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第8話 もし君が望むなら、私が連れて行く


「健一、こちらにおいで。君に紹介したい人がいるんだ」


田中陽太が健一を呼び寄せた。

健一は田中とともに美咲と省吾のいる場所へ向かう。田中が少し驚いたように尋ねる。


「美咲さん、森川さんとお知り合いなんですか?」


美咲は微笑みながらうなずく。


「ええ、知り合いです」


田中は朗らかに笑った。


「健一、紹介したかったのはこの省吾さんだ。ホワード教授が一番目をかけている優秀な弟子で、将来の医学界を担う逸材だ」


健一の目に一瞬、感心と親しみの気配が浮かぶ。彼は手を差し出した。


「森川さん、はじめまして。佐藤健一です」

「はじめまして」


森川は健一をひと目見て、しっかりとした握手を交わし、すぐ手を離した。


「美咲さん、お会いできて嬉しいです」


森川は軽く微笑みながらその場を離れた。

健一の視線はしばらく森川を追い、やがて再び美咲に向けられる。美咲がジュースを取りにワインラックへ向かおうとしたその時、突然大きな手が彼女の腕を掴んだ。力が少し強い。


「自分の立場をわきまえろ」


低く抑えた男の声には、無言の警告と圧力が滲んでいた。

美咲の唇にかすかな皮肉の笑みが浮かぶ。彼は愛人を連れて堂々と社交の場に現れているのに、自分が森川と少し話しただけで警告されるのだ。


彼女が軽く身を引くと、健一は手を離した。美咲は再びワインラックへ向かう。その時、隣で白川夢乃がある富裕そうな奥様とドイツ語で会話しているのが聞こえた。


「あの方はどなた?お見かけするのは初めてね」


白川は微笑みながら答えた。


「健一の日本での奥様よ」


奥様は少し驚いた表情を見せると、「それなら今夜は白川さんも気をつけて、佐藤さんとは距離を置いたほうがいいわ。奥様がご機嫌を損ねるかもしれないから」


夢乃は口元に笑みを浮かべて言う。


「気にしませんよ。もう離婚の手続き中ですから」

「あの人、あまり場慣れしていなさそうね。佐藤さんとはちょっと釣り合わないかも」


奥様は美咲を一瞥し、声を潜めて言った。


彼女たちは美咲がドイツ語を理解していないと思っているようだが、美咲はこの六年の間に四か国語を話せるようになっていた。


夢乃が離婚の話を公然と広めるのは、健一の黙認があってのことなのだろうか? 


健一はグラスを手に、二人の男性と談笑している。森川はひとりでいる美咲に目をとめ、再びグラスを持って近づいてきた。


「美咲、どうしてスイスに?いつ来たの?」


美咲は突然英語で答えた。


「夫と娘と一緒にクリスマスを過ごしに来たの」


森川も微笑み、同じく英語で返す。


「僕が教えたこと、ちゃんと覚えてくれてるんだね」


彼は少し身を寄せながら、ちらりと夢乃のほうを見やった。


「もし、ここから出たいなら、今すぐ連れていけるよ」


森川は健一の愛人が夢乃であることを知っているようだった。美咲は淡く微笑む。


「ありがとう。必要な時は、お願いするわ」


そのやりとりを、健一が冷ややかな視線で見ていた。先ほどまで微笑んでいた目が一瞬で鋭くなり、グラスを口元に運ぶ手も数秒止まる。


「みんなでゲームをしようよ!名前は仮で“味覚クイズ”。酒の種類を当てるゲームだ」田中陽太が提案した。


場の空気が一気に盛り上がる。夢乃は田中の隣で意味ありげな微笑を浮かべ、美咲のほうに視線を送る。何か面白い展開を期待しているようだ。


美咲は傍観者のような気持ちで、早く終わってくれればいいのにと思いながら皆を眺めていた。


ソムリエが三本のワインボトルを黒い布で隠し、トレイにそれぞれのワインが注がれたグラスを用意する。参加者はグラスのワインの主な風味を当てるだけでいい。


最初に指名されたのは健一だった。彼は赤ワインを手に取り、軽く回して一口含み、静かに言う。「カシスリキュール。」


「正解!次の方どうぞ」


次は夢乃の番だ。彼女は優雅にグラスを揺らし、赤い唇を開く。


「オーク樽の香りかしら?」


田中は黒布をめくり、笑いながら言った。


「夢乃さん、今回は惜しかったですね」


夢乃は困ったように眉をひそめ、口元に手を当てて小さく咳をした。


「田中さん、罰は軽めにしてくださいね?」


「じゃあ、このグラスを飲み干してもらおう!」田中が笑う。


夢乃はグラスを見つめて困った表情を見せる。


「私が代わりに飲みます」その声が響いた。


言うが早いか、健一がグラスを取り上げて一気に飲み干した。

美咲は冷めた目でその様子を見ていた。夢乃は、健一の同情を引く術をよく知っている。

ライトの下、夢乃の頬がほんのり赤く染まり、健一に向かって小さく礼を言う。


「ありがとう」


森川の番になると、彼はグラスを味わいながら言った。


「グラファイトのニュアンスがある気がしますが、どうでしょう」

「当たりです、さすが!」


次は美咲の番となった。田中はその存在を思い出したように、少し驚いた表情を見せる。夢乃と親しげな奥様が促す。


「奥様、どうぞ!」

「彼女は参加しなくていい。」健一が口を挟む。


奥様が楽しそうに言う。


「佐藤さん、参加したほうが面白いでしょう?」


一瞬で全員の視線が美咲に集まる。美咲は微笑む。「それでは、私も挑戦してみます。間違えたらお許しを。」


彼女は細く白い指でクリスタルのグラスを持ち、液体を揺らしてからそっと香りを嗅ぐ。穏やかな表情の中に、どこか神秘的でクラシックな雰囲気が漂う。


夢乃は心の中で思う。もし美咲が間違えたら、健一は代わりに飲んでくれるだろうか。


美咲は一口含み、しばらく味わった後で答える。「失礼します。これはカシスの香りのワインだと思いますが、いかがでしょう。」


田中がワインの黒布を外し、驚きながら言った。


「美咲さん、さすがですね!大正解です!」


夢乃の目にわずかに落胆の色が浮かぶ。佐藤家にはたくさんのワインがあることを、うっかり忘れていた。これくらいのゲームで美咲が困るはずがない。


「美咲さんはワインにも詳しいなら、きっと芸術にも造詣が深いのでしょう。あちらにピアノがありますが、一曲ご披露いただけませんか?」


夢乃が微笑んで提案する。その目に、明らかな挑発の色が浮かんでいた。


「夢乃」


健一がやや困った声で呼ぶ。

夢乃は唇を噛み、少し拗ねたように言った。


「それなら、やめておきます。忘れてください。」


一瞬、場の空気が張り詰める。田中と誰かが目を合わせ、空気を変えようとしたその時――


美咲が静かに微笑み、「それでは、僭越ながら弾かせていただきます。」


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