美咲は冷ややかに一瞥をくれた。「健一、説明なんて聞きたくないし、喧嘩もしたくない。出て行くなら勝手にして。頭が痛いから、もう放っておいて。」そう言い残して、階段を上がった。
下に残された健一はしばらく呆然としていたが、やがてドアを乱暴に閉めて家を出て行った。
バタンという大きな音のあと、ようやく静寂が戻ってきた。
一晩眠ったあと、熱が下がった美咲は台所でお粥を作ろうとした。そのとき、玄関のドアが開き、松本が慌ただしく入ってきた。「奥様、ご体調を崩されたんですか?」
おそらく健一が休みを取らせていた松本を呼び戻したのだろう。美咲は微笑んだ。「ええ、ちょっと風邪をひいただけよ。」
「何か食べたいものはございますか? すぐに用意します。」
「お粥がいいわ。」
「承知しました。すぐに作りますね。」松本は手際よくエプロンをつけた。
松本は細やかに美咲の食事の世話をしてくれた。
「ご主人様から先ほどお電話がありました。奥様のご様子を気にされていましたよ。」松本はにこやかに言った。
「そう。」美咲は淡々と返す。
「ご主人様、本当に奥様のことを心配されているんですよ。」松本は和ませようとする。
美咲は顔を上げた。「松本さん、少し静かにしてもらえる?」
その晩、美咲はソファでテレビを見ていた。モモが膝の上で丸くなっている。玄関のほうから明るい声が響く。
「ママ!ただいま!」
栞奈が元気いっぱいに駆け込んできて、モモも飛び跳ねて迎えに行く。
「モモ、大きくなったね!」栞奈は嬉しそうにしゃがみ込む。
モモは尻尾を振りながら栞奈の周りをぐるぐる回る。健一もしゃがんでモモを撫で、モモは甘えるように健一の手にすり寄った。健一はモモの頭を優しく撫でた。
「ママ、パパから病気だって聞いたけど、もう大丈夫?」栞奈は美咲に飛びついた。
美咲は微笑みながら頷いた。「もう元気よ。」
「じゃあ、今日はママとモモと一緒にいる!」栞奈は元気よく宣言した。
「うれしいわ。ママも一緒にいてほしい。」美咲は優しく娘の髪を撫でた。
「パパもどこにも行っちゃダメだからね!」栞奈は小さな大人のように言う。
「わかったよ。」健一も微笑んで答えた。
昼食には、松本が美味しい料理をたくさん並べてくれた。美咲はずっと娘の姿を目で追っていた。
午後は、松本と栞奈を連れてショッピングモールへ行き、そのあと公園を散歩した。
夜、絵本を読み聞かせているうちに栞奈は眠りについた。美咲が電気を消してベッドに横になると、ドアがそっと開いた。
健一がそばに来て、まず娘の額に手を当てる。次にそっと美咲の額にも手を当てて、熱を測る。
美咲は寝たふりをした。健一はすぐに手を引いて部屋を出て行った。
美咲は勘違いしない。これはただ、娘に病気がうつらないか心配しているだけだ。
*
健一は娘を連れて佐藤家に戻った。前回、詩織との一件以来、美咲はこの家に足を運ぶのをためらっていたが、今夜はどうしても行かざるを得なかった。
リビングでスマホを見ていると、詩織がコーヒーが薄いと使用人を怒鳴りつけている声が聞こえた。どう見ても八つ当たりだ。
叱られながらも笑顔を絶やさない使用人を気の毒に思いながら、美咲はフラワールームへ移動した。
ダイニングでは、雅子が座って場を和ませている。
「栞奈ちゃん、今年は中級クラスだったかしら?」
「ええ、来学期からです。」美咲が答える。
すると雅子が突然口を開いた。「近くに評判のインターナショナル幼稚園があるんだけど、栞奈ちゃんを転園させてはどうかしら?」
美咲の心がざわつく――義母は娘を引き留めるつもりなのか。美咲は健一の反応をうかがう。
「いいじゃない、母さんが栞奈の面倒を見てくれれば。」詩織がすぐに賛成する。
「栞奈の気持ちを尊重しよう。」健一はそう言った。
頼りにならないと悟った美咲は、落ち着いた口調で言った。「お母さま、栞奈にはもう友だちもいますし、転園はきっとなじめません。」
「お義姉さんは栞奈を手放したくないだけでしょ? そのほうが悠々自適でいられるもんね。」詩織が皮肉を込めて言う。前回の水難事故のことをまだ根に持っているようだ。
「詩織、栞奈はずっと美咲と一緒にいたのよ。母親が世話をするのが一番よ。」義母が美咲をかばう。
「別に間違ったこと言ってないじゃない。」詩織がそっぽを向く。
雅子は栞奈に向き直った。「栞奈ちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしてみない?」
栞奈はきょとんとした様子で、「じゃあ、ママは?」と聞いた。
「ママはいつでも会いに来られるわよ。」
美咲は内心で緊張する――もし娘が佐藤家に情を移せば、親権争いで不利になるからだ。
「やだ!ママに送り迎えしてほしいし、転園もしない!」栞奈ははっきりと意思を示した。
雅子の笑顔が一瞬曇り、美咲に鋭い視線を送った。
美咲は心の中で大きく息をついた――娘のこの言葉が、何よりの味方になってくれる。
これからは、「母親」という存在が娘にとってかけがえのないものになるよう、努力しようと美咲は心に誓った。