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第19話

「ママ!」という叫び声が、まるで雷鳴のように響き渡った。


知絵と清美は、その場で硬直した。


秋生も足を止め、振り返って鋭い視線を投げかけてきた。


今、なんて叫んだ?


ママ?


誰を呼んだんだ?


知絵のことか?


星奈の小さな頭の中で警鐘が鳴り響いた。ママに、「藤原家では絶対に正体がばれちゃダメだ」と言われていたのに!


次の瞬間、星奈の大きな瞳に涙が溢れ、今にも崩れ落ちそうな声で泣き出した。「ママ!ママ!ママがいいの!うわぁぁん、ママがいい――!」


小さな子供が驚きや恐怖に襲われたとき、本能的に母親を求めて泣き叫ぶのは自然なことだ。


星奈はその本能を巧みに利用し、さっきの失言を恐怖の演技でうまくごまかした。


秋生はすぐに駆け寄ってきた。知絵もようやく我に返り、星奈のもとへ行こうとしたが、その腕は強い力でつかまれた。


秋生の視線が、知絵の手の甲にできた赤く腫れ上がったやけどに止まり、目つきが一段と鋭く冷たくなった。そして、氷のような視線が清美に向けられた。


清美は顔色を失い、肩を震わせて固まっていたが、はっとして慌てて言葉を発した。「知絵……大丈夫なの?」とわざとらしい不安の色を滲ませながら。


知絵のもともと白い手の甲は、今や真っ赤に腫れ上がっていて、見ているだけで痛そうだった。


秋生は無言のまま知絵の腕を引き、洗面所へと連れて行った。その間、家政婦に向かって厳しい声で命じた。「星奈を抱えて冷水で冷やせ!」


家政婦はすぐに星奈を抱き上げ、別の洗面所へと急いだ。熱湯は星奈の足にも少しかかっており、家政婦も肝を冷やした。


清美はその場で立ち尽くし、何もできずにいた。


――さっきの秋生の目……まるで知絵を心配しているようだった。いや、それどころか、私を責めている?


冷たい水が焼けるような手の甲を流れるたび、知絵は痛みに身を震わせ、思わず息を呑んだ。


秋生もその震えを感じ取り、じっと腫れた手の甲を見つめ、硬く唇を引き結んでいた。


知絵は唇を噛みしめ、冷水が肌の痛みを和らげてくれる一方で、心の中の動揺は収まらなかった。


星奈が「ママ」と叫んだ!


幼い子どもらしい反応でごまかせたかもしれない。でも、秋生のあの鋭い目は、本当にごまかせただろうか。


秋生はずっと知絵の腕を離さず、洗面台の水音だけが響いた。赤く腫れた手の甲を見つめながら、彼の胸には言い知れぬ怒りが込み上げていた。


しばらく冷やしていると、痛みもだいぶ和らいできた。知絵はそっと腕を引いた。「もう大丈夫。」


秋生は蛇口を閉め、知絵を見つめて低く怒りを含んだ声で言った。「何を考えてるんだ?あんな熱い湯に、素手で飛び込むなんて。」


知絵は彼の険しい顔を見つめ返し、何でそんなに怒っているのか分からなかった。やけどしたのは自分なのに。


手についた水滴を振り払いながら、小さくつぶやいた。「痛いのは私だけなのに、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。」


「……何だって?」秋生の目がさらに暗くなった。


知絵は顔を上げ、きっぱりと言い返した。「どれだけ熱かったか、私が一番分かってる!子供の肌は大人よりずっと弱いんだ。もし星奈にかかっていたら、私の何倍もひどいことになってた。見てしまった以上、助けないわけにはいかないでしょう!」


その言葉はまっとうで、あの場にいた誰もが同じように動いたはずだ。


秋生は目を細め、知絵をじっと見つめた。その耳には、さきほどの星奈の「ママ」という声が何度も響いていた。


あの呼び方は、怯えた子供が無意識に母親を求めたものとも、思わず本音が出たものとも取れる。


もし後者なら――


知絵は星奈の母親ということだ。星奈がオークション会場付近で現れ、彼の車を描き、ホテルでいたずらをしていた子供――すべてが線で繋がる。


秋生の呼吸がわずかに止まり、知絵を見る目が一気に複雑さを増した。心の中は大きく揺れていた。


もし星奈が知絵の子だとしたら……それは、つまり自分の子供でもある。


もちろん、まだ推測の域を出ない。確かな証拠がない限り、軽々しく信じるわけにはいかなかった。


一番確実なのは……親子鑑定だ。


知絵は長いまつげを震わせ、秋生の深い瞳を見返した。その心の中は読めなかった。


「秋生、知絵の手は大丈夫?」と、清美が心配そうな声でドア越しに声をかけてきた。


その言葉が、知絵にはあまりにも白々しく、嫌悪感しか覚えなかった。


さっきの一部始終を、知絵ははっきり見ていた。清美の「うっかり」したような水差しへの動作は、明らかに星奈に向けてのものだった。


知絵は手をぎゅっと握りしめ、勢いよく洗面所のドアを開けた。氷のような視線で清美を睨んだ。


清美はおずおずとこちらを見て、すぐに涙を溜めて「ごめんなさい、全部私が悪いの。うっかり水差しを倒しちゃって……知絵、大丈夫?病院に行こうか?」


「うっかり?」知絵の声は冷たく、言葉を区切った。


清美は目を泳がせ、秋生に助けを求めるように視線を送った。「秋生、私、本当にわざとじゃないの……」と、涙声で俯いた。


秋生もその場面の細かい部分は見ていなかった。ただ、知絵が迷いなく飛び込んだ姿だけは覚えている。今、清美を見つめる目には探るような色が浮かんだ。


知絵は清美の手首を強くつかみ、問い詰めた。「清美、本当にわざとじゃないの?たまたまうっかり熱湯の入ったポットにぶつかって、それがちょうど子供の方に倒れる?五歳の子供に熱湯がかかったらどうなるか、想像できる?一生消えない傷になるのよ!それでも、そんなことできるの?」


清美は心の中で冷たく笑いながらも、必死で怯えたふりをし、怒りと悲しみを交ぜて叫んだ。「な、何を言ってるの?私がわざとやったって言うの?そんなわけないでしょ!星奈ちゃんに恨みなんてないし、なんでそんなことするのよ!」と、手を振りほどこうとした。


「そう?」知絵は冷たく笑い、手を放すとリビングの片隅を指差した。


「じゃあ、やましいことがないなら、一緒に監視カメラで確認しようよ。事実を見せてあげる!」その目は鋭くカメラを見据えていた。

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