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第6話 母の距離感


そのとき、雪のような銀髪の女性が花の間からゆっくりと歩いてきた。

佐藤家の夫人だった。


「美咲、来たのね。」

「おばあ様。」

美咲は祖母に親しげに挨拶する。結婚してからというもの、祖母はいつも優しく接してくれていた。


「まあ、栞奈ちゃん、こんなに大きくなって!おばあ様じゃ抱っこできないわね!」

夫人は愛しそうに曾孫を見つめている。


十数時間の長旅を終え、美咲はさすがに疲れていた。

娘は母と祖母に遊んでもらっているので、ひとまず邪魔をせず、簡単に身支度を整えるとそのまま部屋で休むことにした。


夜も更け、娘はまだ元気いっぱいだった。

美咲は眠気を我慢して、二階のリビングで一緒に遊ぶことにした。

しばらくすると、健一も現れた。

綿のパジャマ姿でソファに腰かけると、栞奈がすぐに駆け寄ってきて、「パパ、遊んで、遊んで!」


「いいよ、何して遊ぼうか?」

「つみき!」


健一は辛抱強く娘と積み木遊びにつきあい、美咲はその様子を傍らで見守っていたが、次第に強い眠気に襲われ、ソファに伏せてうとうとし始めた。


半分夢の中で、娘にそっと起こされる感触がした。

意識が戻ると、娘が小声で言っているのが耳に入った。

「パパ、ママをお部屋まで抱っこしてあげて」

「自分で起こせばいいよ」

「でも、前に夢おばさんのことは抱っこしてたじゃない!なんでママはだめなの?」

栞奈の声には明らかな嫉妬の色があった。


美咲の胸がざわつく。健一と白川夢乃が親しくしている時、娘の前でも遠慮がなかったのか、と。

さすがにひどい。


美咲は目を開けて、起きたふりをした。

「栞奈、ママと一緒に寝ようね」


目を上げると、ちょうど健一と目が合った。

彼も、今の会話を美咲が聞いていたことに気づいているようだった。


「怖いから、パパもママも一緒に寝たい」栞奈が唇を尖らせる。

「パパはまだ仕事があるから、先にママと寝てて」健一はそう言うと、書斎へと向かった。


娘が泣きそうな顔になるのを見て、美咲はすぐに抱き上げ、「さあ、行こう。ママが絵本を読んであげる」


翌朝、美咲は娘の手を引いて階下へ向かった。


「奥様、おはようございます。朝食のご用意ができております。」女中が近づいて伝える。


美咲は頷き、娘とダイニングへ向かう途中でふと尋ねた。「主人は? 」


「ご主人様は今朝早くお出かけになりました」


美咲はすぐに状況を理解した。自分が戻ってきたことで、白川夢乃は家に来づらい。だから健一が外で会うしかないのだ。


今ごろ、二人は銀座のどこかの高級カフェで落ち合っているか、あるいはホテルで朝のひとときを過ごしているのかもしれない。


午後は、しばらく夫人と談笑した。義母の雅子はあまり美咲に好意的ではないが、孫娘の前では態度を控えめにしている。


「美咲さん、栞奈ももう五歳ね。一人っ子は寂しいでしょ。若いうちにもう一人くらい産んだらどう?家ももっと賑やかになるわよ」夫人は美咲の手を取り、あからさまに孫を催促する。


美咲は、その言葉に特別な抵抗はなかった。夫人の立場を思えば、家系が賑やかになることを望むのは当然だろう。


娘と遊んでくれる人がいるので、美咲はまた部屋に戻って資料の整理をした。父の遺志を継ぎ、研究室の設立を進めなければならないのだ。


夕食の時間になり、健一が帰宅した。


「さあ、栞奈、あーんして」雅子が孫にご飯を食べさせる。顔には満足げな笑みが浮かんでいた。


子供がいるおかげで、家の空気も少し和らいでいた。しかし、夫人は孫夫婦の間に漂う微妙な距離感を敏感に感じ取っていた。


彼女は生きているうちに、もう一人曾孫ができることを心から願っていた。


食後、夫人はわざわざ雅子と栞奈を席から外させ、健一と美咲を呼び寄せた。


「美咲、若いんだからもっと外に出かけたらどう?いつも私たち年寄りとばかりいてもつまらないでしょう。」夫人は率直にそう勧める。


美咲は微笑み、「おばあ様、家にいるのが好きなんです。」


夫人は、美咲があまり海外に出たり友人付き合いもなさそうだと気づき、急に真剣な顔で健一に向き直った。

「健一、妻を家に置いて自分だけ遊び歩くなんて、どういうつもりなの?」


健一は探るような視線を美咲に向け、美咲は視線を落とした。どうやら、健一は美咲が何か不満を言ったのだと思っているようだった。


「今夜は栞奈を預かるから、二人で出かけてらっしゃい。遅くなってもいいから。」夫人は意味ありげに言った。


家の中では気まずいなら、外で過ごせばいい、という意図だ。


美咲は祖母の気持ちを察し、「お祖母様、外は寒いので、家にいたいです。」と控えめに返す。


「車も暖房もあるでしょう?寒くなんてないわよ。行っといで。」夫人は手を振った。


さらに何か理由を探そうとする美咲に、健一が低い声で「行こう」と促す。


「いってらっしゃい!」夫人の顔にようやく笑みが戻った。


美咲はこれ以上断ることもできず、頷くしかなかった。


健一は車を玄関に回し、美咲は助手席に乗り込んだ。夫人は窓辺からその様子を見守り、ようやく安堵の表情を浮かべていた。


車が屋敷を出ると、車内の空気はどこか重苦しく、美咲は居心地の悪さを覚える。


そのとき、カーナビの電話が鳴った。ディスプレイに「夢」という文字が鮮明に浮かび上がる。


美咲は一瞥して、すぐに窓の外に顔を向けた。


健一は無言で着信を切る。


やがて市街地に入ろうかというところで、美咲が口を開いた。

「どこか適当な場所で降ろしてください。」


「一緒に来い。」

健一の声は相変わらず淡々としていた。


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