺は、まさか自分自身がこんなことをするなんて考えもしなかっただろうなと石井は思う。それだけじゃなく、超能力や超能力者が存在するなんてことも、夢にも思わなかっただろう。

 だが、目撃し、体験したことで、全てが変わってしまった。

 伊関は、他人にはない“力”を持つ者として、すべきことをした。通常の捜査では見つけられない手がかりから、超能力を使う犯罪者を発見し、倒した。超能力を前に、なす術なく傷つけられる人間を助けた――石井自分も、助けられた一人だ。

 石井は自らが書いた虚偽の報告書を見つめ、改めて覚悟を決める。

 これでいい。俺は、俺にできることで、あいつに借りを返すべきだ。




「失礼します」

 声をかけられ、石井は振り向く。

 デスクの前に立っているのは、山名雄介だった。調査について報告があるらしい。

 山名は今仲が“自殺”した事件から石井のチームに入っている、若い刑事だ。できる奴だという評判は、以前から石井の耳にも届いていた。

 実際に組んでみてわかったが、彼は評判通り有能だった。分析力、判断力に優れ、細かいところにも注意が行き届く。今こうやって報告を受けていても、それが伝わってくる。自分がこの男と同じくらいの年齢だった頃、ここまでやれていただろうか、と思う。


 報告が終わり、今後の方針について打ち合わせた後、山名が話題を変える。

「そういえば、前来てた女の子、誰だったんです?」

「女の子?」

「石井さんに会いに来てた子」

「ああ」石井は動揺を隠して答える。「俺の元同僚が探偵事務所をやってるんだけど、そこの秘書だ」

「それで挨拶に?」

「そんなとこだ。……なんだお前、気になってんのか?」

「よしてくださいよ」山名は照れるふりをして笑う。

「彼氏がいるか、聞いておいてやろうか」

「いやいや」山名は笑ったまま手を振る。「てっきり、前の事件の情報提供者かなと思ってました」

 石井は和やかな態度を変えずに、山名の様子に注意を払う。

「事件とどう関係してたのかは推測できなかったですけどね。最初の一瞬、武政の下で働かされてたとか、何か被害に遭ってた子かとも思ったんですけど、違いそうだったし……」

「一目見てわかったのか?」

「ええ。水商売とか夜職に関わってる女の子って、そういう雰囲気があるじゃないですか。あの子にはそれがなかったし、何というか、立ち振る舞いが自然体すぎたので。だとしたら一体誰なんだろうと思ってたんですけど……石井さんの知り合いだったんですね」

「そんなところだよ」


 山名が去ってから、石井は静かに息をつく。背中が汗で濡れている。

 あの男は細かいところに気がつく。批判的な検討能力も高い。武政瞳の件について、いつ疑いを持ち始めてもおかしくない。

 いや、既に疑っているのかもしれない。彼はどこか腹の底が見えないところがある。

 そうなったら、山名相手に嘘をつき続けなければならなくなる。刑事同士の知恵比べだ。

 バレるわけにはいかない。これはもはや自分だけの問題ではないのだ。

 この件が明るみに出たら、伊関杏子はその活動を大きく制限されることになりうる。彼女が活躍できなくなるのは、この社会の損失だ。

 それに、もし超能力を持たない警察官が事件の真相に迫りすぎたらどうなるのか。まだ武政の兄を殺した存在が野放しになっているのに。

 一般人が超能力者に目をつけられたら、確実に命はない。

 部下を守るためにも、自分以外の警察官が真実に近づくことは阻止しなければならない。


 石井は天井を仰ぐ。

 現実は複雑で、正しいことを為そうにも一筋縄でいかないことだってある。そんなことは十分理解しているつもりだ。

 それでも、こんな形で葛藤を抱えるなんて、一ヶ月前の俺に言ってもまず信じないだろうな。

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