朝の光がほのかに差し込む。
美咲は丁寧に化粧を整え、娘の一番のお気に入りのレースのワンピースをベッドの上にそっと置いた。栞奈は目をこすりながら目覚め、母の優しい微笑みに気づくと、無意識に布団の中に体を縮めた。まるで警戒心の強い小さな猫のようだ。
「今日はこのワンピース着てみない?」美咲が穏やかな声で語りかける。
栞奈はパールが散りばめられたスカートをちらりと見て、ぱっと表情が明るくなり、小さくうなずいた。
「着る!」
着飾った娘を抱きかかえて階下に降りると、健一はすでにリビングで静かに座っていた。毎朝、子どもを送り届けてから出社するのが彼の日課だ。
「パパ、見て!」栞奈はつま先立ちでくるりと回り、ピンク色のスカートがふんわりと広がる。
普段は冷たい表情の健一の顔が一瞬和らぎ、指先で娘の髪のリボンをそっと整えた。
「まるでお姫様だな」
美咲は静かに松本から栞奈のバッグを受け取る。幼稚園は高級住宅街の一角、東京でも有数のインターナショナルスクールだ。
校門の前で美咲はしゃがみこみ、娘の靴紐を結びながら囁いた。「午後は一番にお迎えに来るからね。一緒にいちごのケーキ作ろうか?」
栞奈は歓声を上げて先生の胸に飛び込み、振り返ることなくカラフルな園舎へ駆けていった。
はしゃぐ小さな背中が見えなくなるまで見送ったあと、美咲は車の方へと向き直った。朝靄の中、健一の横顔は彫刻のように冷たく、向けられた視線にさえ初雪のような冷ややかさが滲んでいた。
「歩いて帰りたいの」美咲は窓を軽くノックした。
健一の細く長い指がハンドルの上に置かれ、黒いセダンは音もなく車列に紛れていった。まるで最初からそこにいなかったかのように。
美咲はテールランプを見つめて微かに笑った。六年の結婚生活、隣にいるこの人の心だけは、いつまで経っても分からなかった。恩返しのために選ばれた妻だと知りながら、それでも心の奥で、凍てついた氷をいつか溶かせると夢見ていた。
「奥様、朝食はいかがなさいますか?」松本の声が現実に引き戻す。
年配の執事松本は驚いた様子で顔を上げた――今日は美咲の目に、氷のような冷たさが宿っていた。夫が夜を明かしても、何一つ問いたださなかった。
書斎の大きな窓から差す陽が、広げた書類に菱形の光を落とす。タブレットでは、先月アメリカの医学サミットでの講演映像が繰り返し流れていた。聴衆は数十社の外資製薬会社の代表者たち。
そして、美咲の夫――二十三歳で巨大財閥を率い、今や経済誌の表紙を飾る常連だ。
突然、スマートフォンが震えた。真紀から三枚の写真が届く。プライベートクラブの一室で、夢乃が健一にお茶を注いでいる。翡翠のイヤリングが白い首筋に揺れていた。最後の一枚、健一が夢乃を見つめる眼差しには、美咲が一度も向けられたことのないぬくもりがあった。
「気にしないでね」間髪入れず、親友からハグのスタンプが送られてくる。
「もう慣れたから」美咲は淡々と返す。
健一が世間の噂になってもいいと思うほど夢中になるのも、無理はない相手だった。ピアノリサイタルは満席、ファッション誌からも引っ張りだこ。辛口の批評家すら「白鳥のような優雅さ」と称賛する。
幼稚園の銀杏の木の下で、美咲は腕時計を見る。三時五十分、目立つ赤いスポーツカーがぴったり現れた。夢乃はミラー越しに真紅の口紅を塗り直している。まるで乾ききらない血の跡のようだ。
二年間の遠慮は、結局相手を増長させただけだった。美咲は意を決して車のドアを開けた。
ヒールの音に気づいた夢乃が顔を上げ、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「ずいぶんお噂は聞いておりますよ、美咲さん」皮肉を込めた呼び方が、鋭く突き刺さる。
「私の娘に近づかないで」美咲の声は静かだったが、辺りの空気が一瞬で冷え込んだ。
「面白い方ですね」夢乃は翡翠のペンダントを弄びながら、「大事な人を奪ったのは、あなたのほうじゃないですか?」
翡翠が陽光を反射し、目に刺さるほどの輝きを放つ。美咲は、それが先月のオークションの目玉商品だと気づいた。健一が連日出張で訪れていたのは、まさにその開催地だった。
「堂々と愛人を名乗るなんて、さすがですね、白川さん」
美咲は静かに笑う。
「本当に感心します」
放課後のチャイムが鳴り響き、美咲は背を向けて校門へ歩き出した。背後では夢乃の低い笑い声が響く。
「栞奈ちゃん、どっちのママがいいと思うかしら?」