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第4話 心の壁が少しずつ崩れていく

夕暮れが街を包み、灯りが一つずつともり始める頃。

美咲は、今季のシャネルの新作スーツに着替えて、教室の前に一番乗りで姿を現した。母親の姿を見つけた佐藤栞奈は、先生の手を振りほどき、小さな蝶のように駆け寄った。


「ママ!隣の席の子がね、ママはすごくきれいだって!」

「うれしい!今日も栞奈がとっても頑張ったからね」


美咲はしゃがんで娘を抱き上げ、鼻先をそっと頬にすり寄せる。髪からほんのり漂うミルクの香りに、胸がじんわりと温かくなった。


キッチンでは、バターがフライパンで黄金色に溶け、甘い香りが広がっている。栞奈は小さな踏み台を持ってきて、料理台の隣に立ち、じっと母親の手元を見つめていた。ふと、美咲の右頬に白い小さな粉がついているのに気づく。


「ママ、動かないで!」

栞奈はそっとティッシュを取り出し、まるで大切な任務を果たすかのように真剣な表情で言った。

「お顔に小さい雲があるよ」

「まぁ、うちの小さな探偵さんに見つかっちゃったね。」

美咲もしゃがんで、娘と目線を合わせる。


栞奈の小さな手が、不器用ながらも一生懸命に拭ってくれる。大きな瞳には集中の色が浮かんでいた。温かい指先が娘のやわらかな手に触れた瞬間、美咲は思わず目頭が熱くなるのを感じた——この子は本当に、昔から変わらず優しい天使だ。


「できた!魔法、消えたよ!」

栞奈は粉のついたティッシュを誇らしげに見せ、鼻先にも白い線をつけていた。


「栞奈は世界一の小さな魔法使いだね。」

美咲はおでこに大きなキスを落とし、娘は楽しそうに笑い声を上げた。


オーブンの「チン」という音とともに、砂糖を使わないアーモンドクッキーの香ばしい匂いがリビングいっぱいに広がる。窓の外では、夕焼けが大きな窓を蜂蜜色に染めている。

栞奈は突然窓辺に駆け寄り、顔を冷たいガラスにぴったりつけて、「パパ、まだ帰ってこないのかな?」とつぶやいた。


その時、電話のベルが鳴った。松本が受話器を取って静かに告げる。

「ご主人様は今夜、ビジネスディナーだそうです」


「じゃあ、栞奈の大好きな茶碗蒸し作ろうか。それときのこのスープもね」美咲はいつも通りの表情でエプロンを締め、娘の鼻先を指先でちょんとつつく。


夕暮れの庭で、美咲はわざと転んでみせた。栞奈はすぐにおもちゃを放り出し、転びそうになりながら駆け寄ってきた。大きな瞳には涙がにじんでいる。

「ママ、痛くない?栞奈がなでなでしてあげる」小さな手で、実際にはない傷を優しくさすり、その真剣な顔に美咲の胸は切なくなった。


子供部屋の星空ライトが天井に幻想的な模様を映し出す。娘がぬいぐるみを抱きしめて眠りにつくと、美咲はそっとドアを閉めた。指先にはまだ、娘の使っている苺の甘いボディソープの香りが残っている。書斎では、パソコンのモニターが青白く光り、最新の免疫細胞治療の実験プランが映し出されていた。


父が亡くなる間際に残した言葉がいまも耳に残っている。

「美咲、その数式を無駄にしないでくれ……」この数年、彼女が一流の学術誌に発表した七つの論文は、すべて母方の姓で署名している。


深夜一時、玄関の鍵が静かに回る音で、美咲は浅い眠りから目を覚ます。


見慣れた人影が娘のベッドのそばに立ち、シングルモルトウイスキーとチューベローズの香りが暗闇に漂う。ひんやりとした唇がおでこに触れると、美咲の全身の血が一瞬で凍りついた。


足音が完全に消えたのを確かめると、美咲はバスルームに駆け込み、シャワーを最大にして熱い湯で肌を洗い流した。触れられた場所が不自然に赤くなるまで——その独特なホワイトムスクの余韻は、白川夢乃が最も好む香水の証だった。


三日後の昼下がり


らせん階段で、美咲はティーカップを手に、ちょうど階段を上がろうとする健一と鉢合わせた。健一は仕立ての良いスーツに身を包み、タイピンのブラックダイヤが陽の光を受けて冷たく輝いている。


「まだパスポートのことで怒ってるのか?」彼は眉をひそめて行く手を塞ぎ、明らかに苛立った声を出した。


美咲の手元のカップがかすかに震え、紅茶が縁まで波紋を広げる。

「何のことか分からないわ」


男健一の目に一瞬、暗い影が差す。半月前、美咲が破り捨てたパスポートのことを思い出したのだろう。その夜、和解しようと主寝室に忍び込んだ記憶が蘇り、胃がきゅっと痛んだ。


「森川さん?」

突然の着信音が、張り詰めた空気を破る。電話の向こうで省吾が興奮気味に声を上げる。

「あのターゲティング投薬の案、素晴らしいですね!三回も読み返しました。明日、お会いして詳しく話せませんか?」


「来週でもいいですか?」

美咲は、時計の針がすでに三時四十分を指し、娘を迎えに行く時間が迫っているのを確認した。


ティーカップを持って階段を上がる途中、二階から途切れ途切れの会話が聞こえてくる。

「……もう月曜のファーストクラスは手配済み……栞奈も一緒に……」玄関のヴェネチアンミラーには、男の珍しく柔らかな表情が映っていた。

「何が欲しい?何でも買ってあげる」


この顔を美咲は知りすぎている——白川夢乃の首元に翡翠のネックレスが光るたび、健一の目にはいつもこの光が浮かんでいた。

美咲はそっと目を閉じ、ティーカップを娘の部屋の前のウォールナットのトレイに静かに置いた。

陶器が木の表面に触れる微かな音だけが、静かに響いた。


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