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第12話 親密な距離への抵抗


友人の言葉に、美咲は黙り込んだ。今の自分は、親権争いで有利な立場とは言い難い。


「健一みたいな地位もある人なら、浮気の一つや二つは仕方ないよ。そんなに気にしないで、無理して自分を追い詰めないでさ。いっそのこと、もう一人子どもを作っちゃう?」


真紀が身を乗り出して囁いた。

美咲は顔を上げ、淡く微笑んだ。


「彼がいなくても、私はきっともっと幸せになれるよ」


その時、美咲のスマートフォンが鳴った。席を立ち、外で電話に出る。


「もしもし、小林さん」

「美咲、今ちょっと時間ある? 研究センターでミーティングがあるんだ」

「はい、すぐ行きます」


会議は山本教授が自ら指揮を執るもので、国内の医学研究機関が合同ラボを設立するための話し合いだった。彼ほどの権威が声をかければ、誰もが従うのは当然だった。


美咲が会場に着くと、小林が手招きして隣の席を促した。

顔を上げると、懐かしい顔が四人並んでいた。みんな東京医科大学時代の同級生たちだった。


美咲は大学二年の秋に中退した。

当時、妊娠が分かってのことだった。その後、娘を産み、人からは家庭に専念したと思われていた。


美咲が会議室に現れると、同級生たちは驚きと戸惑いの表情を浮かべた。


会議が終わると、美咲は娘の迎えに急いでいた。佐々木が追いかけてきて声をかける。


「美咲、久しぶりだね。もう六年ぶりじゃない?」


「本当、久しぶりだね」美咲は微笑んだ。


「どうして今日の会議に参加してたの?」すらりとした背の女の子が尋ねる。


「山本先生に呼ばれたの」と美咲。彼女のことはよく覚えているーー鈴木晴子。同級生で、才色兼備の人だ。


腕時計を見て、美咲は一言。


「ごめん、急用があるから先に失礼するね」


背後で、遠慮のない声が飛び交う。


「なんで彼女がこのプロジェクトに入れるの?」

「そうだよ。大学すら卒業してない人が、私たちの努力は何だったの?」


佐々木が割って入る。


「君たちも、彼女のお父さんが誰か知ってるだろ。そんなに詮索しなくていいんじゃない?」


午後、美咲はモモを連れて娘を迎えに行った。栞奈はとても嬉しそうだった。家に戻ると、モモと娘は庭で駆け回って遊び、美咲はその側で本を読んでいた。犬の鳴き声と娘の笑い声が重なり、自然と口元がほころぶ。


六時、健一が帰宅した。腕にスーツの上着をかけ、グレーのベストが引き締まった体を際立たせる。スラックスの下には、モデルのように長い脚が続いていた。


美咲はリビングで娘と一緒にアニメを見ていた。健一が入ってくると、ちらりと一瞥しただけで、また画面に目を戻す。まるでこの幼稚なアニメの方が、目の前の男よりもずっと興味深いかのように。


「パパ!」栞奈が甘えた声で駆け寄る。


健一はしゃがんで娘の頭を撫で、つい頬にキスした。


「今日はいい子にしてたか?」

「すごくお利口だったよ! ご飯も一番に食べ終わって、先生に褒められたんだ!」

「そうか。パパ、お風呂入ってから一緒に遊ぼうな。」

「うん!」


美咲の鼻は敏感で、かすかに残る香水の匂いに嫌悪感を覚えた。昨夜自分が彼を拒んだせいで、今日は早速、白川夢乃の元に行ったのだろう。


夜九時。美咲は三階の書斎でレポートを書いていた。

ドアが開く。娘かと思ったが、入ってきたのは健一だった。

美咲はすぐにレポート画面を閉じ、ニュースでも見ているふりをした。


健一は向かいのソファに座り、長い脚を組んで、ゆっくりとした口調で言った。


「いつまで俺に怒ってるつもりだ?」


美咲は少し驚いて顔を上げた。「別に怒ってないわ。」


「じゃあ、その態度は何なんだ?」健一の視線は鋭い。


「じゃあ、どういう態度をとればいいの?」と美咲。


健一は目を細めた。


美咲はかつて、白川夢乃と直接対決しようと思ったことがあった。しかし、親権争いで勝算がない今、離婚に踏み切るわけにはいかなかった。


「分かったわ。」美咲は淡々と答えた。


健一は突然立ち上がり、美咲の手首をつかんで椅子に押し付ける。威圧感が一気に迫ってきた。


「俺を軽く扱うな。」低い声には、有無を言わせぬ力がこもっていた。


手首が痛み、美咲は眉をひそめる。「離して。」


健一は黒い瞳でじっと見つめ、低く警告した。「妻としての務めを果たせ。」


そう言い残して、手を離し部屋を出ていった。


彼の怒りが、空気にまだ残っているようだった。美咲は痛む手首をさすりながら、静かに怒りを覚えていた。


夫としての資格もない男が、妻の役割を強要するなんて――


馬鹿げている。


その後の日々、美咲は朝に娘を送り、午後に迎え、昼間は仕事をこなす。あの日以来、健一は一度も夜の関係を求めてこなかった。


健一は、決して頭を下げない狼のように、誇り高い男だった。


ある日、美咲は出かける途中で追突事故に遭い、学校の門前で十数分足止めされた。車を停めて校内に駆け込むと、気が気でならなかった。


教室の前に着くと、ピンクのドレスを着た栞奈の腰のリボンを、白川夢乃がかがんで直していた。「またお母さん遅れちゃったの? でも大丈夫、夢乃おばちゃんが生チョコ持ってきたよ。ほら。」


胸の奥に怒りが込み上げた。何気ない言葉に見せかけて、母娘の間を引き裂こうとしているのは明らかだった。


美咲は感情を押さえ、微笑みながら近づく。「栞奈、ママ来たよ。」


「ママ、遅いよ。」栞奈はすねた顔で訴える。


「ごめんね、明日は一番に来るから、ね?」そう言って、美咲は娘を抱き上げた。


「夢乃さん、生チョコ食べたい。」五歳にも満たない子どもにとって、チョコの誘惑には抗えない。


白川夢乃は一歩前に出て、チョコを差し出す。美咲は娘に優しく言った。


「栞奈、あっちでちょっと遊んでてくれる?」


栞奈はランドセルを降ろし、遊び場に駆けて行った。


娘が離れると、美咲の表情は一変し、冷たい声で告げる。


「白川夢乃、あなたがどんなつもりか知らないけど、これ以上私と娘の間を邪魔したら、絶対に許さない。」


白川夢乃は余裕の笑みを浮かべ、髪をかき上げた。

「栞奈に会いに来てるだけよ。健一だって別に気にしてないんだし、そんなに怒らなくても」


美咲はきっと睨みつけ、拳を握りしめて言った。

「次に娘に近づいたら、すぐに警察を呼ぶから」

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