目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第13話 同じベッドへの誘い


健一は夕食の席で、美咲に「一週間出張に行く」と告げた。

美咲は特に問いただすこともせず、ただ栞奈が「パパに一週間も会えない」と知るや否や、箸を置いて泣き出してしまった。

健一が「お土産を買ってくる」と約束すると、ようやく涙をぬぐった。


一週間はあっという間に過ぎた。美咲は新設される研究室の準備と娘の世話で忙しい日々を送っていた。

金曜日、栞奈をインターナショナル幼稚園に送り届けた後、その足で東京医科大学の研究センターへと急いだ。

明るいロビーに足を踏み入れた瞬間、懐かしい姿が目に飛び込んできた。思わず目を見張る美咲――そこにいたのは省吾だった。


淡いベージュのトレンチコートに身を包み、誰かと談笑しながら、細く長い指先で眼鏡を押し上げる仕草は相変わらず。優しい微笑みも昔のままだ。誰かの視線に気づいたのか、ふいに森川は振り返り、正確に美咲を見つけ出した。


「佐藤さん、またお会いしましたね。」


森川はゆっくりと歩み寄り、再会の温もりを感じさせる声をかけてくる。

美咲は心の動揺を抑えながら、「森川さん」とだけ応じた。


森川は微笑みつつ彼女を見つめる。

「前は気づかなかったけど、君の目、お父様にそっくりだ。」

「森川さん、どうしてここに?」

美咲は素直な疑問をぶつける。

「国内に世界最大規模のゲノム解析センターを作るって聞いて、とても興味があったんだ。ちょうど入職の手続きもあってね。」


森川の眼差しは明るい。

「先輩も入るんですか?」と美咲が一歩踏み出すと、森川は頷き、さらに柔らかな笑みを浮かべた。


「うん、この研究に加わることにしたよ。」

「本当ですか! 心強いです、これからよろしくお願いします。」


美咲は手を差し出す。森川はその手をしっかりと握った。


「君のお父様と一緒に働けたこと、そして君と同じ大学で学べたこと、さらに今は同僚になれるなんて、不思議な縁だ。」


森川はしみじみと言う。


少し離れた廊下の角で、鈴木晴子は書類を抱えたまま森川をじっと見つめていた。


「そんなに見とれてるの?」隣の同僚が肘でつつく。


晴子は頬を赤らめて答える。


「誰か分かる?あの人、アメリカ帰りの天才医師よ。」


その目には憧れが隠しきれない。しかし美咲の姿を見つけた途端、表情がさっと冷めた。


「ふん、美咲? どうせまた父親のコネで森川博士に近づいたんでしょ。」

心の中で軽く嘲笑いながら、実力勝負のこの世界で美咲がボロを出すのも時間の問題だと思っていた。


会議では、森川の加入により研究チームは活気づいた。名高い若き天才が自ら帰国し加わるのは、まさに大きな追い風だった。


「美咲さん、」会議後、小林が笑顔で声をかけてきた。「土曜日の夜、森川博士の歓迎会やるから、絶対来てよ!」


「もちろんです。」美咲も笑顔で応じる。


「森川博士が加わって、僕らもますますやる気が出るよ!」小林は声を弾ませて言った。


その頃、森川は他の先輩たちとの話を終えて、二人の方へ歩み寄ってきた。


「森川博士、」小林が明るく声をかける。「今夜はぜひ歓迎会でゆっくり話しましょう。お酒もたっぷり用意してますから!」


「楽しみにしています。」森川は頷き、そして美咲の方に視線を向けた。


「佐藤さん、あなたの“がん免疫療法が固形腫瘍の微小環境で九十日以上生存する”というアイデア、本当に驚きました。どこからその発想が?」


それは美咲が六年かけて掘り下げてきた研究テーマだった。


「父が残したデータを元に、独自に推論してみました。まだ理論段階で、実験が必要ですけど。」


森川は心から感心した様子で、「分析レポートも読みましたが、先見性と実現性が素晴らしい。実は、僕が帰国を決めたのも、あなたの研究に強く惹かれたからなんです。」と告げると、すぐに「誤解しないでください、学術的な意味でですよ」と付け加えた。


美咲は微笑んで、「一緒に働けて嬉しいです」と返した。


その夜、美咲は手作りのカラフルな風鈴を栞奈にプレゼントした。星型の飾りが灯りの下で揺れて、鈴の音が心地よく響く。栞奈は大喜びで手放さなかった。


外から車のエンジン音が聞こえ、栞奈は「パパだ!」と飛び跳ねた。


美咲が玄関に出ると、栞奈はすでに健一に抱き上げられていた。


「パパに会いたかった?」


「うん! お土産は?」と健一の首にしがみつく。


健一はトランクから可愛らしいぬいぐるみを取り出した。「気に入った?」


「わあ! 大好き!」栞奈は目を輝かせた。


健一は美咲に目をやった。「君へのお土産は、明日渡すよ。」


「気にしないで。」美咲は淡々と返す。


健一の表情が少し曇るが、それ以上何も言わず娘のプレゼントの包装を開けに行った。その隙に美咲は自室へ戻り、仕事に取りかかった。


夕食時、健一が娘に話しかける。「おばあちゃんとひいおばあちゃんが帰国したよ。明日会いに行く?」


美咲は一瞬驚いた。今回の「出張」は、母と佐藤家のご婦人を迎えに行くためだったのだろう。


栞奈は目を輝かせる。「ほんと? お祖母ちゃん家に泊まってもいい?」


「明日は週末だから、パパが送ってあげるよ。」健一が優しく頭を撫でる。美咲は納得した。もうすぐ年末、佐藤家は二人の祖母を早めに帰国させていたのだ。


深夜。美咲が栞奈を寝かしつけて子供部屋を出たところ、ちょうど健一が主寝室から電話をしながら出てきた。普段は見せない優しい声で、「大丈夫、すぐ行くから……あと数分で着く」と話している。


間もなく、車のエンジン音が遠ざかった。数分で行ける場所――白川夢乃の家しか思い当たらない。


翌朝の朝食時、松本さんが「ご主人、夜中の二時にお帰りでしたね」と“何気なく”話しかけてきた。美咲は変わらぬ表情で「そうですか」とだけ返した。


健一が階下に現れると、松本さんはすぐに台所へ引っ込んだ。美咲は栞奈の髪を可愛くまとめ、ピンクのダウンコートを着せる。飼い犬モモは嬉しそうに娘の周りを走り回っている。


「パパ、モモもお祖母ちゃん家に連れて行っていい?」と栞奈が見上げて聞く。


健一はしゃがんでファスナーを閉めてやりながら、「お祖母ちゃん家は広いから、モモがはぐれたら大変だよ。ママに預けておこう」と答えた。


渋々ながらも、栞奈は従った。健一の車を見送ると、美咲は松本さんに「お昼も夜も外で食べるので、用意はいりません」と伝えた。


この日は森川の歓迎会があるため、夜は外食。昼も研究センターの食堂で簡単に済ませる予定だった。


医大の研究棟の前で車を停めたところ、小林が満面の笑みで駆け寄ってきた。「美咲さん、朗報だよ! 大手企業から続々と提携のオファーが来てる!」


美咲は微笑みながら「お疲れさま」と労う。


「当然のことだよ!」と小林は得意げに続ける。「ところでさ、ご主人は医薬業界に興味ない? 投資してもらえる可能性あるかな?」


美咲は一瞬立ち止まり、即座に健一を巻き込みたくないと思った。「……あまり興味がないと思います。彼はテクノロジーや石油関係が専門なので。」


「そう? でも機会があればぜひ紹介してよ。もしかしたら興味持つかもよ?」


「はい、機会があれば。」と口では応じるものの、絶対に健一に関わらせないと心に決めていた。


歓迎会は市内の高級ホテルレストランで開かれた。美咲は資料の修正で遅れ、途中の事故渋滞も重なって、到着したのはほぼ七時。小林からの催促電話に「今ロビー、すぐ行きます!」と答えながら急ぐ。


だが、エレベーターホールに入った瞬間、思わず足が止まった。白川夢乃がシャンパンゴールドのドレスに身を包み、横には健一がいた。


エレベーターが開き、二人は並んで中に消えた。


朝、娘を送り出したのも、すべて白川と二人きりになるためだったのか。美咲は内心冷笑した。もう何も感じないはずなのに、あからさまな浮気現場を目の当たりにすると、やはり心が冷えきる思いだった。


個室はすでに賑やかで、料理もほとんど揃っていた。小林が「美咲さん、やっと来た! 席は森川博士の隣、今日はしっかり乾杯してよ!」と迎え入れる。


美咲が森川の隣に座ると、何人かの視線が集まる。その中には晴子もいた。本当はこの席に座りたかったのに、リーダーの小林に譲るように言われていたのだ。


照明の下、美咲は静かで清楚な雰囲気、森川は知的で端正。二人並ぶ様子はどこかしっくりと調和していた。


晴子は悔しさを噛みしめ、しかし自分の専門知識でいずれ美咲を圧倒できると信じて、気持ちを立て直した。


小林がグラスを掲げて立ち上がる。

「まずは、研究室設立という感動に! この一杯は最大の功労者、美咲さんに!彼女がいなければ、僕たちはここで集まることもなかった!」


晴子はグラスを傾けながら、内心では「大学中退者がこんな企画を出せるわけない。どうせ父親の古い論文を拝借しただけでしょ」と冷ややかに思っていた。


美咲は落ち着いて立ち上がり、堂々と乾杯に応じる。


「そして二杯目は」小林が森川に向かう。

「今夜の主役、天才医学博士・省吾さんに!ようこそ!」


全員が再びグラスを合わせる。森川は眼鏡を押し上げ、堂々と応じた。若い研究者たちが未来への夢を語り、会場は終始盛り上がっていた。


九時半、宴はお開きとなった。

森川は「ホテルまで車に乗せてほしい」と美咲に声をかけ、二人でエレベーターへ向かう。


「ピン」とエレベーターが開くと、ひとりの男性が片手をポケットに入れて立っていた。


天井の光がその端正な顔立ちを浮かび上がらせる。健一だった。静かな視線が美咲と森川に向けられる。


「美咲さん、お会いできて嬉しいです。」森川が落ち着いて挨拶する。


健一は軽く頷いて返した。


「美咲さん、また明日。」森川は同乗せず、美咲にだけ微笑んで別れを告げた。


「また明日。」美咲はエレベーターに乗り込む。


無言のまま一階まで降り、二人は何も言わず外に出た。美咲はすぐ車に乗り込み、エンジンをかけて先に出て行った。


マンションの前に着いた頃、下腹に鈍い痛みが――月のものが来たのだ。美咲は商業施設のコンビニに車を停め、必要なものを買った。


帰宅すると、松本さんが困った顔で出迎えた。

「奥様、今夜お休みいただいてもよろしいですか?娘が熱を出してしまって……」


「もちろん、早く行ってあげて。」美咲はすぐに許可した。


広い家に一人きり。入浴を済ませ、蜂蜜入りのお湯を飲み、再び仕事に取りかかる。


深夜、眉間を揉んでいた頃、玄関が開く音がした。健一が帰宅した。娘も松本さんもおらず、家には二人だけ。美咲は気分が悪くなり、早く自室に戻りたいと願った。


三階から階段を下りた角で、ちょうど上がろうとしていた健一と鉢合わせた。美咲はなんとか「お帰りなさい」とだけ口にした。


健一は無言のまま、すれ違っていく。木の香りに、白川がよく使う甘い香水が微かに混ざっていた。美咲は眉をひそめ、足早に自室へ戻り、ドアを施錠した。


身支度を終え、本を読んでから灯りを消して横になる。


カチャリ、と小さな音がして、ドアが開いた。


健一が黒いシルクのガウン姿で入ってきた。濡れた髪を後ろに流し、風呂上がりなのが分かる。ベッドの脇に立ち、美咲を見下ろす。


「何か?」


美咲はすぐに身を起こし、無意識に警戒心を滲ませた。

健一は静かな声で言った。


「栞奈もいない。もう、別々に寝る必要はないだろう。」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?