2019年5月24日
授業が終わった後、亜由美は一度自宅に戻り、身支度を始める。
パーカーとデニムパンツを脱いで、この日のために入手した黒のワンピースドレスを着る。ワンピースなんて、自分で買ったのは生まれて初めてじゃないだろうか。
ヘアアイロンで髪を巻き、ハーフアップに整える。それから普段より真面目に、ディナーの席でも恥ずかしくないような感じに、化粧をする。
サラのガールフレンド――あくまで設定上だが――として、恥ずかしくないような感じに。
恋人のフリをして欲しいというサラの頼みに、亜由美はその場でOKを出した。サラの嘘に信憑性を持たせるために、自分も協力するというのが最適解だと思えたからだ。それに——何というか——役とはいえサラの彼女になるのは悪い感じはしなかった。
正直、不安な気持ちがないわけではない。万が一設定にボロが出て、何か怪しまれることになったらどうしようかと、考えてしまう。
ディナーの時間だけでもごまかし通せれば何とかなるし、確率的にほぼ大丈夫だとは思う。それはそうなのだが、隠さなければならない秘密があまりにも重大なのだ。
サラと自分は超能力が使えること。
サラが他の超能力者に殺されかけたこと。
私が、そいつを殺したこと。
そんな秘密が背後にあると思うだけで、どうにも落ち着かなくなる。
まあ、言ってもしかたがない。やるしかない。
亜由美は手土産に用意したシャブリ・ワインを冷蔵庫から出し、焼き菓子と一緒に紙袋に入れる。焼き菓子は佐山に教えてもらった店で買った。甘いものにはあまり興味がない亜由美と違い、佐山は大のスイーツ好きで、美味しい洋菓子店にも詳しかった。
荷物をまとめ、忘れ物がないか確かめると、ローヒールパンプスを履いて家を出る。塾講師をするときはスーツに着替えてパンプスを履いているが、普通に外を歩くときにスニーカー以外を履くのはものすごく久しぶりで、何だかぎこちなく感じる。
亜由美は駅に向かいながら、これから起こるイベントにあれこれ思いを巡らせる。
向こうのご両親は、どんな方なんだろうか。サラに聞いたところによると、母は大学教員で、父は政策アナリストとして大使館で働いているらしい。
めちゃくちゃエリート。ばんばん気遣うやん。
緊張してくる。でも同時に、わくわくしている自分もいる。こんな経験は滅多にできることじゃない。
表参道の駅で、サラが亜由美を待っていた。
大勢が行き交う中でも、すぐに見つけることができた。パンツドレス姿の彼女は17歳とは思えないくらい大人びて見えて、周りの人間とは違った空気を身にまとっているようだった。
「待った?」亜由美が声をかける。
「全然。一時間しか待ってないよ」
冗談を言って笑うサラだが、亜由美はその中にぎこちなさを感じ取る。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。ただ……」サラは肩をすくめる。「こんなことに付き合わせちゃって、ごめん」
亜由美はそれに返事をする代わりに、サラの手を取り、指と指を絡ませる。
「えっ?」サラが驚いた声を漏らす。
「手くらい繋ぐでしょ。今日は恋人同士なんだから」
サラは目を見開いて、繋いだ手と亜由美の顔を交互に見る。
どぎまぎしているサラが面白くて、亜由美はもっとからかいたくなる。そこで、腕同士も絡めるようにしてサラに体を密着させる。
「アユミ、どうしたんだよ」サラの声が上ずる。
「私、役に入り込むタイプだから。今日は最高にアツい彼女を演じてあげる」
亜由美は自分の胸をサラの腕に押し付けるようにして、上目遣いでサラの目を見る。
「ちょっと、演技過剰じゃない!?」
「いや、これくらいがいいんよ。さ、行こう」
「もう……」
むすっとしながらも頬を赤らめているサラを横目に見て、亜由美はにやりとする。
そうやって恥ずかしがっとき。私に無茶振りをした仕返しや。
二人はマンションの広いエントランスを抜けてエレベーターに乗り、アーヴィン家に向かう。
亜由美はコンシェルジュ付きのマンションなるものが実在するということに軽く感動を覚えるが、表には出さないようにする。というか、やっぱりサラ、良いとこのお嬢だったのか。この前は何も考えずに安い店で飯奢っちゃったけど。
ドアを開けると、ハンナが二人を迎え入れて、リビングに案内する。
そこで待っていたのが、サラとハンナの両親だ。
父、クリストファー・“クリス”・アーヴィン。背が高く体格の良い、金髪碧眼のジェントルマン。
母、メリッサ・アーヴィン。容姿はハンナと良く似ていて、理知的な印象を受けるアフリカ系アメリカ人だ。
亜由美が二人に自己紹介して、ディナーが始まる。
最初に、サラが亜由美との出会いについて話す。たまたま入ったお店で、バーテンダーと客として出会ったのがきっかけで、サラからアタックして、付き合うようになった――そういう設定だ。ボロが出るのが嫌なので、亜由美は極力話を広げないようにして、サラが説明するのに任せる。
それから話題は次々と移り変わる。クリスもメリッサも喋るのが好きで、二人の馴れ初めの話はそのまま短編映画になりそうなくらい面白かった(ちょっと“こすってる”な、と亜由美はつい疑ってしまったが)。クリスはヨーロッパや中東など世界各地に駐在した経験があり、そこでの体験談は海外に行ったことがない亜由美を魅了した。日本にも住んでいた時期があり、京都に滞在していたこともあるということだった。バイクに乗って大原や美山を走った話を亜由美がすると、クリスは驚き、自分も同じことをしていたんだと言って笑った。
メリッサは古今東西の芸術全般に造詣が深く、『羅生門』や『秋刀魚の味』のような日本映画の古典も鑑賞していた。グラフィティアートについて亜由美が話を振ると、ニューヨークという街の歴史を織り交ぜながら、初期のタギングからキース・ヘリングやジャン=ミシェル・バスキア、ハイファッションとの関係に至るまでレクチャーしてくれた。メリッサの話は対象への愛とユーモアに溢れていて、いつまでも聞いていたいと思えた。
会話に花を咲かせながら、亜由美は料理に舌鼓を打つ。メリッサは料理上手で、亜由美はアメリカの食文化についての認識を改める必要があると感じた。食事の席が楽しいと、当然お酒が進む。クリス、メリッサと亜由美の三人は同じくらいのペースでワインを飲んだ。亜由美が持ってきたシャブリ・ワインは好評で、一瞬で空になった。
亜由美も自分自身について話す。故郷について。家族について。大学について。合気道や、ピアノについて。今は亡き兄についても、一瞬、話しても大丈夫ではないかと思ったが、考え直して心の中にしまっておくことにする。
「将来アメリカに来るといい」クリスは言う。「確か、他の国からでもアメリカの医師免許を取ることができたはずだ」
「USMLEという試験に合格する必要があります」亜由美は答える。
「あなたならきっと合格する。アメリカでも上手くやれるよ」
「どうでしょうね……」
亜由美としては、自分がアメリカで生活するイメージは湧いてこない。行ったことがない国で生活することを想像するのは、なかなか簡単ではない。
海外で医師や研究者として働いている先生の話は聞いたことがある。アメリカで医者をやる場合、収入は日本で勤務医をやるより良いし、似たような社会階層の人間同士でやっていくなら、生活環境も決して悪くないだろう。
いまいち将来が見えてこない日本を“一抜け”して、新天地に活路を見出すのも、自分個人の選択としては悪くない。クリスもきっとそう考えて、私にアドバイスをしているのではないか。
でも、亜由美としては、何かこう、最終的には故郷に何か還元したい気持ちがある。縁があってここまで来られたのだから、生まれ育った地やそこに住む人たちに、何か返せたらと思う。
そんなことを考えるが、そのニュアンスを即座に英語にすることは難しかった。なのでつい、英語が話せないときにやりがちなこと――自分が英語で言えることを言う――をやってしまう。
「先のことはわかりませんが、留学はしてみたいですね」
そう言って、亜由美は笑顔でごまかす。とにかく英語は難しい。英語で話しているとき、自分の知能が小学生くらいに逆戻りしているように感じてしまう。
「どの分野に興味があるの?」メリッサが亜由美に訊く。
「脳神経内科です」亜由美は答え、自分の頭を指差す。「脳や、脳が生み出す様々な現象に興味があるんです。私たちの体験を生み出すのは脳ですし、それが損なわれれば、当たり前だったことが出来なくなったり、わからなくなる。場合によっては、意識が損なわれて、植物状態になる」
メリッサは頷く。「そうね。古の時代から、多くの学者や哲学者が、意識について考えてきた。例えばアウグスティヌスは意志の自由について論じたし、デカルトは心身二元論を唱えた。今では二元論は否定されているようだけど、それでも彼は議論の水準を高める役割は果たしたといえるわね」
「ええ」亜由美は続ける。「他にも、フランシス・クリック――DNAの構造を解明してノーベル賞を受賞した科学者ですが、彼も晩年は意識についての研究を行っていました」
「あなたもそれに続こうとするのね」メリッサは微笑む。
「いえ、そんな……」亜由美は慌てて手を振る。そこに加わるのは流石に恐れ多すぎる。
「きっかけはあるのかしら」メリッサが訊く。「脳や意識に興味を持つようになったきっかけが」
瞬間、亜由美の脳裏に記憶が蘇る。色彩のない壁と天井。無機質な装置や配線や管に囲まれて眠る兄。意識が回復する可能性は低いと、医師が宣告する声。
それを振り払い、亜由美は答える。「これといったきっかけはないですけど……」
テーブルを囲む全員が自分に注意を払っているのを感じ、半ば反射的に、亜由美は話を付け足す。
「ただ……昔から、“境界”的なものに興味があったと思います」
そう口をついて出たが、なぜそんな話を始めたのか亜由美自身もよくわからなかった。まるで深層心理から湧き上がってきたかのようだった。
「境界?」クリスが聞き返す。
「はい。どう言いましょうか……」亜由美は何とか言葉を探る。「意識現象って、さまざまな学術領域、例えば心理学や生物学、哲学などの境界にあるように思えるんです。もっと小さな頃は、“この世”と“あの世”を隔てるもののことを空想していましたし……最近でも、ふとした時に、善と悪の境界や、正常と異常の境界について考えたりします」
「その境界は、明確だろうか?」
「それは……視点によると思います」亜由美は少しの間考えてから答える。「全員とは言わなくても、ほとんどすべての人にとって善いことや、悪いことがある。でも一方で、善悪の境界線にクローズアップすると、それは一本の線じゃない、複雑な構造になっていて、どこから見るかによって、全然違うものに見える、そんな気がします」
「なるほど。あなたにとって関心があるのは、境界そのものの存在よりも、視点に依存した境界の“変化”なのかもしれないね」
「そうなのかもしれません」
亜由美が言うと、クリスは頷き、笑みを見せる。
「自分がどの視点に立っているかを認識することが大事だよ」クリスの声は深かった。「これからの人生で、葛藤に直面することがきっとある。誰にでもあることだ。医師になるなら、なおさらそうかもしれないね。自分の行動が正しいかどうか迷う場面がきっと訪れる。そんな時こそ、自分がどの視点に立って物事を捉えているか、足元を見つめなければいけない」
「私からも」話を引き継いだメリッサの声は優しかった。「“私は弱い者の側に立つ”とか、そんなことを語る人はたくさんいるわね。でも、そういう人に限って、他者に何も与えず、周りは強者だけで固まっている、なんてことも少なくない。悲しいことにね。そうなってしまわないためにも、まず第一に自分がどの立場に立っていて、何を為しているかを省みることが大切だと思うわ」
亜由美は二人の言葉に頷く。
これまでも“只者じゃない大人”には数多く出会ってきた。合気道の師範に、ピアノの先生に、大学の教授。《Footprints》の康平さんもだし、客として来たことがある大物の芸能人も凄かった。
クリスとメリッサからも、同じ“只者じゃない”感じ、自分じゃとても敵わないような感じがする。
ハンナは神妙な表情で両親の話を聞いていた。
サラは手元に視線を落とし、何か考え込んでいるようだった。
「能力を存分に活かしなさい」クリスは亜由美に微笑む。「あなたなら、自分の力で何をすべきかきっとわかるはずだ」
「はい」返事をしながら、亜由美はその言葉の真意を探るようにクリスの顔を窺う。
それは、私の“力”のことを言っているのだろうか?
サラや私の超能力について、知っているのだろうか?
視線をサラに向けると、ちょうど目が合う。サラはほんの微かに、首を横に振る。