「お子さんもこの学校に通われているんですか?」と、美咲が興味深そうに尋ねた。
「姪を迎えに来ただけですよ。」田中は穏やかに微笑んだ。
午後四時二十分、二人は続けてお迎えのエリアに入る。佐藤栞奈は、ハーフの小さな女の子と手をつないで遊んでいた。
「ママ!」
「おじさん!」二人の子どもが元気よく駆け寄ってくる。美咲は娘を抱きしめると、同時にそのハーフの女の子が田中の胸に飛び込むのが見えた。
「二人は同じクラスなんですね。」美咲がにこやかに言う。
「メイアンは私の一番の友だち!」栞奈は嬉しそうに答えた。
美咲はうなずきながらも、田中陽太に命を助けられたことを改めて心に刻んだ。
その時、栞奈が興奮した様子で後ろに向かって叫ぶ。「パパ!」
美咲ははっとして振り返ると、健一が人混みの中から現れた。栞奈は父親に走り寄り、健一は娘を抱き上げ、そのまま陽太の方へと歩み寄る。
「姪の件、他に希望はないか?」健一は心配そうに声をかける。
田中は首を横に振った。
「なにか力になれることがあれば遠慮なく言ってくれ」
「ありがとう。」田中は感謝の笑みを浮かべ、姪を連れてその場を後にした。
美咲は二人の会話をなんとなく聞き取って、(もしかして田中陽太の妹が何か問題を起こして、そのために姪を預かっているのだろうか)とぼんやり考えた。
「ママ、おうち帰ろう!」栞奈が呼ぶ。
我に返った美咲は、健一が自分を見ていることに気づき、娘に微笑みかける。「うん、帰ろう。」
健一は娘を自分の車に乗せたがっていたが、栞奈は「パパ、ママの車がいい!」と駄々をこねる。仕方なく、美咲の車に娘を乗せた。
帰り道、栞奈は学校の出来事を楽しそうに話し続ける。
家に着くと、美咲はソファで娘と過ごしながら、たまったメールを確認した。最近は研究室の準備で忙しく、未読メールは百通以上に膨れ上がっている。
中核メンバーとして、研究室のあらゆる連絡が美咲の元に届く。先ほど小林太郎から来たメールには、設立総会の日程が記載されていた――明後日だ。出席者リストには健一の名前もあり、自分は研究チームの一員として載っていた。
正式な書類から自分の名前を消すことはできず、せめて健一が英語の綴りに気づかないことを願うしかなかった。
しばらくして、健一がスーツ姿で帰宅すると、モモがしっぽを振って出迎えた。
健一は足元の小さな犬を見下ろし、少しだけ眉を上げる。最初はペットを飼うことに乗り気ではなかったが、今では家に帰るたび、この小さな存在に迎えられることが悪くないと思っている。
「パパ!」栞奈がぴょんぴょん跳ねながら駆け寄る。小さな頭がちょうど彼の太ももの高さだ。
健一は娘の髪を撫で、ふっくらした頬に気づいてしゃがみこみ、そっとキスをした。「パパ、ちょっとシャワー浴びてくるから、あとで一緒にボールで遊ぼうな。」
「うん!」栞奈は満面の笑みでうなずく。
健一はスーツをハンガーにかけ、二階に上がる。二十分後、黒いニットに着替えて戻ってきた。濡れた黒髪が額に少し垂れ、どこか気だるげな雰囲気を漂わせている。
「パパ、早く!」栞奈が手を引いてリビングでボール遊びを始める。
美咲はそれに気を取られることもなく、ひたすらメールの処理に集中していた。あの一件以来、彼女の雰囲気はどこか芯の強さと静かな覚悟を帯びるようになっていた。
健一はボールを蹴りながら、何度となくソファの美咲に無意識に視線を送る。
美咲はメールを終えると、二階へ上がり、夕食の時間になるまで下りてこなかった。松本さんの料理は相変わらず美味しく、栞奈はほっぺたをふくらませながら食べていた。
食後、美咲は小林太郎からの電話を受けた。話題は、研究室が近々発表する論文についてだった。この論文は学会での発表が予定されており、研究室の評価を高めるため、美咲に執筆を任せるという。
「小林さん、大丈夫です。金曜日までに必ず仕上げます。」と自信を持って答える。
「もう君の名前は山本先生の下につけておいたし、東京医科大学の在籍生として扱うよう手配したから。これで学歴のことは問題ない。」
「ありがとうございます。」美咲はほっとして笑った。
電話を切ると、美咲は健一の部屋に娘を迎えに行こうとしたが、中から電話の着信音が聞こえ、続けて栞奈の声がした。「パパ、夢乃おばさんからだよ。」
美咲は足を止め、ドアの外で耳を澄ます。健一が電話に出る声が低く優しい。
「どうした?」
「まだ痛むのか?」
「薬、塗った方がいいよ。」
「今度は気をつける。」
美咲はこれ以上聞きたくなかった。
*
九時半、美咲は娘を呼んで一緒にお風呂に入るよう促した。風呂上がり、絵本を手に取り、栞奈に簡単な文字を教える。
「ママ、今日先生にピアノをほめられたよ。」
「ママも弾けるから、今度ピアノを買おうか?」
美咲は、娘が白川夢乃からピアノを習っていることを知っていた。
「本当?ママも弾けるの?」栞奈は目を輝かせる。
美咲は頷きながら微笑む。「ママが教えてあげる。」
「やった! 私のママが一番!」栞奈は美咲の顔を両手で包み、ほっぺにキスをした。美咲は娘を抱きしめ、久しぶりに心が満たされるのを感じた。
娘が寝静まった後、美咲はそっとドアを閉め、三階の書斎で論文執筆に取りかかった。
細い指がキーボードを打ち、画面には整然とした医学論文が形になっていく。この時の美咲は、ひたすら真剣な眼差しで、プロフェッショナルな雰囲気を纏っていた。
深夜、突然書斎のドアがノックされた。美咲は松本さんかと思いドアを開けると、健一が静かにドア枠に寄りかかっていた。「もう遅いぞ。」
美咲は無言で論文画面を閉じ、パソコンをたたみ、席を立つ。
健一は彼女が自分を無視するのを見ると、眉をひそめる。「俺の部屋に来い。」
「疲れてるの。」美咲は振り向きもせず断る。
健一は長い足で美咲に追いつき、階段の最後の段に差しかかったところで、手首をつかんで強引に寝室へ引っ張る。
美咲の目に強い拒絶の色が浮かび、声をひそめて抵抗する。
「離して」
健一は意に介さず、そのまま寝室に引きずり込もうとする。美咲は怒りが頂点に達し、思わず身をかがめて、彼の手の甲に思いきり噛みついた。