新宿駅の改札を出た亜由美は、そのまま駅前のカラオケ店に向かう。空いている中で一番広い部屋を取り、そこで荷物を下ろす。
午後の授業が始まっている時間だが、一度くらい欠席したところで単位に影響はない。それよりも今日の夜に向けて準備する方が重要だ。
いきなり現場で〈
それには、目の前で〈
そのためには、二人と合流するまでの数時間で、〈
やれる見込みはある。要は、伊関と戦ったときにアドリブでやった
部屋の中央に立つ。
“力”を身体中に満たす。
“伝送路”をゆっくりと広げる。
〈
より正確に表現するなら、それは感覚と、在るべき感覚の“欠失”とが、交互に存在する状態。両者を同時に認識することはできない――エドガー・ルビンの多義図形で、壺と横顔を同時に認識できないように。
ここで感覚が“欠失”しているということは、〈
亜由美はその感覚を確かめながら、次の段階に進む。
伊関と戦ったときは、体内で生成した〈
“力”に濃淡をつけると、〈空間〉はゆっくりと身体の中を流れていく。
胸から右肩へ。
右肩から腕。肘。そして手に辿り着く。
亜由美は右の手掌を上に向け、胸の高さに掲げる。〈空間〉が微かに揺らぎながら浮かび上がってくる。
そして、界面活性剤の膜からシャボン玉が生まれるように、手掌から分離した〈
――成功だ。
「っしゃあ!」
亜由美は右手を動かさずに左手でガッツポーズをとる。
心の中で雄叫びを上げる――見たか、私のこの、時空を操る能力を!
興奮した直後に、今度は安堵が訪れる。
ふう、と息をつく。一番の懸念材料はクリアした。生成さえできれば、“閉じる”のは問題ない。
落ち着きを取り戻した亜由美は、生み出した〈
無色、無臭、透明。光も音も発さない。それ自体はただの空間だから、当たり前といえば当たり前だ。
超能力者特有の“感覚”が、もっとも鋭敏に知覚できる。ソフトボール大のそれが眼前に浮かんでいるのがはっきりと認識できる。
肉眼でも輪郭がわからないわけではない。〈
もっともそれは、超能力者だからそう見えているのかもしれない。一般人はそもそも〈
次に iPhone のカメラを向ける。画面からは〈空間〉らしきものは何もわからない。
シャッターを切ると、細かいノイズが入る。これは、庵原が撮った写真と共通する特徴かもしれない。
iPhone を〈
もう少し近づけると、電源が落ちてシャットダウンする。
兄の研究ノートに書いてあった内容と矛盾しない。もっとも、〈
亜由美は超能力について兄と話した内容のほとんどを覚えている。
〈
「亜由美、ホログラフィック理論って知ってる?」
確かそんな感じで会話が始まった。兄・神前恭太郎の会話は唐突に始まることが多かった。
「ある空間の物理現象が、その境界面における別の理論で記述できる……とかいう話やろ? ブラックホールの内部の情報はその表面に存在してる的な」
亜由美が答えると、恭太郎は感心するような表情を浮かべた。
「よう知ってるやん」
「いや、兄ちゃんこの前語ってたやん」
「そやっけ?」
「うん。で、それがどうしたん?」
「〈
「リミナル……ああ、あれか」
「そう。言うてたやん、何が起こってるのか知りたいって。俺も気になって考えててん」
亜由美は兄の議論に付き合うことにした。
「時空自体が最初からあるものじゃなくて、他の何かから創発するという考え方自体は、色々あんねん。
「うーん、待ってな……」亜由美は少し兄の話を理解するのに時間を取った。「それってさ、例えるなら、パソコンの電子基盤の中のバイナリなデータと、ディスプレイに映ってる情報とが対応してる、みたいなイメージ?」
「俺はそんな感じで思ってるよ」恭太郎は頷く。「専門家がどう言うかは知らんけどな。……言ってしまえばさ、俺らの感覚だって、要はインターフェースなわけやん。わかる?」
「インターフェース?」
「例えば俺の目の前に亜由美がおるやろ。亜由美の表面を反射した光が俺の網膜を刺激して、脳の中の神経を刺激して、俺は思うわけや、『亜由美がおるわ〜』って」
「あー、なるほど……神経の興奮の状態と、視えてる
「そうそう。俺らが見てるのは
「超能力は?」
「それもそうや。例えば――」
恭太郎は手掌を上に向け、その上に“円盤”を生成する。そしてその上に、さっきまで飲んでいたコーラの缶を置く。
「こんな芸当とかな。手を触れずに缶を浮かせるような遠隔作用なんて、普通の物理学じゃ説明不可能や、どう考えても。それでも、俺らの時空と対応する別次元の
「〈
「せやったわ。
「せやなあ」
亜由美は考える。兄の出す問題を考えるのは好きだった。
「こんなんはどう?」一つ思いついたアイデアを出す。「そもそも〈現実レイヤー〉も〈オルタナティブ・レイヤー〉も、
「それで、二つの時空が重なり合った〈
「それ」
「それな、俺も考えたわ」恭太郎はそう言って笑う。
「嘘やろ。私のアイデアパクんなし」
「嘘ちゃうし」
亜由美は当然、嘘じゃないのはわかっている。自分が思いつく程度のことは、恭太郎は全て考えているということを知っている。
「疲れてきたし話変えようか」恭太郎は言う。「俺自分の超能力に名前付けようかなと思ってんねん」
「話変わりすぎやろ」亜由美は笑う。「急に偏差値ガーン下がったやん」
「アーティストの名前とかにしようかな」
「『ジョジョ』やんか」
「あれええやん。ほら、凄いアーティストの名前にしたらさ、そのアーティストの“格”も背負って戦える感じがするやん。『キング・クリムゾン』とか『グレイトフル・デッド』とかさ……名前聞いただけで『うわ、どんなヤバい能力なんやろ』ってなるくない?」
「凄い強そうなアーティスト名な。じゃあ――」
亜由美は恭太郎の能力に命名する。
「――『西川貴教』やな」
「『西川貴教』」恭太郎が繰り返す。
「強そうやん。体鍛えてはるし」
「俺『西川貴教〜』言うて技出すのん?」
「バリ格好ええやん」
「……人の名前すぎるな〜」恭太郎は頭を掻く。「それはもう西川さんに呼びかけてるみたいになるやん」
「じゃあ――」
亜由美は再び恭太郎の能力に命名する。
「――『T.M.Revolution』」
「西川貴教やないか」
超能力名を考えるくだりは、もう何回かやった気がする。
毎回大喜利大会のようになって、結局兄が自分の超能力に名前を付けることはなかった。
兄も、本気で命名するつもりはなくて、くだらない雑談をしたかったのだと思う。