ディナーの時間が終わり、亜由美はアーヴィン家に別れを告げる。
マンションの廊下を歩いていると、後ろからサラが追ってくる。
「アユミ、駅まで送るよ」
「門限あるんじゃないの?」
「許可もらったから、大丈夫」
そのまま二人並んで、マンションから出る。
街灯の光の下で、亜由美とサラは家族の話に興ずる。
「それでさ、ハンナはすごい奥手なの」サラはさらりと姉の個人情報を話す。
「あー、なんかわかる」亜由美は自然と笑ってしまう。
「そう、好きだった男子に声かけられなくて、ラブレター書こうとしてた」
「ラブレター!」亜由美は大袈裟に反応してみる。「それはまた……トラディショナルやね」
「トラディショナル!」サラはそう繰り返し、それから二人で笑う。
「で、渡せたの、ラブレターは?」
「渡せなかった。その子にガールフレンドがいることが発覚して」
「あちゃー」
「そう、ハンナよりルックスも中身もいけてない子と付き合ってた」
「ついてなかったね」
「ハンナ、男運ないのかもね」サラはくすっと笑う。「でもすっごい賢いんだよ。学校で一番成績良かったし、エッセイで賞取ってたし」
「そういうサラは、どうなん?」
「私も超成績良いよ、ハンナほどじゃないけど。でも数学は同じくらいできる」
「嘘つくなって」
「は? ちょっと、どういう意味?」
「いや何か、サラと“賢い”って言葉が結びつかないなって」
くすくす笑う亜由美に、サラはローキックを見舞うふりをする。
そんなことをしている間に、気がつけば地下鉄の駅にたどり着いていた。
どちらから言い出したわけでもなく、二人は駅のそばにあるベンチに腰をかける。
「今日お父さんにさ」亜由美が口を開く。「能力を活かしなさいって言われたじゃない」
「あー、父さんお酒が入るとちょっと説教臭くなるから、気にしなくていいよ」
「そうじゃなくて……お父さん、もしかして“力”のこと知ってるの?」
サラは首を横に振る。「それは、ないと思う。少なくとも、父さんから“気配”を感じたことはないし」
「そっか」亜由美は息を吐く。「それだけちょっと、引っかかってて」
サラの父、クリスの言葉には重みがあった。よくありがちなアドバイスでも、その中に多くの経験と、根拠と、かつて交わされた問答のエッセンスが織り込まれているようだった。「能力を活かせ」という一言だって、亜由美の正体を全て看破した上で発せられたように思えたのだ。
「私もアユミに聞きたいことがあった」サラが言う。
「どしたん?」
「アユミは自分が幸運だと思う?」サラは亜由美の目を見る。
「思うよ」亜由美は答える。「今の私があるのは、運が良かったからだと思う」
「大学に入ったのも、ピアノが上手いのも?」
「自分でもやれるだけのことはやってきたとは思う。でも、物覚えがよくて丈夫な子に産んでくれたのは親のおかげだし、ピアノを習わせてくれたのも親だし、勉強の習慣ができたのも、周りの環境が良かったからだし。そういうところで、運が良かったと思うようにしてる」
「なんか、謙虚だね」
「まあ、そんなこと言ってるけど……例えば神様的なのが出てきてさ、『お前の学力もピアノの腕も、たまたま運が良くて手に入ったのだから、返上して皆に分け与えなさい』って言われたら、『いや、私だって頑張ったんだからそれは堪忍してください』って言っちゃうかも。『他の形で還元しますから、どうかそれだけは』って」
亜由美はおどけた芝居を混ぜながらそう言って、サラを笑わせる。
それから「サラはどう思ってるの?」と質問を返す。
「上手く言えないけど……何て言えばいいかな」
サラは腕を組んで考える。亜由美は黙って、サラが話す準備をするのを待つ。
「私さ」やがてサラが口を開く。「今日私の家族を見て気付いたと思うんだけど……私だけ、血が繋がってない」
亜由美はサラの言葉に耳を傾ける。
「私の実の父親は日本人で、実の母親はアイルランド系のアメリカ人だった。子供は私だけで、きょうだいはいなかった。二人とも仕事で海外に行くことが多かったけど、一緒にいるときは私にとても優しくしてくれた。いつも遊んでた。遊びながら、色んなことを教わってた気がする。それで、父や母が家を空けるとき、決まって遊びに行ってたのが、アーヴィン家だったんだ。私の実父とクリスは昔からの友達で、私が生まれる前からずっと家族ぐるみの付き合いがあったみたい。それで、物心がつく頃には、アーヴィン家のことも家族みたいに思ってた」
サラは遠くを眺めるように視線を上げる。街灯の光がその横顔を照らし、陰影をつける。
「私が十歳のとき、実の両親が乗っていた飛行機が墜落した」サラは一度息をつき、続ける。「その日は二人が帰ってくる予定の日で、アーヴィン家のみんなと一緒にちょっとした夕食会をすることになってた。忘れもしない。それで、その日の昼過ぎ――ちょうど飛行機が墜落した時間――私はハンナと買い物に出てた。夜に食べる用のお菓子とか……それからメッセージカードも買った。父と母に手紙を書こうと思ってたんだ。わくわくしてたよ。両親に会うのは久しぶりだったし、二人が喜ぶ顔が見たかった。でも、家に着いた時には事故の知らせが伝わっていて……私の人生は全く違うものになった。私はアーヴィン家の養子になった。クリスとメリッサが私の両親に、ハンナは私の姉になった。学年は一緒だけど、私の方が誕生日が遅かったから」
亜由美はサラの顔を見る。黒い髪が影になり、表情はよく見えなかった。
「この世界にはそういうことが起こるって、知ってるつもりだった。暴力的な何かが、一方的に誰かの運命を変えてしまうことがあるって。でも、それが自分の身に降りかかって初めて、本当は何も知らなかったってことがわかった。『どうして私に?』って叫んでも、泣いても、何も変わらない。ただ、そういうことが起こるんだ」
亜由美は視線を手元に落とす。サラの話を聞いていると、申し訳ないような気がしてくる。自分が幸運だと言ったのは、配慮を欠く発言だったのではないか、そのことでサラを傷つけてしまったのではないかという感覚が、胸にのしかかる。
「……実の両親が死んだことは、不幸だった」サラは静かに続ける。「その死には、何の意味もない。ただ、死ぬべきじゃないのに死んでしまっただけだ。でも、今の家族が私を受け入れてくれたことは、本当に良かったと思ってる。彼らのおかげで私は立ち直れたし、今は幸せだし。だから、その点では、私は運が良かったと思うことにしてる」
亜由美はサラにかける言葉を見つけられなかった。
初めて会ったときから、この子は何か事情を抱えて生きてきたのではないかという直感はあった。そういう子に特有の大人びた感じ――子供でいられる期間を切り上げられ、大人にならざるをえなかったような感じが、サラにはあったのだ。
だから、サラが語り始めた時、亜由美は辛い話を聞く心の準備をしていた。それでも実際に話を聞くと、胸が締め付けられるように痛くなった。
彼女が乗り越えてきた悲しみはどれほどのものだったろうか。今ここで、自分を幸せだと言えるのが、どれほど強いことだろうか。
そう、さっきは茶化したけど、本当は知ってる。
この子は賢く、そして強い。
サラは一息つくと、ベンチから立ち上がって、伸びをする。
「もう帰るの?」亜由美が訊く。
サラが振り向く。「良かったら、もう少し散歩しない?」
二人は駅を通り過ぎ、イヴ・サンローランやヴァレンティノのショップを横目に見ながら、原宿の方へ歩く。
「生きてると色んなことが降りかかる」サラは静かに言う。「そんなとき、私はそこに理由を探してしまう」
「理由?」亜由美は訊き返す。
「理由というか……何て言えばいいかな」
「因果関係の話、ではないよね、多分」
「それは違う」サラはゆっくり考えながら、言葉をつなぐ。「何ていうか……例えば、何か出来事が起こったとする。そのとき、その出来事が“私は何をすべきか”を教えてくれてる、みたいな感覚。さすがに両親が死んだ時にはそんなこと考えられなかった。でも今の家族に引き取られて、救ってもらったのには、理由がある。きっと私に、やるべきことがあるからだ。そんなふうに感じる」
「やるべきことが何かはわかってるの?」
「多分だけど、人を守ることなんだと思う。例えば、私の今の家族を。ただ受けた恩を返すってだけじゃなくて、もっと何かこう、使命みたいな感じ? そう言うと、何か宗教っぽくなるけど……ごめん、自分でも何言ってるかよくわかんなくなった」
そう言ってサラは笑い、照れるように頭をかく。
「やるべきこと、ね」亜由美は独り言のように呟く。サラの人生観は理屈だけでは捉えにくいが、言いたいことは何となくわかる気がする。運命の悪戯、その残酷さを認めながら、どうにかしてそこに自分の役割を、自分の意思や行為が物事を動かす余地を見出そうとしている、そんなふうに感じる。
「超能力を得たのだって、きっと理由があると思ってる」サラは言う。
「偶然じゃなくて?」
「他の誰でもなく私がこの“力”を手に入れたということは、きっと私に、この“力”を使ってすべきことがあるからだと思う」
「そうかな」
「アユミはそう思わない?」
「……私には実感がわかないかな。まだ」
亜由美はサラの真っ直ぐさが眩しくて、どこか暗いところに逃げ込みたくなる。
もしかしたら、私にも“すべきこと”はあったのかもしれない。
でも仮にそうだったとしても、私にはそれが何かわからなかったし、実際にやったことは悲惨な失敗でしかなかった。
この“力”が授かりものだとしたら、授けたやつは完全に人選を誤ったことになる。
「はーあ」サラは大きく胸を開き、背中を反らす。「ごめんね、重たい話を続けちゃって」
亜由美は首を横に振る。
「今からは、二人で楽しいことしよう?」サラはいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「楽しいこと?」
「アユミとしかできないこと」
亜由美は嫌な予感がする。「あんた、散々な目にあったのにまだそんな事……」
隣を振り向くとサラはいない。見上げると、細い横道に並んだビルの上に飛び乗っている。
亜由美は溜息をつく。
前言は撤回する。あの子はやっぱりアホなのかもしれない。