夕暮れが静かに降り、クリスタルのシャンデリアが眩しい光を放っている。
美咲はドアの外で、指先をぎゅっと手のひらに食い込ませていた。
電話越しに聞こえてくる楽しげな笑い声が、細い針のように胸に突き刺さる。
「夢乃さん!パパが、もうすぐ一緒に遊びに連れて行ってくれるって!」
佐藤栞奈の幼い声は、弾むような喜びに満ちていた。
「お姉さんらしいプリンセスドレスを用意してるわよ。それから、栞奈の大好きなロイズの生チョコも……」
ドアの隙間から漏れる会話に、美咲は呼吸が詰まりそうになる。
深く息を吸い込み、無理やり柔らかな微笑みを浮かべてドアを開けた。
「栞奈、お風呂に入る時間よ」
少女がくるりと振り返る。瞳はきらきらと輝き、
「ママ!一緒にスイスへ行く?」
その澄んだ瞳に、無垢な期待があふれていた。
「おもちゃのお部屋で遊んでてくれる?ママはパパと少し話があるの」
美咲は娘の柔らかな髪をそっと撫でる。娘が跳ねるように出ていくと、静かに後ろ手でドアの鍵をかけた。
シャンデリアの下、健一はレザーソファにもたれている。ネクタイは緩み、シャツの三つ目のボタンには、娘がいちごを食べた時についたジャムの跡が残っていた。
「今回の海外は、私が栞奈を連れて行くわ」
美咲は遠慮なく切り出した。
男の細長い指がライターを弄ぶ。金属の光が冷たく反射する。
「祖母は半年も孫に会っていないんだ」
「だったら、白川夢乃を栞奈に近づけないで」
美咲の声が鋭くなる。
「カチッ」とライターの蓋の音が響く。
健一がゆっくり立ち上がると、一八五センチの長身が圧倒的な存在感を放つ。
「彼女はただ、栞奈を本当の子どものように思っているだけだ」
その言葉は、毒のある刃のように美咲の心に突き刺さった。
分娩室での十六時間の激痛、産後の高熱に耐えながら授乳した夜――命がけで守った宝物を、誰かに奪われそうになっている。
突然、電話が鳴る。国際番号に一瞬戸惑いながら応じる。
「森川さん?」
「実験データ、見せてもらったよ。まさに天才的な発想だ!」
省吾の明るい声が響く。
「でも、本当にホワード教授の誘いを断るの?」
美咲は窓の外を見つめる。庭では栞奈がモモを追いかけて遊んでいる。スカートの裾が蝶の羽のように舞っていた。
「私には、もっと大事な戦いがあるの。」
電話を切ると、娘が転んでしまったのが見えた。反射的に駆け出しそうになったが、栞奈は自分で立ち上がり、スカートを払ってまた子犬を追い始めた。
その瞬間、美咲は気づいた――結婚を取り戻そうともがいていた日々、娘の成長の瞬間をどれだけ見逃してきたのだろう、と。
空港ラウンジ
十八時間のフライトの後、栞奈は父親の腕の中で眠っている。美咲は娘の小さな顔を見つめ、昨晩、首に抱きついてささやかれた言葉を思い出す。
「ママは太陽の匂いがする、栞奈はそれが一番好き」
車列が雨の中の屋敷に到着する。バロック調の建物から健一の母親ーー雅子が駆け下りてくる。翡翠のイヤリングが揺れ、しかし美咲の姿を見た瞬間、その表情が凍りついた。
「どうして突然……」
「お義母さん」
美咲は落ち着いた声で挨拶し、無意識にバッグの持ち手を握りしめた。
「私のかわいい孫!」
雅子は一瞬で顔をほころばせ、孫を抱きしめようと手を伸ばす。
「長旅で疲れていない?」
健一は娘をそっと自分の方に引き寄せる。
「まだ寝ぼけているみたいだ」
そして使用人に向かい、「消化に良い軽食を用意して」と指示する。
美咲は母親の一瞬曇った顔を見て、八年前の雪の夜を思い出す。二十歳の健一が事故で昏睡し、ICUの前で看病の許可を求めて膝をついた。三百日以上の看護の末、雅子から病室に投げられた小切手。
「十億円、息子から離れなさい。」
皮肉なことに、ついに諦めかけた時、健一がまだ回復しきらぬ体で引き止めた。
「結婚しよう」
新婚旅行の日に、夫の書斎の壁一面にある監視カメラの映像を見て気づいた。
あの看病の日々の全てが、病院のカメラに記録されていたことを。
最初から、この結婚は恩返しという名の計算だったのだ。
「お嫁さんの部屋は準備できてる?」
雅子が声を張る。
使用人が慌てて駆け寄る。
「三階のゲストルームは……」
「私は子ども部屋で寝ます。」
美咲はきっぱりと遮り、目をこすっている娘を抱き上げる。
「栞奈は慣れたベッドじゃないと寝付けないので、私が一緒に寝ます」
腕の中の小さな体は、まだミルクの香りがして温かい。
美咲はそっと娘の頭にキスをして、心の中で誓った――今度こそ、誰にもこの子を奪わせはしない。
外では雨が上がり、月明かりが雲を割って、二人の影を長く長く伸ばしていた。