「そうだ」サラがぽん、と手を叩く。「母さん、アユミ超ピアノ上手いんだよ」
それをきっかけに、亜由美とメリッサが連弾をする流れになる。
リビングに置いてあるアップライトピアノの前に二人で座ると、どちらからともなくミドルテンポのブルースを弾き始める。
亜由美はメリッサのピアノに驚く。リズム感に、旋律の歌い方に、タッチの繊細さ。どれをとっても亜由美が、こんな風に弾きたいな、と思うような、お手本にしたいような演奏だった。それに比べると、自分のピアノが“おままごと”のように感じられる。
そうか、私は今、アフリカ系アメリカ人と一緒にブラックミュージックを演奏してるんだ。そう考えると、自分なんかがジャズを演奏するということが、ひどく恐れ多いことのように思えてくる。
「アユミ」
メリッサが声をかける。
「リラックス。楽しんで。自分自身を解放するのよ」
亜由美は一度深呼吸をして、肩の力を抜く。
持てる力の全てを出す。メリッサなら受け止めてくれると信じて。
演奏を聴いていたサラは、アユミの何かが切り替わったのを感じる。
メリッサの顔色を窺いながら付いていくのではなく、自らが前に出て、引っ張っていくような演奏になった。大学の講堂で弾いてた時と違う。“別の面”が表を向く。タフでワイルドで、アグレッシブな亜由美。
父もハンナも、それを感じているようだった。
母は嬉しそうにアユミを見る。両手を鍵盤の上で踊らせると、奏でられた音は追い風となり、アユミを包み込んで更なる高みへと飛翔させる。
曲は『What Is This Thing Called Love?(恋とは何でしょう)』になった。スタンダードナンバーで、確か秋吉敏子のアルバムにも入っていた。日本人が初めて、ブルーノートから出したアルバムだ。サラは一度聴いた曲やアルバムのことはよく覚えていた。
テーマが終わり、アユミのソロが始まる。
大学のキャンパスで弾いていたのと比べると、別人が演奏しているのかと思うくらい違った。柵から解き放たれた駿馬が丘陵を駆け回るように、両手で自由自在に鍵盤を叩くアユミは、とにかく楽しそうだった。笑いながら遊び心あふれるフレーズ(ただし超絶技巧)を奏でる姿は、友達と悪ふざけに興じる少女のようで、サラはそんなお茶目さんなアユミを見られたことが嬉しかった。この人のことは、知れば知るほど、もっと知りたくなる。
「あなたは、ヒップホップも好きなのね?」弾きながらメリッサが声をかける。
「はい、好きです」アユミは頷いて答える。
「じゃあ今度は、こんなのはどうかしら?」
メリッサがさらりと弾いたメロディは、ジャズナンバーではなく、ケンドリック・ラマーの『Rigamortis』だった。
「いけると思います。クリス・バワーズが弾いてましたよね」
アユミはそう答え、演奏に加わる。
二小節のフレーズを二人が繰り返すのを聴いていると、サラは世界そのものがループに入ってしまうように感じる。アーティキュレーションやテンションが精密にコントロールされていて、生演奏なのにまるでサンプリングされた音源のように聴こえる。メリッサだけでなくアユミも、そんなふうにヒップホップっぽさを出す技術を持ってたんだ。
メリッサが視線でキューを出し、アユミがソロに入る。
ループに変化が加わり、蓄積されていく。左手はそのままに、右手で新たなメロディを編み出す。さりげなくウィリー・ジョーンズ3世の『The Thorn』――『Rigamortis』のサンプリング元だ――のフレーズを引用し、そこからさらに自由度を高めていく。
メリッサの懐深い伴奏が、奔放さを増すアユミのソロの構造を強め、支える。サラには二人の演奏がどれほど高い次元にあるのかわからず、ただ凄いとしか言えない。それでも、アユミがメリッサを信頼しているからこそ暴走寸前まで弾きまくっていて、そんなアユミをメリッサが完璧にサポートしている、そのことは伝わってくる。
やがて二人は最初のフレーズに着地し、静かに演奏が終わる。
三人のオーディエンスが拍手を送る。
サラはアユミから目が離せなかった。
なんて格好良いんだ。座ってる後ろ姿を見ているだけでも、息が苦しくなる。今アユミに優しい言葉をかけられたら、私はきっと泣いてしまうだろう。
この感情は、憧れなのか。それとも別の、憧れを超えた何かか。
ああ。そういうことか。サラは今更ながら気づく。
これが、This Thing Called Love(恋ってやつ)か。
鍵盤から指を離した亜由美は、メリッサと抱擁を交わす。
こんな演奏ができたのは、生まれて初めてだ。メリッサが導いてくれたから、全てを出し切ることができたんだ。
サラとハンナ、クリスの暖かい拍手が部屋を満たす。亜由美はメリッサの胸に顔を埋めたくなる。
「
クリスとメリッサがそれを聞き咎め、「
コメディドラマみたいなやりとりに、亜由美はつい笑ってしまう。
本当、笑っちゃうな。でもそれ以上に、私自身のチョロさに笑える。
全然そんなつもりはなかったのに、もう私はこの一家を好きになってしまっている。
そんなことを思っていると、不意に緩んだ心の奥に硬いものが刺さったような違和感を覚えて、胸が苦しくなる。
これは、本当は良くない流れなんじゃないか——そんな考えが頭の中にちらつく。
亜由美はその考えをやり過ごしたくて、辛いときいつもそうしていたように、意識を外界に向ける。笑っているサラやハンナ、メリッサにクリス。彼らと一緒に、たくさん笑う。ジェームズ=ランゲ説じゃないけど、笑うことで幸せになれると信じて、亜由美は笑う。
「ハンナのラップも聴かせてよ」サラがハンナに振る。
「えっ」ハンナの表情が強張る。「いや、なんでいきなり……」
「リリック書いてたじゃん」
「ちょっ、何で言うの!?」
慌てるハンナを見て、亜由美はからかいたい欲求を抑え切れなくなる。
「私も聴きたいな、ハンナのラップ」
ハンナは逃げを打とうとする。「その、リリックが手元にないから……」
「フリースタイルでもいいよ」
「や、でも、ビートがないから……」
「ビートならある」
亜由美はピアノに向かうと、コードを鳴らす。Amから、Emsus4、そしてEm。それにヒューマンビートボックスを合わせる。ビートボックスは亜由美の隠し芸だ。人前で披露するのは高校の文化祭以来だが、暇なときに一人でよくやっているので、実力は落ちていなかった。
アーヴィン家は全員、何の曲か瞬時に理解した。ドクター・ドレーの『Still D.R.E.』だ。
何小節か演奏してから、亜由美はDJのスクラッチ音を口で再現する。
「ビートあるじゃん!」サラが喜ぶ。
「えぇ……マジでやるの?」ハンナは打ちひしがれている。
「じゃあ、DJ、スピン・ザット・シット!」
サラがおどけて言うと、すかさずクリスとメリッサが反応する。
「