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4 - 16

 新宿駅の改札を出た亜由美は、そのまま駅前のカラオケ店に向かう。空いている中で一番広い部屋を取り、そこで荷物を下ろす。

 午後の授業が始まっている時間だが、一度くらい欠席したところで単位に影響はない。それよりも今日の夜に向けて準備する方が重要だ。

 いきなり現場で〈境界空間リミナル・スペース〉に対処する前に、伊関と庵原にはそれがどんなものか予め知っておいてもらう方がいい。

 それには、目の前で〈境界空間リミナル・スペース〉を生成して見せるのが一番早い。

 そのためには、二人と合流するまでの数時間で、〈境界空間リミナル・スペース〉を安定して生成できるようになる必要がある。

 やれる見込みはある。要は、伊関と戦ったときにアドリブでやったの応用だ。あのとき私は、〈オルタナティブ・レイヤー〉と繋がる“力”の“伝送路”をこじ開けて、自分の身体を満たすように〈境界空間リミナル・スペース〉を生成した。それをどうにか工夫して、身体の外に移動させて、拡張させることができれば、成功だ。


 部屋の中央に立つ。

 “力”を身体中に満たす。

 “伝送路”をゆっくりと広げる。

 〈境界空間リミナル・スペース〉を、胸の中央に感じる。

 より正確に表現するなら、それは感覚と、在るべき感覚の“欠失”とが、交互に存在する状態。両者を同時に認識することはできない――エドガー・ルビンの多義図形で、壺と横顔を同時に認識できないように。

 ここで感覚が“欠失”しているということは、〈境界空間リミナル・スペース〉内外で身体が断絶していることを意味する。それでも死なずにいるのは、おそらく、“力”が身体を保護しているということになる。


 亜由美はその感覚を確かめながら、次の段階に進む。

 伊関と戦ったときは、体内で生成した〈境界空間リミナル・スペース〉を全方向に拡張して身体を満たした。今度は、拡張させる向きと、“閉じて”いく向きのそれぞれをコントロールする必要がある。

 “力”に濃淡をつけると、〈空間〉はゆっくりと身体の中を流れていく。

 胸から右肩へ。

 右肩から腕。肘。そして手に辿り着く。

 亜由美は右の手掌を上に向け、胸の高さに掲げる。〈空間〉が微かに揺らぎながら浮かび上がってくる。

 そして、界面活性剤の膜からシャボン玉が生まれるように、手掌から分離した〈境界空間リミナル・スペース〉が目の高さまで上昇し、そこに留まる。

 ――成功だ。


「っしゃあ!」

 亜由美は右手を動かさずに左手でガッツポーズをとる。

 心の中で雄叫びを上げる――見たか、私のこの、時空を操る能力を!

 興奮した直後に、今度は安堵が訪れる。

 ふう、と息をつく。一番の懸念材料はクリアした。生成さえできれば、“閉じる”のは問題ない。


 落ち着きを取り戻した亜由美は、生み出した〈境界空間リミナル・スペース〉を観察する。

 無色、無臭、透明。光も音も発さない。それ自体はただの空間だから、当たり前といえば当たり前だ。

 超能力者特有の“感覚”が、もっとも鋭敏に知覚できる。ソフトボール大のそれが眼前に浮かんでいるのがはっきりと認識できる。

 肉眼でも輪郭がわからないわけではない。〈境界空間リミナル・スペース〉の干渉により光の屈折が生じることで、周囲に比べると――意識しなければ気づけない程度だが――そこだけ揺らいで見える。

 もっともそれは、超能力者だからそう見えているのかもしれない。一般人はそもそも〈境界空間リミナル・スペース〉を認識できないと、兄から教わった。

 次に iPhone のカメラを向ける。画面からは〈空間〉らしきものは何もわからない。

 シャッターを切ると、細かいノイズが入る。これは、庵原が撮った写真と共通する特徴かもしれない。

 iPhone を〈境界空間リミナル・スペース〉に近づけると、画面に表示される映像がカクつくようになり、ブロックノイズが出現する。

 もう少し近づけると、電源が落ちてシャットダウンする。

 兄の研究ノートに書いてあった内容と矛盾しない。もっとも、〈境界空間リミナル・スペース〉が電子機器に与える影響にはもっとバリエーションがあるようで、兄はそれを〈境界空間リミナル・スペース〉自体の異質性ヘテロジェナイティーに由来するものだと推測していた。




 亜由美は超能力について兄と話した内容のほとんどを覚えている。

 〈境界空間リミナル・スペース〉の性質について議論したのは、六年前――初めて超能力に触れた日の、確か数週間後だった。


「亜由美、ホログラフィック理論って知ってる?」

 確かそんな感じで会話が始まった。兄・神前恭太郎の会話は唐突に始まることが多かった。

「ある空間の物理現象が、その境界面における別の理論で記述できる……とかいう話やろ? ブラックホールの内部の情報はその表面に存在してる的な」

 亜由美が答えると、恭太郎は感心するような表情を浮かべた。

「よう知ってるやん」

「いや、兄ちゃんこの前語ってたやん」

「そやっけ?」

「うん。で、それがどうしたん?」

「〈境界空間リミナル・スペース〉もさ、別の次元の理論で説明できんもんかなと思ってな」

「リミナル……ああ、あれか」

「そう。言うてたやん、何が起こってるのか知りたいって。俺も気になって考えててん」

 亜由美は兄の議論に付き合うことにした。


「時空自体が最初からあるものじゃなくて、他の何かから創発するという考え方自体は、色々あんねん。反ド・ジッター空間AdS共形場理論CFTの対応の話とかな。この理屈やと――俺も勉強中やねんけど――CFTにおける量子もつれエンタングルメントが、AdSにおける重力理論に対応するらしい。……こういう理屈が成立するなら、俺らが生きてる時空だって、何かの量子の関連性から生まれてるのかもしれへんよな」

「うーん、待ってな……」亜由美は少し兄の話を理解するのに時間を取った。「それってさ、例えるなら、パソコンの電子基盤の中のバイナリなデータと、ディスプレイに映ってる情報とが対応してる、みたいなイメージ?」

「俺はそんな感じで思ってるよ」恭太郎は頷く。「専門家がどう言うかは知らんけどな。……言ってしまえばさ、俺らの感覚だって、要はインターフェースなわけやん。わかる?」

「インターフェース?」

「例えば俺の目の前に亜由美がおるやろ。亜由美の表面を反射した光が俺の網膜を刺激して、脳の中の神経を刺激して、俺は思うわけや、『亜由美がおるわ〜』って」

「あー、なるほど……神経の興奮の状態と、視えてるイメージが対応してるってことか」

「そうそう。俺らが見てるのはイメージやけど、その基盤になってるのは直接認識できない神経活動やし、俺らはスクリーンを眺めて動画見たりゲームしたりするけど、その基盤になってるのは直接読めないゼロとイチの羅列やろ」

「超能力は?」

「それもそうや。例えば――」

 恭太郎は手掌を上に向け、その上に“円盤”を生成する。そしてその上に、さっきまで飲んでいたコーラの缶を置く。

「こんな芸当とかな。手を触れずに缶を浮かせるような遠隔作用なんて、普通の物理学じゃ説明不可能や、どう考えても。それでも、俺らの時空と対応する別次元の量子もつれエンタングルメントだったり、もっと別の理論を使えば、当たり前のように説明がつくかもしれへんよな。……何の話やったっけ?」

「〈境界空間リミナル・スペース〉?」

「せやったわ。俺らの時空〈現実レイヤー〉もう一つの時空〈オルタナティブ・レイヤー〉が重なり合って生まれるのが〈境界空間リミナル・スペース〉なんやけど、そこでの現象ってどう記述できるんやろうって思っててな。時空同士の相互作用の研究なんて、俺が知らんだけかもやけど、聞いたことないしな」

「せやなあ」

 亜由美は考える。兄の出す問題を考えるのは好きだった。


「こんなんはどう?」一つ思いついたアイデアを出す。「そもそも〈現実レイヤー〉も〈オルタナティブ・レイヤー〉も、、ていうのは?」

「それで、二つの時空が重なり合った〈境界空間リミナル・スペース〉も、重なり合ってない領域も、同じ理論で説明できる……みたいな話?」

「それ」

「それな、俺も考えたわ」恭太郎はそう言って笑う。

「嘘やろ。私のアイデアパクんなし」

「嘘ちゃうし」

 亜由美は当然、嘘じゃないのはわかっている。自分が思いつく程度のことは、恭太郎は全て考えているということを知っている。


「疲れてきたし話変えようか」恭太郎は言う。「俺自分の超能力に名前付けようかなと思ってんねん」

「話変わりすぎやろ」亜由美は笑う。「急に偏差値ガーン下がったやん」

「アーティストの名前とかにしようかな」

「『ジョジョ』やんか」

「あれええやん。ほら、凄いアーティストの名前にしたらさ、そのアーティストの“格”も背負って戦える感じがするやん。『キング・クリムゾン』とか『グレイトフル・デッド』とかさ……名前聞いただけで『うわ、どんなヤバい能力なんやろ』ってなるくない?」

「凄い強そうなアーティスト名な。じゃあ――」

 亜由美は恭太郎の能力に命名する。


「――『西川貴教』やな」


「『西川貴教』」恭太郎が繰り返す。

「強そうやん。体鍛えてはるし」

「俺『西川貴教〜』言うて技出すのん?」

「バリ格好ええやん」

「……人の名前すぎるな〜」恭太郎は頭を掻く。「それはもう西川さんに呼びかけてるみたいになるやん」

「じゃあ――」

 亜由美は再び恭太郎の能力に命名する。


「――『T.M.Revolution』」

「西川貴教やないか」


 超能力名を考えるくだりは、もう何回かやった気がする。

 毎回大喜利大会のようになって、結局兄が自分の超能力に名前を付けることはなかった。

 兄も、本気で命名するつもりはなくて、くだらない雑談をしたかったのだと思う。

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