新学期の朝、美咲は娘に制服を着せていた。下では、スーツ姿の健一がきちんと待っている。
娘を学校に送り届けた後、美咲は健一に「私は歩いて帰るわ」と言った。
家に戻ると、美咲は車で雲江医大の研究センターへ向かった。エレベーターで省吾と出くわし、二人は軽く挨拶を交わしながら会議室へ向かった。
山本教授に挨拶して席に着くと、小林が会議の開始を宣言した。
「まずは朗報です。我々のラボが政府の重点支援プロジェクトに認定され、東区の実験センターも審査を通りました」
続けて品質検査の結果を報告し、さらに言った。
「昨年提出した事業計画書ですが、六社から反応がありました。総合的に判断した結果、三社による共同出資が決まり、うち佐藤グループが六十パーセントのシェアを持つことになりました」
「小林さん、それじゃあ、すぐにラボが建てられるんですね?」
「ええ、実験ビルもすでに用意されています。資金が入れば、間もなくプロジェクトを始動できますよ」と小林は笑顔で答えた。
省吾は心配そうに美咲を見つめたが、美咲は黙って考え込んでしまう。
結局、健一のことは避けられなかった。彼が最大の出資者になるとは——。
会議後、小林はわざわざ礼を言いに来た。
「美咲、佐藤さんが出資してくれるのは、あなたのおかげだよ」
美咲は驚いた様子で答える。
「私、彼に何も話してません」
「え、違うの?」と小林はさらに驚いた。
「研究室のこと、まだ一言も言ってないの」と美咲は首を振る。
小林はそれ以上何も言わず微笑んだ。省吾と美咲は食堂へ向かった。
「旦那さんが最大の出資者になった気分は?」と省吾が尋ねる。
「投資のことは私には分からないわ」と美咲は苦笑した。
「でも、見る目は確かだよ」と省吾が評価する。
健一がビジネスで見せる強さを思い出し、美咲は不思議とは思わなかった。会社を引き継いでからの急成長で、投資業界の一角を占める存在となっていたのだ。
少し離れたところでは、晴子が果実の腕を取って、美咲を嫉妬まじりに見ていた。
「佐藤さんが来ると、森川さんは絶対一緒にいるよね」
晴子は鼻で笑う。
「友達としてならいいかもしれないけど、同僚としてはどうかしら」
「つまり……足を引っ張るってこと?」
「私は、彼女が基礎実験すらまともにできない方に賭けるわ」
その時、晴子の携帯が鳴った。
「はい」
「ラボ、もうすぐスタートするんでしょ?」
「あと数日で設立式よ。佐藤グループが六割のシェア」
電話の向こうで笑い声がした。
「彼の目の付け所はさすがね」
電話を切ると、果実が尋ねた。
「今のは、あのピアニストのお姉さん?」
晴子は淡々と答えた。
「ええ」
「姉妹そろってすごいね。一人はピアニスト、一人は医学の天才」
だが、晴子は興味なさそうだ。異父姉妹で、そもそも気が合わないのだった。
「佐藤社長と知り合いなの?」
「知り合いどころか、もしかしたら将来の義兄かもね」と晴子は省吾の背中を見つめながら言った。
果実は途端に媚びるような表情を見せた。
食堂の別のテーブルでは、省吾が美咲と免疫学について熱く語っていた。
「今はまだ技術が未熟だけど、ナノロボットで免疫細胞の働きを模倣できれば、ピンポイントで薬を届けて、炎症もリアルタイムでモニタリングできるようになるはずだよ」
省吾は真剣な眼差しで美咲を見つめる。
「美咲さん、あなたきみの研究室での実績は本当に素晴らしいよ」
「さあ、冷めないうちに食べて」と美咲が笑う。
省吾は、食事を忘れていたことに気付き、苦笑した。
「あなたと話していると、つい時間を忘れてしまうよ」
午後四時、美咲が娘の学校前でメールをチェックしていると、隣の駐車スペースに銀色のベントレーが停まった。
ふと顔を上げると、運転席の男性と目が合った。
美咲は思わず息を呑んだ。